桶狭間前夜:

 
この頁は過去に掲示板等で投稿した幾つかの内容をまとめ加筆再編集したものです。
何を今更…と思われる方も多いかもしれませんが、管理人の気まぐれとでも、お思い下さいませ。
時折、問い合わせ・質問などを受けますので、ここに書いた方が早いかもしれないので。

 
 
 
 
1560年(永禄3)、織田信長が駿河の今川義元を桶狭間の戦いで討ちとった。
 
学校の歴史の授業で必ず習う出来事である。
授業でも幾分かの時間を割き、先生が解説してくれる事でしょう。
その解説が近年、若干ながら変わりつつある。
教科書では今川義元が尾張へ攻め込んだ理由が記されていない。 記されていない部分は先生が補足説明をする。
その補足説明が先生により異なっていたりすることもある。
授業で習った事が、その児童生徒の保護者(つまり親)が子供の頃習った話と違ってきたりする。
 
つまり。
今川義元が尾張を攻めた(桶狭間の戦が起こった)きっかけは、今川義元が将軍職を望み京へ上ろうとした為だとするのが、古くから習ってきた補足説明だった。
最近は「今日まで進むつもりは無く、単に尾張を狙った」という理由が重きを成し始めてきている。
とは言うものの、これもの一つという事に過ぎない為、先生によってバラつきが出る原因にもなる訳だ。
 
 
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そこでまとめて見たい。
 
伝統的な説…今川義元の京への進軍説。
これは、戦前に記された参謀本部の『日本戦史』が興味深い。
陸軍参謀本部が今まで日本で起きた合戦…桶狭間や関が原、大坂の陣などを軍部の視点でまとめたものである。
当然、軍事の専門家であるから、それなりに価値は高い。
それ故、日本史・・・殊に合戦の歴史は、この参謀本部編纂の「日本戦史」が重要な資料となってきた様だ。
しかし、軍事のプロ集団であっても、歴史の専門家という訳では無い。
出来事の解釈や推理が偏る事がある。
それが長年、指摘されずにいたのが、最近になって漸く見直しが求められてきた様だ。
 
ともかく『日本戦史』を見てみよう。
原本は手に入らないので復刻本を参考に・・・
『旧参謀本部編集「日本戦史」桶狭間・姉川の役』桑田忠親・山岡荘八監修:徳間文庫
 
   ちなみに・・・誤解が無い様に一応、付け加えます。
   「桶狭間・姉川の役」は「桶狭間の役」「姉川の役」を合冊したものです。
   「桶狭間の役」とは「桶狭間の戦」の当時(編纂時)の呼び方。
   「役」は「戦争」の事です。
   一部、ネット上で「役とは外敵との戦争や辺境地域での戦争」と解説されていますが
   それは誤りではないかと思います。
   何故なら「桶狭間」は辺境ではないですし、今川義元は外敵ではありません。
   「室町時代には尾張も京にとっては辺境だった」
   「駿河も京からみたら外国同然だった」等と、無理やりな解説をされている方も
   いらっしゃるようですが、無茶です。
   「大坂の役」(=大坂冬の陣・夏の陣)まで辺境となってしまいます。
   また、「役」を付けて呼んだのは編纂当時の事であり、室町時代・江戸時代に名付け
   られた訳でもないです。
   「役」は「戦役・戦争」の事です。
   戦後教育の過程の中で幾つかの歴史用語が見直され、「桶狭間の役」や「関が原の役」が
   「桶狭間の戦い」や「関が原の戦い」に改められただけだと思います。
   教科書で「前九年・後三年の役」「文永・弘安の役」と習ったのが頭に残り、桶狭間や
   関ヶ原と比較して「辺境だ」「外敵だ」というイメージが強く思い出されるだけだと
   感じます。
   「日本史教科書と言えば山川」
   という事で、山川出版社の「詳細 日本史 改訂版」を眺めたら
   「大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)」と太字で記されておりました。
   同じく山川出版社の「新課程 日本史B 用語集 A併記」(1995年版)も開いてみました。
   B版教科書19社中「大坂の役(陣)」10社・A版教科書4社中「大坂の役(陣)」3社で記載と
   なってます。
   国内中心地での戦を役と表記する事は特例ではない様です。
   やはり、古く戦を役と表記していたものの幾つかが「戦」に改められただけと考える方が
   無難かと思います。
   
話がそれました。戻ります。
 
 
 
 
 

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