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零戦(零式艦上戦闘機) は、日本海軍の主力戦闘機。海軍の艦上戦闘機としては実質的な最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終わりまで各地で活躍したことで知られる。三菱重工が開発し、当時世界水準を超えた初の純国産戦闘機「九六式艦上戦闘機」を成功させた堀越二郎技師を再び設計主務者に任命、三菱技術陣の努力と試行錯誤の末、海軍の高い要求性能をクリア。世界最高水準の制空戦闘機が生み出された。太平洋戦争初期の活躍はめざましく、連合国の戦闘機をことごとく駆逐し、「ゼロファイター」の名で恐れられた。実質、終戦まで海軍の主力戦闘機として戦い、大戦全期間を通じての実績は日本陸海軍戦闘機中随一であり、最も活躍した機体であった。
最終的には10,000機以上の零戦が生産された。生産は三菱のほか、ライセンス生産により中島飛行機(現在の富士重工=スバル)でも生産され、総生産数の半数以上は中島製であった。
世界中を圧倒した高性能戦闘機の誕生
1940年9月13日のデビュー戦は華々しいもので、13機の零戦が27機の中国空軍機(ソ連製 ポリカルポフI-15/I-16戦闘機)を撃墜または撃破。約2倍の数の敵機を圧倒し、零戦は全機無事帰還するという一方的な戦果を挙げた。500km/hを超える最高速度と高い運動性能(他国の戦闘機よりも旋回性能が格段に優れていた)、長大な航続距離、7.7mm機銃2挺&20mm機銃2挺の大火力を併せ持ち、パイロットの高い技量もあって太平洋戦争の緒戦において無敵ともいえる活躍を見せたことから、太平洋戦争初期の優秀戦闘機といわれる。
大馬力化が遅れ苦戦を強いられた太平洋戦争後期の闘い
零戦の太平洋戦争初期における無敵ともいえる活躍は、ひとえに高い運動性能に支えられたドッグファイト(格闘戦)における勝利によるものであった。零戦との戦闘におけるあまりの損害の多さに、敵前逃亡にことのほか厳しいアメリカ軍が「積乱雲とゼロ戦は避けて飛んでよい」という通達を出すほどであったが、やがて大馬力を活かした一撃離脱戦法をはじめとする対零戦戦術を確立。零戦はその最大の強みである運動性能を封じられ、次第に苦戦を余儀なくされるようになった。戦争末期には特攻用に使用される一方、本土防空戦をにらみ大馬力化が模索されたが、実戦投入に間に合わず終戦を迎えた。
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中国上空を飛ぶ第12航空隊所属の零戦11型 |
零戦11型[A6M2a]
〜中国戦線で初陣を飾った初の量産型
1937年(昭和12年)9月、日本海軍は当時の欧米列強戦闘機に勝る高性能を誇った「九六式艦上戦闘機」の後継となる新型戦闘機(後の零戦)開発をスタートさせた。「十二試艦上戦闘機計画要求書」の中で海軍が新型戦闘機に求めた要求性能は、三菱の設計主務者 堀越二郎技師らが「ないものねだり」と評し、ライバル社の中島飛行機が途中で辞退するほど当時としては非現実的なものであった。かくして三菱単独での開発となり、一時は完成が危ぶまれたプロジェクトであったが、堀越二郎技師ら三菱技術陣の類い稀な設計能力と不屈の努力はついに「十二試艦上戦闘機(A6M1)」を完成、稀代の名戦闘機「零戦」誕生の礎を築いた。開発に際し、住友金属工業がタイミング良く従来素材に比べ格段に高い強度と軽量化を両立させた「超々ジュラルミン」の開発に成功し、この素材を機体に使用できたことや、さらに試作3号機以降、エンジンを当初計画されていた三菱製「瑞星」一三型(875hp)から、よりパワフルで完成度の高い中島製「栄」一二型(940hp)に換装できたことが、その成功に大きく寄与したといわれる。その後もテストが重ねられ、2翅から3翅プロペラへの変更、エンジン換装に伴う後部胴体の延長や垂直尾翼の大型化などの改良を実施。完成度が高められた十二試艦戦は、1940年(昭和15年)7月に「零式一号艦上戦闘機」として制式採用され、後の名称基準改訂により「零式艦上戦闘機一一型(A6M2a)」に改称した。早々に中国戦線に配備された零戦一一型が初陣で華々しい戦果を挙げたのは前述のとおりだ。
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国立科学博物館の零戦21型(複座改造型) |
零戦21型[A6M2b]
〜真珠湾作戦でデビューした代表型式
陸上発進の局地戦闘機として実戦配備が始まった零戦一一型をベースに、艦載戦闘機として空母での本格運用を前提として改良された型が零戦二一型である。空母のエレベーターに載せやすいよう翼端を50cmずつ折り畳める機能が追加された他、一一型では省略されていた着艦フックや無線帰投方位測定器といった艦上機用装備も追加、本格的な艦上戦闘機として進化を遂げた。
零戦二一型は“最も零戦らしい零戦”とも言われるが、その理由としてまず挙げられるのは航続距離の長さだ。同時代の英スピットファイアや独メッサーシュミットBf109が1,000kmに満たないのに対し、零戦二一型は増槽なしで2,222km、落下式増槽タンク使用で3,200kmもの長大な航続距離を誇った。これにより戦闘行動半径は長くなり、燃料残量の制約を極力減らし、搭乗員が長時間滞空して戦闘を継続出来るという強力なアドバンテージとなっていた。加えて、運動性能が優れている点も理由のひとつだ。超軽量の機体(ライバル機の米F4Fワイルドキャットに比べ約1トンも軽量!)と広い翼面積が、比類無き小さな翼面加重をもたらし、格闘戦に有利な抜群の運動性能に結実。その設計ポリシーが最もよく反映されていたのも零戦二一型であった。1940年(昭和15年)に正式採用され、真珠湾作戦で初陣を飾った零戦二一型は、ベテラン搭乗員の技量の高さと相まって、緒戦の日本軍の快進撃を支え、多くの伝説を生み出すこととなった「零戦」の代表格といって良いだろう。
零戦32型[A6M3]
〜燃費を捨て高速を目指した角型翼端の零戦
零戦三二型は、離昇出力を20%アップ(1,130hp)した中島の新型エンジン「栄」二一型を搭載する性能向上型「二号型零戦」として開発がスタート。1942年4月頃から量産が開始され、同年秋頃には実戦投入された型である。零戦二一型の主翼端の折り畳み機構を廃止、50cmずつ短縮し翼端を角型に成型しているのが外見上の特徴である。二一型に比べてエンジン出力が向上すると共に過給機の変速数が2速となり、高高度での速度向上が見込まれていた。出力向上により燃料消費量が増える分、主翼内燃料タンク容量を増やすことで、航続距離は従来型を大きく下回らないと想定。また、翼端をカットし翼面積を減らすことで空気抵抗を抑え、高速化と製造・整備のしやすさを実現し、さらに従来型零戦の欠点とされた高速時でのロール(横転)性能の低さを改善することも狙っていた。しかし、試作機のテスト結果は当初の計算値を大きく下回り、航続距離は従来型の3,200kmから2,380kmへと大幅に短縮、期待された高速性能も零戦二一型より僅か11km/hの高速化にとどまるものであった。ただし、速度、上昇力、上昇限度の各数値は零戦二一型に比べて向上しており、急降下性能やロール性能も改善されている。また、20mm機銃の携行弾数を60発から100発に増やすことで武装強化が図られている。
零戦22型[A6M3] /甲[A6M3a]
〜曲折を経て正統進化を遂げた零戦の理想形
「二号型零戦」としてデビューした零戦三二型であったが、前線への配備時期が長大な距離を往復する航空作戦が中心となる「ガダルカナル攻防戦」と重なったことは不運であった。期待された新型零戦が作戦に役立たない事態が問題視され、急遽航続距離を伸ばした「二号型零戦改」を開発、1943年1月に「零式艦上戦闘機二二型」として正式採用された。エンジンや胴体部分の基本設計は三二型と同一だが、翼内燃料タンク容量を(左右の翼内に各45L)増設。それに伴う重量増加に対応するため、主翼を二一型と同じ翼幅(12m)に戻し、翼端折り畳み機構も復活した。結果、急降下制限速度は低下したが水平面での機動力は向上し、航続距離も一号型零戦とほぼ同じ水準に回復した。零戦二二型は発動機に変更が無いことから、三二型同様、機種記号は「A6M3」とされたが、量産途中から採用された長銃身の新型20mm機銃「九九式二号三型20mm機銃」に換装されたタイプは、機種記号「A6M3a」、制式名称は「零式艦上戦闘機二二型甲」とされた。零戦二二型は航続距離短縮という三二型の欠点を克服し前線に投入されたが、その頃にはガダルカナル攻防戦は終わりソロモン諸島に前進基地が設置されており、皮肉にも航続距離回復の意義は薄れていた。しかしながら「長大な航続性能と高い運動性能」を誇る零戦のコンセプトはそのままに、極限まで進化させた理想形ともいわれる。
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52型の推力式単排気管と長銃身型の20mm機銃 |
零戦52型[A6M5] /
甲[A6M5a] /乙[A6M5b] /丙[A6M5c]
〜推力式単排気管を採用した、武装・防御力強化型零戦
次々と現れるアメリカ軍の新型戦闘機はいずれも大馬力を誇り、これに対抗すべく速度性能アップを主眼に開発された型式が零戦五二型である。エンジンはそのままで速度性能を向上させるべく、再び主翼端の折り畳み機構を廃して翼幅を11mに短縮、翼端は円弧状に成型された。また、エンジン排気によるロケット効果を狙ってそれまでの集合排気管方式をやめ、各シリンダーからの排気を極力そのまま後ろに導いて推進力としても利用する「推力式単排気管」方式が採用された。これらの改修が奏功し、試作1号機の飛行テストでは、二二型に比べて最高速度が約25km/h向上、上昇力や急降下制限速度の向上も実現した。反面、水平面の旋回性能や航続性能は低下することになったが、速度性能向上という所期の目的を達成したことをもって、1943年8月に「零式艦上戦闘機52型(A6M5)」として制式採用。直ちに量産が開始された。
敵戦闘機の重武装・重装甲化と、戦局の悪化に伴うベテラン搭乗員不足に対応すべく、零戦五二型には次々と改修が重ねられ、多くの派生型が存在する。従来のドラム給弾式20mm機銃(携行弾数100発)をベルト給弾式の「九九式二号四型20mm機銃」に換装し、携行弾数を125発まで増加させた五二甲型(A6M5a)に続き、機首右舷の7.7mm機銃を「三式13.2mm機銃」に換装し前部風防を45mm厚の防弾ガラスとした五二乙型(A6M5b)、両主翼に三式13.2mm機銃を1挺ずつ追加(機首左舷の7.7mm機銃は撤去)し、座席後部に頭部保護用の55mm防弾ガラスを追加した五二丙型(A6M5c)など次々と武装・防御力強化型が開発、生産された。しかし、機体重量の増加にエンジンの大馬力化が追いつかず、強力な武装と2000馬力級のエンジンを備えたアメリカ軍戦闘機の前には無力であり、制空戦闘機としての存在意義を次第に失っていった。
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特攻用ともいうべき62型 |
零戦62(63)型[A6M7]
〜零戦最後の量産型は、神風特攻用ともいうべき急降下性能向上型
六二型は、恒常化しつつあった神風特攻に対応させるべく、五二丙型および五三型(五二丙型のエンジンを水メタノール噴射装置付きの栄三一型に換装し、自動防漏式防弾燃料タンクを装備した型として開発されるも、開発遅延により、生産は既存の五二丙型に集中することになり開発中止になった型)の胴体下に250kg爆弾の懸吊架(落下増槽懸吊架兼用)を設け、急降下制限速度の向上を図った型式。エンジンには水メタノール噴射装置を備えた栄三一型を装備予定であったが、同エンジンの開発遅延のため水メタノール噴射装置を除いた栄三一甲型/乙型を搭載。五二丙型の派生型を六二型、五三型の派生型を六三型と呼ぶが、機種記号は共通のA6M7とされた。大型爆弾を搭載しての急降下にも耐えられるよう、水平尾翼をはじめ各部縦通材を強化、胴体下面の外板厚増加も実施されている。“敵艦の対空砲火にさらされながらも確実に体当たりが可能な戦闘機”の開発が行われた結果生み出された、零戦の改良型とは言い難い悲運の型式といえるだろう。残念なことに、結果的に本型が零戦の最終量産型となり、終戦間際の短期間に数百機が生産された。
零戦54(64)型[A6M8]
〜大馬力エンジン搭載で運動性能を取り戻すも実戦に間に合わず
五四型/六四型は、重武装と重装甲さらには爆装に伴う構造強化などにより、持ち味である軽快な運動性能を失っていた零戦に、大馬力の三菱製「金星」エンジンを搭載し再び制空戦闘機としての能力向上を狙ったタイプ(五四型が試作機、六四型が量産機に付けられた型番)。従来の中島製「栄」エンジンより直径が103mm大きい「金星」搭載のため機首の13.2mm機銃は撤去、カウリングは全面的に再設計されている。また、スピナー及びプロペラは、同型エンジンを搭載する彗星三三型と同じ物に変更されている。本型式は、このエンジン換装によって零戦本来の運動性能を取り戻すことに成功したが、試作機完成が終戦直前の1945年(昭和20年)4月だった上、金星エンジンの生産ラインがアメリカ軍による空襲で破壊されていたため生産が進まず、実戦で活躍することなく終戦を迎えた。本型式が零戦の最終型式となった。
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零戦52型は外板を外したスケルトン仕様で組み立てられるほか、エンジンや胴体、燃料タンク、機銃などを外して整備中の状態を再現できる。また、完成後も主要部品の組み換えや分解ができるパーツ構成になっているのが嬉しい。〔記事全文〕
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