中 尊 寺

本 堂 金色堂  経 蔵  鐘 楼  弁慶堂
 天台宗東北大本山。山号を関山といい、慈覚大師を開山(開基850年)とします。
12世紀のはじめ、奥州藤原氏の初代清
衡公が多宝塔や二階大堂など多くの堂塔
を造営しました。その趣旨は前9年・後3年という長い戦乱で亡くなった人の霊をなぐ
さめ、仏国土を建設するものでした。14世紀に惜しくも堂塔は焼失しましたが、なお
金色堂はじめ3000余点の国宝や重要文化財を伝える平安美術の宝庫です。
奥州藤原3代夢の跡をたどる
日本に独立国家を建設した奥州藤原氏は藤原清衡にはじまる。清衡は肥沃で地形
的にも有利な平泉で、理想郷・仏国土建設に着手、悠久平和を願って中尊寺を建立
平泉文化の基を築いた。遺志を次いだ2代基衡はさらに壮大な毛越寺建立に着手。
毛越寺を完成させた3代秀衡は、陸奥守に任ぜられ、まさに「北方の王者」となった
のだった。
奥州藤原氏の栄枯盛衰
藤原3代秀衡の時代に奥州藤原氏は最盛期を迎え、平泉は一種の独立国家の様
を呈する。そしてここで源義経が登場する。義経は16歳から21歳まで平泉で過ご
すが、兄・頼朝の挙兵を知るや合流。だが平氏討伐後、頼朝との確執が深まり、義
経は再び平泉へと戻る。それは鎌倉幕府を敵にすることを意味していた。秀衡の死
後、4代泰衡は、一族の対立も起こり、苦悩の末、平泉を守るために義経を急襲し、
自害に追い込む。だが時勢はそれほど甘くはなかった。頼朝の軍の前にに追われ
た泰衡は、1189年、家臣に討たれ命を絶つ。ここに奥州藤原氏は滅亡した。
(旅王国より)