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理助。玄蕃助。玄蕃充。
佐久間盛次の子。母は柴田勝家の妹(姉という説と二説あり)。
鬼玄蕃の異名をとる。
佐久間盛次の項でも書いたように佐久間信盛との確実な繋がりは不明。
『尾張群書系図部集』によれば佐久間盛通に四子あり。
盛明、盛重、盛経、信晴。
佐久間信晴の子が信盛、信辰とあるので佐久間盛次と佐久間信盛は従兄弟同士となるが、この家系図以外にそれを示すものは無いようだ。
佐久間信盛は織田信長の重臣として力を付けていくが、佐久間盛次・盛政父子はさほどの華々しさは見られない。
『織田信長家臣人名事典』では佐久間盛次は佐久間信盛の与力となった様に書かれており、風下に立ってしまい目立たなくなってしまったのでしょうか。
そうであれば佐久間盛政が父盛次や佐久間信盛よりも伯父の柴田勝家に接近していったのは、佐久間信盛に対して何か対抗意識があったのかも。
初陣は『佐久間軍記』によれば永禄十一年(1568 )箕作城攻め。
佐久間盛次に付き従い、武功をたてたとあります。
以降、佐久間信盛や柴田勝家の軍勢と共に転戦。
本能寺の変後は、柴田勝家に従う。
やがて賤ヶ岳の戦に突入するが、佐久間盛政の動きは重要なキーポイントとなる。
実際、佐久間盛政の攻撃は凄まじさも感じる。
羽柴秀吉勢をくさびを打ち込むように突き進んだ。
だが、戦力・局地戦術は秀吉の大きな範囲から囲む戦略・戦術に敵うものではなかった様だ。
秀吉の留守を狙った攻撃も予想外の秀吉の引き返しに敗れてしまう。
戦場より逃げ延びることはできたが、やがて捕まり引き回しの上、河原に於いて討たれた。
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