岐阜地裁における
第1回口頭弁論のあらまし
2000年9月20日

岐阜地裁における第1回口頭弁論終了後の報告会にて
(左から井口浩治弁護士、水谷博昭弁護団長、丸井英弘弁護士、訴訟原告)

訴訟原告の意見陳述のあらまし

 原告は、被告岐阜県教育委員会により平成5年4月1日付で藤橋村立藤橋中学校教諭より岐阜県教育委員会事務局指導部文化課事務職員へ異動を命じられ、同時に財団法人岐阜県文化財保護センターに派遣されたものであります。原告はその間、事業主である水資源開発公団より岐阜県に委託され、さらにセンターへと再委託された徳山ダム建設事業に伴う旧徳山村内の埋蔵文化財の発掘調査、整理調査に従事してまいりました。
 調査対象である多数の遺跡は、原告が昭和53年4月に徳山小学校へ赴任以来、昭和62年3月の廃村に至るまでの9年間、およびそれ以降にわたって続けられた、原告をはじめとする「徳山村の歴史を語る会」「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」などの活動の結果発見されたものであります。原告は旧徳山村の歴史を後世に残すために、学校教育に従事するかたわら、これらの調査にも全力を傾けてきたのであります。被告は原告のこの業績を十分承知した上で原告を県教育委員会事務職員に登用し、旧徳山村の遺跡調査における成果を期待してセンターへ派遣したことは明らかであります。
 原告はセンターにおいては、平成5年より3か年にわたり旧徳山村の寺屋敷遺跡のただ一人の発掘調査担当者として、原告自身がかつて発見した同遺跡の調査に従事致しました。調査ではそれまでの県教育委員会・センターの予想を覆して、平安時代・縄文時代の遺構が累重していることを発見したばかりか、地表約2.5メートル下より多数の旧石器時代の遺物を発見したのであります。これまで1万2千年前の縄文時代に始まると考えられてきた旧徳山村の歴史が、2万3千年以上前に遡る岐阜県でも最古級の遺跡であることを、原告は明らかにしたのであります。これは山間峡谷部には旧石器時代の遺跡はないとする、日本考古学の常識を覆す発見でもありました。
 遺跡の調査は発掘調査の後、整理作業・整理調査、報告書作成をもって終了するものであります。とりわけ開発事業に先立って行われる発掘調査は、「記録保存」と呼ばれるとおり、永久に消滅する埋蔵文化財を後世に残すための、現段階における唯一の手段といっていい貴重な調査であります。しかるに被告は、寺屋敷遺跡の整理作業への着手を目前にした平成9年3月31日、何の前触れもなく原告を突然解職し、同年4月1日付で池田町立池田小学校への異動処分を下したものであります。原告が寺屋敷遺跡調査担当者としての社会的責任を全うしたいと、早くからその意思を申し出ていたにもかかわらず、被告は原告のセンターにおける調査が業務途中であることを承知の上、一方的に解職・異動処分を下したのであります。埋蔵文化財行政を著しく軽視し、消失する遺跡調査への教育行政としての責任を放棄するものに等しいものといわざるをえないのであります。また、この処分が原告の学問的良心とそれまでの業績を著しく傷つけたばかりか、県人事委員会の審理においても原告の業績と訴えを被告は「不知」であると強弁し通し、今日に至るまで原告は心に傷を受け続けているものであります。
 原告は、最後まで寺屋敷遺跡調査担当者としての責任を果たしたいと、強く求めるものであります。裁判所におかれましては、原告の訴えに十分耳を傾けていただき、水没する旧徳山村の埋蔵文化財調査に対する、文化財行政が果たすべき社会的責任とはいかなるものであるのか、適切なご判断がいただけることを確信致しております。
 以上をもちまして、原告の意見陳述といたします。

第1回口頭弁論傍聴記 
「長編小説」を法廷で
桐生正市

第二ラウンド開始

 ついにというか、やっとというか、裁判が始まった。6月5日の岐阜地裁への提訴から3か月以上が過ぎた9月20日、第1回弁論が開かれた。実をいうと、私はもう第1回弁論は終わったと思っていた。うっかり傍聴をさぼってしまったと勘違いしていた。知らせを受けて、「え、まだやってなかったの」と驚いたほどである。6月に提訴して、被告側の答弁書が出てきたのは8月だった。それで9月20日に期日が設定されたのである。
 岐阜地裁は初めて入るが、法廷は広くて、天井が高い。その高さが威厳を醸している。まるでドラマを見るような雰囲気だ。
 出席した被告側の弁護士は、大塩氏ひとり。ご存じの通り、人事委員会の際にセンター側の代理人をつとめていた方だ。
 この裁判から原告弁護士に井口浩治氏(名古屋弁護士会)と丸山英弘氏(東京第二弁護士会)が加わった。最初からついている水谷博昭氏と合わせて、3人の弁護団ができたことになる。井口氏は水谷氏から「一緒にやってほしい」と言われていた。丸山氏はインターネットのホームページでこの問題を知って、弁護団に参加した。真のIT革命とは、金儲けではなく、空間を超えた市民のつながりが実現することである。
 1時10分、裁判官入廷、全員起立。闘いの第二ラウンドの始まりだ。と、思ったら、同時刻に入っているいくつかの他の裁判が先に行われた。どれも簡単なやりとりで、すぐ終わった。そして、やっと本当に第二ラウンドが始まった。
 原告・被告双方が着席してからはじめに、裁判長が原告側弁護団にいくつかの質問をした。法廷が広いためか、裁判長の声が聞き取りにくいが、文化財保護センターと雇用関係があったことを示す根拠は、給料以外にないかというようなことを尋ねている。
 裁判の弁論は書面のやり取りで終わることが多い。刑事事件でないので、被告人の罪状認否などもなく、面白くも何ともないものである。だが、それに配慮してか、今回は原告から意見陳述が行われた。
 広い法廷に篠田さんの声が響く。裁判官の左陪席はかなり興味を持って聞いているようだ。裁判長は無表情。大塩弁護士は目を閉じている。篠田さんは紙を持つ手が少し震えているようだ。傍聴席には県やセンター関係者とおぼしき数人が座っている。彼らは職務として裁判に関われるからいいが、原告や応援している人たちは、仕事を休んで来ているのだ。世の不条理さに少し怒りを覚えた。

逃げ道をふさぐ訴え

 この裁判の被告は三者ある。まずは、遺跡の発掘作業を行った財団法人岐阜県文化財保護センター。雇用関係の確認、寺屋敷遺跡の調査に従事させること、調査途中で担当を外されたことによる精神的苦痛への補償を求めている。これは県人事委員会のときと同じ。
 さらにこの裁判から、岐阜県と岐阜県教育委員会に対しても訴えを起こしている。97年4月1日付けで池田小学校へ転任させた異動を取り消して、センターへ出向させることと、その転任などによる精神的苦痛への補償を求めている。
 この裁判の大きなポイントは、「精神的苦痛」である。センターは現在、寺屋敷遺跡の報告書を作成していて、もう印刷している段階という。これが完成すると、訴えの利益がなくなる。だから、被告側はこの裁判自体意味がないから、もう終わりにしようと言うことができる。
 ところが、そのような逃げ道をふさぐのが「精神的苦痛」である。これがあると、報告書ができようができまいが関係ない。精神的苦痛はつづいているからだ。それどころか、調査担当者の調査方針を十分に理解せず、事実が物語る徳山村の歴史の真実を十分に描ききれない報告書ができあがったとしたら、さらに篠田さんに精神的苦痛を与えることになる。この項目があることで、裁判所は門前払いにすることはできない。だから、寺屋敷遺跡の考古学上の価値など、県人事委員会ではできなかった審理が行われるだろう。
 もちろん、金が欲しくてこの訴えがあるのではない。意見陳述では、「水没する旧徳山村の埋蔵文化財調査に対する、文化財保護行政が果たすべき社会的責任とはいかなるものであるか、適切なご判断がいただけることを確信致しております」と結んでいるように、あくまでも審理が最後までできるようにするための手段である。
 以前、県人事委員会での篠田さんの尋問を「長編小説」と書いた。同委員会にはお気に召さなかったらしく、敢えなく却下されたが、地裁ではそうならないことを期待しよう。
 それにしても、である。仕事を一生懸命やってきた人が苦しめられる岐阜県とは、一体どういうところだろうか。職員に対して冷たい自治体は、住民に対しても冷たい。これは私の偏見だろうか。