岐阜県人事委員会における
第8回公開口頭審理のあらまし
(1999年11月16日)

 さる11月16日、第8回県人事委員会による公開口頭審理において申立人側は最終意見陳述書を提出し、申立人本人と代理人水谷博昭弁護士がその要旨を陳述しました。一方、処分者側である県教委はこれまでの主張通りとして最終意見陳述を行わないまま結審し、ここに3年近くに及ぶ県人事委の審理はすべて終了しました。判決に相当する「決定」の告知は、公開の場で行われるものではないそうです。突然1通の「決定書」が送付されてくるというのです。今は県人事委が最終意見陳述に十分耳を傾けた上、後世に禍根を残さない良識ある決定を下されることを信じています。

申立人側による最終意見陳述書(要旨)
の陳述

第1章 申立人の財団法人岐阜県文化財保護センター派遣以前の活動と成果

 第1節 申立人の徳山小学校在職中の活動と成果

(1)申立人の徳山小学校赴任と徳山村内埋蔵文化財分布調査の開始

 申立人は昭和53年4月より昭和55年3月まで徳山村立徳山小学校常勤講師、昭和55年4月より昭和62年3月まで徳山村立徳山小学校教諭として徳山村廃村まで同小学校に勤務しました。この間、同小学校塚分校、同小学校櫨原分校、同小学校門入分校に勤務し、徳山村廃村までの9年間にわたって徳山村に在住し小学校教育に従事してきたのであります。
 申立人が徳山小学校に赴任した昭和53年は、水資源開発公団による徳山ダム建設事業に伴う補償交渉が本格化していた時期でありました。中学生時代より考古学を学んできた申立人は、考古学を通して地域の歴史を明らかにすることをライフワークとしてきました。また地域にあって、地域の皆さんや児童・生徒とともに地域の歴史を明らかにすることが、公教育に従事する考古学徒に課せられた課題であるという信念のもとに教育活動に励んできたのであります。
 当時徳山村では村内の埋蔵文化財の実態については、1か所しか発見されておりませんでした。申立人は、赴任直後の昭和53年4月に、徳山村大字徳山(通称本郷)在住の根尾弥七氏他と共に徳山村の歴史を語る会を結成し、徳山村内の埋蔵文化財の分布調査を開始いたしました。それは、村内にはもっと数多くの未発見遺跡があるはずであり、このままでは徳山村の歴史が明らかにされることなく水没してしまう恐れがある。」という共通の強い願いがあったからであります。申立人の活動は(1)科学的な方法論に基づく学術的な調査であったこと、(2)学校教育への活用が十分に図られていたこと、(3)地域に根ざした生涯学習に寄与するものであったこと、の3点をあげることができますが、ここでは時間の関係上(1)を中心に陳述するものとします。

(2)考古学界への報告とその評価

 申立人は申立人等の活動を基に昭和56年11月、論文を『古代文化』に発表いたしました。そして、この論文発表と同時に、申立人は徳山村教育委員会より岐阜県教育委員会を経由して「遺跡発見届」を文化庁に提出したのであります。
 この論文報告の遺跡については、翌昭和57年7月に電源開発株式会社・中部電力株式会社による『徳山発電所・杉原発電所環境影響調査書』の「2−14 文化財およびレクリェーション施設」中の「文化財」の項にそのすべての遺跡が掲載されております。掲載にあたっては申立人執筆論文を出典としていることが明示され、申立人の論文がこのアセスメントに寄与するところが大であることは明らかであります。
 さらに同年9月に申立人は伊藤禎樹氏と共著で論文を『岐阜史学』第76号に発表いたしました。同論文は県内のみならず県外においても、発掘調査報告書、論文等に引用されるなどの評価を受けているものであります。
 申立人はこれら論文発表に引き続いて、昭和59年7月『徳山村のあけぼのを求めて−岐阜県揖斐郡徳山村遺跡分布調査中間報告−』(篠田通弘編、徳山村の歴史を語る会刊、380頁。)を出版いたしております。これは埋蔵文化財分布調査の集大成であると共に、考古学界に対して発表した学術調査報告書でもありました。『徳山村のあけぼのを求めて』に対しましては、我が国最大の会員を有する考古学会である考古学研究会の会誌において紹介、評価がなされたのを初め、岩波書店が日本考古学を集大成し刊行した『岩波講座日本考古学』においても徳山村の歴史を語る会の活動、そして次に述べる同会を母体とした「徳山村の自然と歴史と文化を語る集い(徳山村ミニ学会)」を紹介されるなどの評価が与えられております。これらは、申立人等の活動と業績が考古学研究上重要であるとして、全国的にも評価されていることを示しているのであります。

(3)徳山村の学際的研究への寄与と岐阜県教育委員会の評価

 申立人は徳山村の考古学的調査・研究にとどまらず、徳山村の学際的研究にも大きな業績を残しております。
 昭和58年8月、第1回「徳山村の自然と歴史と文化を語る集い(徳山村ミニ学会)」が開催されておりますが、これは申立人を中心に全国の研究者に呼びかけたもので、呼びかけに応えて植物学、動物学、言語学、建築学、民俗学、歴史学、考古学、口承文芸、地名学などを研究する多数の研究者が参集することとなったのであります。申立人は「集い」の事務局として徳山村ミニ学会の開催を支え、第4回まで毎年1回8月に徳山村で開催してきたのであります。
 申立人等の徳山村の歴史を語る会の活動、徳山村の自然と歴史と文化を語る集い(徳山村ミニ学会)の活動と成果は岐阜県議会においても取りあげられております。
 昭和59年12月19日には定例岐阜県議会本会議の各党代表質問において、吉田豊岐阜県教育長(当時)は森真県議会議員(当時)の質問に答えて、『徳山村のあけぼのを求めて』を取り上げております。そこで申立人等の活動について岐阜県教育委員会として評価していることを述べ、徳山村の遺跡の調査に着手する旨を明言したのであります。申立人等徳山村の歴史を語る会の諸氏は、テレビ中継されたこの教育長答弁を、万感の思いを持って、徳山村にあってテレビを注視したのであります。「水没する徳山村の遺跡が調査され、後世に残される。」その喜びがいかばかりであったか、ここにおられる人事委員諸氏並びに処分者諸氏におかれましてもご想像いただけるものと確信いたしております。
 昭和60年3月22日には遺跡分布調査の成果と『徳山村のあけぼのを求めて』の発刊に対して、徳山村の歴史を語る会に対して昭和59年度芸術文化特別奨励賞が岐阜県教育委員会より授与されております。この授与は先の県議会答弁を受けて行われたものであり、処分者が申立人等の活動に対してこれを十分熟知し、評価していたことを物語っているのであります。
 なお、処分者発行の徳山村の埋蔵文化財発掘調査報告書等には申立人等の業績について、常に引用されており、申立人の名前と共にその著作が紹介されております。それはセンター派遣前の申立人の業績について処分者が十分に熟知していることを物語っているのであります。

(4)徳山村廃村に当たっての申立人の業績

 申立人は村にあっては、『広報とくやま』あるいは徳山村の歴史を語る会主催の「徳山村の原始・古代展」を通じて村民に広く紹介する社会教育活動を継続しております。又、学校教育にあっては教材としてスライド映画を作成し、活用するなどの実践を積んでおります。
 廃村を目前に控えた昭和60年、これまでの申立人の業績を評価した徳山村教育委員会は、廃村に際してこれまでの調査の成果を本としてまとめ全世帯に配本したい旨の依頼を申立人に行っております。申立人は2年間かけて『大昔の徳山村』を執筆し、廃村直前の昭和62年3月に同書は完成、徳山村全世帯に同書が配布されたのであります。申立人に廃村記念誌ともいうべき同書の執筆を依頼したことは、徳山村当局が申立人の徳山村在住9年間にわたる調査・研究の業績と村民への公開の姿勢を高く評価していたからに他ならないのであります。
 また、徳山小学校・徳山中学校は、廃村に伴う両校の閉校に先立って閉校史の作成を申立人に依頼し、申立人は『大昔の徳山村』と並行してわずか4か月で『徳山 伝芳の心永遠に』(徳山小学校・徳山中学校刊、201頁。)を完成させたのであります。これは申立人が埋蔵文化財調査だけでなく、勤務する徳山小学校における学校教育においてもその役割が評価されていたことを意味するものであります。

 第2節 申立人の藤橋中学校在職中の活動と成果

(1)申立人の藤橋中学校への異動と藤橋村における評価

 申立人は徳山村廃村と同時に合併先の藤橋村立藤橋中学校に異動、藤橋村に在住すると同時に教諭として同中学校に昭和62年4月より平成5年3月まで勤務いたしました。
 申立人は徳山村から揖斐谷へと発展させた第5回「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い(揖斐谷ミニ学会)」を藤橋村で開催しております。
 一方、申立人は徳山村廃村後も旧徳山村内の分布調査を継続しております。平成元年には揖斐谷ミニ学会有志によって旧徳山村の藤橋村大字山手字沢焼にある、通称「寺屋敷」と呼ばれる山の尾根部分の略測調査を行い、同年9月、揖斐谷ミニ学会の分布調査結果として寺屋敷遺跡、普賢寺跡の2遺跡の遺跡発見届を藤橋村教育委員会より岐阜県教育委員会を経由して文化庁へ提出したのであります。今日、明らかな旧石器時代の遺跡としては岐阜県最古級とも言われる寺屋敷遺跡でありますが、この時点では岐阜県と水資源開発公団との発掘調査に関わる協定には全く含まれておらず、遺跡であることは知られていなかったのであります。申立人等による分布調査がなければ、寺屋敷遺跡の存在は全く気づかれることなく放置され、ダム完成の暁には水没する運命にあったことは明らかであります。

(2)揖斐谷の学際的研究への寄与

 申立人は旧徳山村内の埋蔵文化財分布調査にとどまらず、揖斐郡内の埋蔵文化財調査にも積極的に取り組んでおります。
 申立人は春日村教育委員会、久瀬村教育委員会、岐阜県教育委員会、坂内村教育委員会、藤橋村教育委員会、大野町教育委員会等より遺跡の分布調査、測量調査などの依頼を受け、これを成し遂げたのであります。
 一方「揖斐谷ミニ学会」は、平成8年8月の第14回揖斐谷ミニ学会まで毎年1回、継続して開催し続けております。この間、14年間継続して申立人は事務局を担当し、この間の参加者は計1450名を越すこととなり、揖斐郡内各村の村長・教育長が出席して開催される行事として、地域振興に多大の貢献をすることとなったのであります。申立人には藤橋村長より表彰状も贈られております。また、揖斐郡IB大賞も授与されております。これは申立人を中心として継続されてきた活動が、揖斐郡内において広く認められたことを証するものであります。
 申立人は平成4年2月5日付で文部省の学芸員資格認定試験に合格しております。岐阜県教育委員会は平成6年度より「埋蔵文化財専門員」を採用しておりますが、この要件として「博物館法に定める学芸員の資格を有する者、または取得見込みの者」としてあげていることは、埋蔵文化財専門員の資質として必要であると処分者が認めていることは明らかであります。申立人は平成4年にすでにこれを取得していたのであります。

(3)揖斐郡教育会における申立人の業績

 揖斐郡教育会は平成4年3月に『岐阜県揖斐郡ふるさとの地名』を刊行しておりますが、申立人は主任としてその調査・編集事業に当たっております。同書に対しては第11回全国地名研究者大会(日本地名研究所・川崎市主催)において地名研究賞が授与され、申立人は監修者とともに授与式に出席しております。学校教育と社会教育にまたがるこの刊行事業は、揖斐郡の学校教育に従事する申立人が、その力量を評価されて委嘱され、申立人はこれを成し遂げたのであります。
 この他にも申立人は徳山小学校当時に分校主任、保健主事、藤橋中学校においては研究主任、進路指導主事、生徒指導主事、教務主任を務め、また揖斐郡小中学校校長会より教育研究員に4年間にわたって任命されるなど、学校教育の場においても全力でこれに取り組んできたものであります。

第2章 申立人の財団法人岐阜県文化財保護センター在職中の成果

 第1節 寺屋敷遺跡の発掘調査

(1)申立人の登用と派遣

 申立人は平成5年4月に岐阜県教育委員会指導部文化課事務職員(補職名学芸主事)に任じられ、同時に財団法人岐阜県文化財保護センター(以下センターと略)へ派遣され、事務職員(補職名課長補佐)に任じられ調査課に配属されました。
 申立人の登用は、申立人があげてきた考古学上の調査・研究実績を処分者は十分に評価した上で、申立人を岐阜県教育委員会指導部文化課事務職員に登用し、徳山ダム建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査業務遂行に関わる成果を期待して、センターへ派遣したものであることは、明らかであります。

(2)寺屋敷遺跡調査に従事した申立人の業務内容−平成5年度−

 申立人はセンター派遣と同時に調査1課に配属され、課長補佐として徳山ダム建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査業務に従事しました。7月までに上開田村平遺跡の残務調査を終えた申立人は、調査担当者として寺屋敷遺跡の調査に着手しております。この時、申立人は直属の上司である調査1課長より「どうせ何もないだろうから、1か月程度で調査を終え、山手宮前遺跡の調査に合流してほしい。」という旨の指示を受けておりました。平成5年当時のセンターの現状は、全国的に採用されている試掘調査等の事前調査を実施することすら行われておらず、従って寺屋敷遺跡の場合は何の根拠もなく調査は簡単に終了するという予断をもって計画されていたのであります。
 申立人はまず、表土直下の第1次遺構面から礎石建物跡を検出いたしました。礎石建物跡は3間×3間で、灰釉陶器、鉄角釘などが多数出土し、遺物から平安時代後期(9〜10世紀頃)と考えられるものであります。これまで集落の存在すら不明であった平安時代の徳山地区において、礎石を有する建築物が存在したことは、極めて重要な発見でありました。と同時に、地元山手地区で伝えられてきた「寺屋敷」「観音屋敷」という地名伝承は、約1000年間にわたって正確に語り伝えられていたという、驚くべき事実を申立人は明らかにしたのであります。
 さらに、申立人は寺屋敷遺跡において第2次遺構面の存在を確認いたしました。縄文時代の土器集中箇所を検出し、層位的に礎石建物跡の下層にも第2次遺構面が存在することを突き止めたのであります。
 さらに、申立人は尾根西側斜面より多量の石器が出土することを発見いたしました。層位的に第2次遺構面の下層に相当することが明らかであったのでありますが、この石器集中箇所より2点のナイフ形石器を検出し、縄文時代より以前の旧石器時代(約1万2000年以上前の時代で、先土器時代、岩宿時代ともいう。)の遺物であることが明らかとなるという、大変な発見に至ったのであります。
 それまでは、徳山地区のような山間峡谷部に人が進出するのは、縄文時代になってからのことであり、旧石器時代人の生活には適していなかったとする、日本考古学のこれまでの定説がありました。申立人は寺屋敷遺跡の調査において、徳山地区という山間峡谷部において旧石器時代文化が存在したことを明らかにするという、学界の定説を覆す貴重な発見をしたのであります。
 10月の所内会議に先だって、申立人は吉田豊センター理事長に寺屋敷遺跡調査の経過について報告しております。吉田理事長はとりわけ旧石器の発見を高く評価し、11月23日に開催された現地説明会では多くの人々が参加しております。
 センターのこれまで徳山ダム建設事業に伴う発掘調査においては、発掘作業員はただ遺物を掘り出せばよいとする傾向が強く、遺物の出土状態についてもほとんど作業員の間では意識されておらず、所謂「潮干狩り」状態の発掘が続いておりました。申立人は調査現場において『寺屋敷遺跡だより』を発行し、作業員にも遺跡についての概要を説明し、調査の効率化と発掘技術のレベルアップに努力しております。すべての遺物を識別した上で測量して取りあげるという手法は、このような申立人の努力と補助調査員・作業員の協力の下に実現したのであります。

(3)寺屋敷遺跡調査成果の波紋

 しかしながら、センター経営側は必ずしも好意的にはとらなかったのであります。常勤理事である山崎春夫専務理事兼事務局長は、「篠田さんは困ったことをしてくれる。寺屋敷遺跡が貴重な遺跡だということが広がって、徳山ダム建設計画に支障が出たらどう責任をとるつもりだ。もしダム計画が中止にでもなったら、大変なことだ。」と申立人を叱責したのであります。センター経営の実質的な責任者である専務理事が埋蔵文化財発掘調査について十分理解せず、申立人の明らかにした成果を十分に認識していなかったばかりか、これを嫌悪さえするかのような実態であったことを示しているといわざるをえません。

(4)寺屋敷遺跡調査に従事した申立人の業務内容−平成6年度−

 平成6年度の寺屋敷遺跡の調査において、第1次遺構面から検出した礎石建物跡は最終的に3間×4間の礎石建物跡であることが判明いたしました。
 寺屋敷遺跡で平安時代の仏堂跡と考えられる礎石建物跡を検出したことは、調査中から各地の埋蔵文化財関係者に注目されるところとなりました。たとえば、神奈川県立埋蔵文化財センターの発掘調査報告書は申立人の名前を挙げた上で甲第13号証の1に申立人が著した寺屋敷遺跡の調査成果を引用しております。
 第2次遺構面では、竪穴住居跡1軒と多数の土坑、ピットを申立人は検出しております。このうち竪穴住居跡は、平安時代の礎石建物跡の真下から層位的に非常に良好な状態で検出されております。山の尾根の上から縄文時代の住居跡が検出されることは、徳山村では初めてのことであります。
 第3次遺構面(旧石器時代)の調査では、ナイフ形石器を含む直径2メートルほどの旧石器の集中箇所は、この年の調査によって直径4〜5メートルほどのさらに大きなものであることが確かめられました。これらの石器を含む包含層の廃土をすべて水洗選別した所、多数の砕片が含まれていることがわかり、石器製作場所であったことも明らかとなったのであります。全国の旧石器時代遺跡等の調査で行われている廃土の水洗選別は、センターにおいては申立人によって初めてなされたものであります。
 さらに土層の連続サンプリングの結果、第[層に相当する旧石器の包含層の上に位置する、第Za層からは多量の火山ガラスが検出されたのであります。この火山ガラスは分析の結果、今から2万2000年〜2万3000年前に鹿児島湾で大爆発をした、姶良(あいら)カルデラから噴出した姶良Tn火山灰であることが判明したのであります。AT降灰以前の石器群が後世の撹乱を受けずに検出されることは、中部地方でも非常に稀なこと等が鑑定によって明らかとなったのであります。

(5)寺屋敷遺跡調査に従事した申立人の業務内容−平成7年度−

 平成7年度の調査では、寺屋敷遺跡の現状は山の尾根上に位置するものでありましたが、約2万3000年以上前には、磯谷が形成した河岸段丘上の平坦地であったことが判明をいたしました。徳山地区で山の尾根部分にかつての河岸段丘が埋没していることが確認されたことはこれが初めてであり、旧石器時代の地形が今日とは全く異なっていたことを申立人は突き止めたのであります。
 石器集中箇所は径5メートルほどのものであり、サヌカイトと呼ばれる石材が持ち込まれていることも判明いたしました。また、サヌカイト製のナイフ形石器も検出しております。サヌカイトは大阪府と奈良県との府県境に位置する二上山産のものと判断され、旧石器時代において早くも広域の交流・移動による活動が行われていたという驚異的な事実が判明をいたしました。
 この成果については公団も注目をいたしております。平成7年10月24日には川本正知公団総裁、中部支社長、徳山ダム建設所長、同副所長、用地1課長他が寺屋敷遺跡を訪れております。これは、事業主である公団としても寺屋敷遺跡に格別の評価を下していたことの証拠であります。
 新聞発表後、11月19日に現地説明会が開催され、申立人は多数の参加者に説明を行いました。また、申立人は前年度に引き続いて『寺屋敷調査だより』を発行して、発掘調査の高度化と効率化に努めております。申立人は寺屋敷遺跡の調査においては計約250枚の実測図等の図面を作成し、加えて1000枚をはるかに越す写真(リバーサル、モノクロ)を撮影して、発掘調査の成果を残すことに努力しております。
 『飛騨美濃合併120周年記念事業 ひだみの文化の系譜』(岐阜県発行、平成11年。)中には寺屋敷跡(寺屋敷遺跡の誤植・・・申立人補注)について「貴重な発見と言える。」と記述されております。岐阜県が寺屋敷遺跡を重要な遺跡であるとの認識を持っていることは明らかであります。
 申立人は寺屋敷遺跡の発掘調査を基本的には平成7年度にすべて完了したのであります。

 第2節 長吉遺跡・普賢寺跡発掘調査報告書の作成

 申立人は平成5年度、6年度の寺屋敷遺跡現場終了後の冬期間には、長吉遺跡・普賢寺跡の発掘調査作成業務に従事しております。
 しかし、整理作業を開始して、両遺跡の調査方法に極めて大きな問題があることに申立人は気づいたのであります。調査開始前の遺跡の写真は、長吉遺跡では1コマも撮られていませんでした。また発掘調査中の遺物の出土状態を示す写真が、両遺跡とも全くといっていいほど撮られていなかったのであります。多数の遺構が検出された長吉遺跡においてすら、遺物の出土状態を図示した実測図が1枚の他は土層図がとられていただけという実態なのでありました。出土した遺物を遺構ごとに取りあげる指示すら出されていなかったのであります。
 故大参義一氏(愛知学院大学教授)は「結語」の中で、「今後の調査において留意しなければならない問題点」と、センターの調査のあり方に厳しい指摘を行っております。これは当時のセンター課長が「センター設立当初から調査が遅れることがあってはならない。何が何でも調査を終えよ。」と指示していたという、埋蔵文化財調査の基本的な調査事項すら行いえなかった調査のあり方そのものに、設立当初からのセンターの体質と、岐阜県の文化財行政を所管する文化課の姿勢に問題があったといわざるをえないのであります。

 第3節 塚(塚村平)遺跡の整理調査

 『長吉遺跡・普賢寺跡』報告書の刊行を終えた申立人は、命により平成7年度の冬期間、並びに平成8年度に塚遺跡の整理調査に従事しております。平成8年度は終了した寺屋敷遺跡の整理作業に当たるべきところ、調査担当者が異動によってセンターを離れていたため、報告書が未刊となっていた塚遺跡の整理作業に申立人は従事したのであります。
 塚遺跡は平成2年度に岐阜県教育委員会により、平成3年には新たに設立されたセンターによって、計1355平方メートルが発掘調査されております。このわずか1355平方メートルという調査面積に対して、出土遺物量が約7万点を数えるという、膨大な遺物が出土しておりました。また、調査では竪穴住居跡が6軒、特徴的な配石遺構等、多数の遺構が検出され、縄文時代中期後葉から後期前葉にかけての集落跡と考えられたのであります。しかし、塚遺跡はなぜか発掘調査では遺跡の全体は調査されず、第6号竪穴住居跡などは半分しか発掘されないまま調査を終了してしまっている。「仕様書」(乙第3号証)第6条の規定すら遵守されずに調査が打ち切られてしまうという、信じられない調査であったのであります。これは長吉遺跡・普賢寺跡で述べたように、遺跡のあり方を無視して強硬な調査日程が立てられていたことに起因するものといわざるをえません。この強行軍は杜撰というより他のないような塚遺跡の調査をもたらしております。すなわち、塚遺跡においては長吉遺跡、普賢寺跡と同様に、膨大な遺物がほとんど「潮干狩り」同然に取りあげられており、現場における写真撮影や実測図作成はほとんどといっていいほど行われていないのであります。
 このような中、申立人は整理作業に従事するや、塚遺跡の遺物量が膨大なだけでなく、縄文時代研究にとって重要な意味を持つ遺跡であることに気づいたのであります。縄文時代後期前葉については関東地方で考えられている編年と関西で考えられている編年が齟齬をきたしているという現状がありますが、塚遺跡は問題解決への重要な糸口となる遺跡であることに気づいたのであります。申立人が整理を担当した平成8年度だけでも各地からの研究者が多数揖斐川整理所を訪れ、度重なる検討会を持ち、申立人は整理作業の進行を図り、学術的検討を進めていったのであります。
 また申立人は『塚村平整理だより』を毎週作成・配布し、作業員研修を行い、作業員の技術・知識習得と作業の効率化に努力し、二次整理作業を進めております。申立人は業務遂行に全力を傾け、休日をほとんど返上して、早朝から深夜までこの作業に誠心誠意従事したのであります。しかし平成9年3月25日、申立人はセンター理事長より何の前触れもなく解職・異動内示を受け、作業が中断したものであります。
 申立人は「平成9年度調査現場の希望について」において、「寺屋敷遺跡・磯谷口遺跡の報告書作成業務への配置を希望します。寺屋敷遺跡は平成5、6、7年度の3年間にわたって一人現場として調査に従事した経緯があり、報告書作成によりその責任を全うさせていただきたいと思います。また磯谷口遺跡は寺屋敷遺跡とセット関係になる遺跡で、隣接して同時期に存在し、相互に密接な関係があることから寺屋敷遺跡調査終了まで報告書作成を遅らせた経緯があります。このような理由から希望をさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願い致します。」との希望を提出しております。しかしながら、全く何の前触れもないままに解職・異動の内示を受けたものであります。
 このようなセンターにおける場当たり的な人事が行われた原因として、次の2点を指摘せざるをえないのであります。
 まず第1点でありますが、平成10年9月、中央教育審議会から「今後の地方教育行政の在り方について」と題する答申(中央教育審議会答申)が出されたことは、周知の通りであります。この中には「地域住民の学校運営への参画」として「学校外の有識者等の参加を得て、校長が行う学校運営に関し幅広く意見を聞き、必要に応じ助言を求めるため、地域の実情に応じて学校評議員を設けることができるよう、法令上の位置付けも含めて検討することが必要である。」と、学校評議員制度が提言されております。この答申を受けて、岐阜県下の各学校に対して学校評議員制度を早急に策定するよう、各教育事務所を通じて指示が出されていることも周知の通りであります。学校教育においてすら提言されている評議員制度が、埋蔵文化財調査という専門的分野を担う財団法人岐阜県文化財保護センターでは設けられていないのであります。例えば財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所等では、早くから考古学・地質学等の専門家による評議員制度が設けられ、財団の調査に対する指導助言を行うシステムが確立しております。岐阜県の現状が不十分な調査の続発、あるいは調査途中での無原則的な調査員の交代、数合わせのような学校現場からの登用と一方的な帰任等に伴う埋蔵文化財調査上の多くの問題を引き起こす一因となっていることを指摘しないわけにはいかないのであります。

 第4節 財団法人岐阜県文化財保護センターの雇用実態と労働組合の結成

 第2点として、センターの補助調査員・作業員の雇用実態に端を発する問題があります。申立人はセンター派遣直後から、センターが雇用する約400名近い日々雇用の補助調査員・作業員が、労働基準法、社会保健関係各法、労働安全衛生法等に違反したまま就労していることに気づいたのであります。これに対して申立人は、度々所内会議等でこれを指摘し、違法状態の改善を働きかけてきたのでありますが、この要望は聞き入れられることがなかったのであります。
 不法な労働条件改善を求めて、平成7年2月26日に岐阜一般労働組合財団法人岐阜県文化財保護センター支部(委員長渡辺嘉蔵、支部長長坂薫、以下組合と略)が結成され、その支部長に申立人の戸籍上の配偶者が就任し、組合事務所を申立人宅に置いたことより、センター、並びに県は労働組合への根本的な無理解からこれを強く嫌悪し、組合運動の背後に申立人がいるものと勝手に邪推し、その影響を排除しようとしたものと思わざるをえないのであります。

 最後に、本日の新聞各紙朝刊に報道がなされておりますが、昨日東京高裁において注目すべき判決が下されました。それは、「生徒指導上の方針の違いから、学校長が学級担任を年度途中で交替させた件について、その影響の大きさを考えると特段の事情がない限り本人の意に反して交替させるべきではなく、この校内人事は学校長の裁量権の範囲の逸脱である」というものであります。埋蔵文化財の発掘調査において、発掘調査、整理作業、報告書作成までが、学級担任として4月から3月までの1年間の責任を全うすることに等しいのであります。
 申立人は、この先ずっとセンターに就労したいということを言っているわけでも、ましてや異動後を問題として不服申立をしたものでもありません。寺屋敷遺跡の発掘調査担当者として、報告書作成によりその責任を全うしたいということなのであります。これを強く申し上げて、私の陳述を終わらせていただきます。
                               (以上、篠田)

第3章 本件処分の違法性

(1)不服申立人は、平成5年4月1日に岐阜県教育委員会文化課事務職員に任命され、地方公務員法35条に基づき制定されている岐阜県条例である職務に専念する義務の特例に関する規則第2条第8号または第9号により、職務専念義務を免除されて、岐阜県と岐阜県文化保護センター間の職員派遣協定に基づいて、県職員の身分を保有したまま、同センターに派遣されていた派遣職員であります。
 ところで、地方公務員が任命権者から職務専念義務の免除を得て、他の団体業務に従事することについて、任命権者が職務専念義務免除を発令するか否かは、裁量権の行使であって、裁量権の範囲を逸脱し、またはその濫用があった場合でない限り、違法とはならないとする考え方が従来有力でありました。ところが、この問題について、平成10年4月24日の最高裁第2小法廷判決は、職務専念義務免除が職務専念義務及び忠実義務を定めた地方公務員法第30条35条の趣旨に反する場合は、当該職務専念義務の免除は違法になるので、職務専念義務の免除の効力が問題になる場合は、当該職専免が行われた事情の詳細、例えば派遣の目的・派遣先の性格及び具体的な事業内容・派遣職員が従事する職務の内容のほか、派遣期間・派遣人数等、諸般の事情を総合考慮し、同目的と派遣先の業務内容や職務との関連性を審理し、派遣の公益上の必要性に照らして、上記地公法上の趣旨に反しないか否かを検討しなければならないと判示するに至ったのであります。
 即ち判決によれば、地方公務員の職務専念義務を免除して、関連の外部団体に職員を派遣する場合は、それが地方行政の公益に十分かなうものでなければならず、これらの要件に欠ける場合は、当該職務専念義務の免除が違法性を帯びるというのであります。従って、ひとたび地方公務員を職務専念義務を免除して外部団体に出向派遣した場合、当該職員の出向を解いて帰任させえるためには、一定の合理的な行政目的がなければならず、そのような合理性ないし行政目的適合性なしに任命権者の恣意によって、派遣を解くことは違法であるという結論に到達せざるを得ないのであります。そうすると、当該職員が当該派遣の解除と帰任命令の効力を争う場合は、任命権者側は当該職員を引き続き派遣先に留めて、そこでの職務に従事されることと、派遣を解いて帰任させ、新たな職務に従事させたことの比較衡量を行い、後者がより行政目的に沿うものであることを主張立証しなければならないということになるのであります。
 処分者は、異議申立人に対する本件処分について、答弁書中の「処分者の主張」の中で「派遣職員は、あくまで県職員であるが故に、任命権者である処分者が毎年行っている定期人事異動の対象とすることは当然であって、申立人もその例外ではあり得ない。処分者は、平成9年度定期人事異動に当たり、本県教育の振興を期し、教育水準の維持向上を図るため、人事異動方針及び人事異動実施要項を定め、構成かつ適正を旨として、申立人を含む4236名に汲ぶ公立学校職員の人事異動を行った」と述べておりますが、前記判例の趣旨に照らすと、この主張では本件派遣を解いて、異議申立人を揖斐郡池田小学校教諭に転出させたことの適法処分性を主張したことには全くならないのであります。
(2)申立人の出向命令が解除された平成9年3月末日の時点で、申立人は
イ・塚遺跡の報告書作成の最後の作業段階に入っており、平成9年6月末頃に何とか同作業を終了させる見通しが立っていた。
ロ・寺屋敷遺跡については、平成5・6・7年の3ヵ年、申立人が唯一の調査員として発掘を担当して来たものであり、申立人は塚遺跡の報告書作成作業が終わり次第、これに着手すべくセンターに対して平成8年秋及び平成9年3月の段階で2度に亘って、事前にその旨の希望を伝えておりました。
 ところが平成9年3月25日の出向解除の内示の日に、揖斐川整理所で作業をしていた申立人に、センターの篠田幸男理事長から電話が入り、同月末日を以てセンター出向を解職し、岐阜県教育委員会に戻すことになったと告げられたのであります。その電話で理事長は、そのような人事が行われる理由について何一つ語らず、寺屋敷遺跡の報告書作成のために引き続きセンターに留まりたいと強く訴える申立人に対して「教育委員会文化課へ貴方の希望は出しますが、変わりませんよ」と言って電話を切り、その後、申立人は同年4月1日付で揖斐郡池田小学校への転出を命ぜられたのであります。申立人は岐阜県人事委員会に対して、本件不服申立を行ったのでありますが、その直後に同委員会の当時の事務局長岡安の仲介で、岐阜県教育委員会事務局教育主管岩田義孝と面談する機会が与えられ、その際、申立人は「不服理由は唯一寺屋敷遺跡の報告書作成業務が手つかずの状態で終わっており、これを行わないでセンターを去ることは派遣業務に対する責任を放棄することになる。自分は寺屋敷の報告書作成が終わった後であれば、いつ・どこへ配置替えされようが一切不服はない」と言ったのでありますが、岩田は個人的には申立人の気持ちはよく理解できると言ったものの、本件処分が撤回されることはなかったのであります。
(3)岩田義孝は、証言の申で申立人の教員としての人生の中で、この時期に学校現場に戻り中間管理職としての経験を積むことは申立人の将来のためには必要なことであり、その観点から本件人事が行われたとの趣旨の証言をしております。実際には申立人は池田小学校に於いて校務主任に現在配置されているのであって、岩田証人の証言内容は全く整合性に欠けていると言わなければならないのであります。なお、平成3年にセンターが設立されて以降、申立人がセンターヘの出向を解除された平成9年3月末日までの間に、センターに出向した教員系職員のセンター在籍期間で見る限り、重要な仕事を継続処理している途上にある申立人を在職5年目に出向解除する必然性はないのであります。
(4)申立人が寺屋敷遺跡の報告書作成を犠牲にして、急拠報告書作成作業を行った塚遺跡は、平成2年には文化課が平成3年にはセンターが発掘作業を担当したものであります。既に詳述したように、そのやり方は考古学の常識からはずれたずさんなものであり、後を引き継いだ申立人は、その整理分析に大いに難渋したのであります。そのおどろくべきずさんさは、調査員の能力の問題ではなく、徳山ダムの早期着工のために発掘を急ぐセンターの姿勢方針がもたらしたものであったと言わざるをえないのであります。
 それはともかく、報告書完成を目前にして、申立人を解任したセンターは申立人がボランティアとして休日を利用して報告書の完成を支援すると何度も申し出たのに、それさえも断わり、申立人が完成予定としていた平成9年6月から1年以上も遅れて完成した塚遺跡の報告書の例言には「本書の執筆は、時間・担当者の交代による制限があるため、事実のみの記載に留めた」と断わられており、報告書の結論である、「結語」の部分が全く欠落しているのであります。
 ところが、岐阜県とセンターが締結した発掘調査委託契約書(乙第2号証)に添付された仕様書第8条には、発掘調査報告書には必ず「結語」が含まれるべきことが定められているのであって、即ち、この契約に照らせばセンターが塚遺跡に付いて作成した報告書は欠缺品であって、岐阜県に対して民事責任を負わなければならないものであります。また、その事に県の文化財行政の直接責任者である教育委員会文化課課長が気づいていない県のずさんな文化財行政もまた厳しく非難されるべきであります。本件手続きとの関わりで言えば、申立人に対する理由のない出向解除と配置転換が、このような結果を招来したと言うことが出来るのであります。このセンターの仕事の原因と結果について、岐阜県教育委員会が等しく非難を受けなければならないのであって、決してセンターの責任であって県教育委員会に責任はないと言ってはならないのであります。
(5)このように申立人に対する理由のない出向解除配置換えが、塚遺跡という重要な文化財の整理と作業評価に著しい質の低下をもたらしたことは一目瞭然であり、現在進行していると思われる寺屋敷遺跡の発掘作業の結果の整理と報告書の作成に於いては、塚遺跡の場合に見られた能率の悪さと質の低さというマイナス効果がより増幅されて発生することが容易に推認できるところであります。
(6)申立人に対する出向解除と配置換えが、このような結果をもたらすことは素人であっても容易に予測できることでありますが、それでは何故センターと処分者がこのような不合理な人事をあえて行ったのでありましょうか。その真相は、未だに処分者側の口から語られておりませんが、諸事情を総合すると、センターが劣悪な雇用条件で日々雇用している400名余の補助調査員・整理作業員の中から、労働条件改善を求めて労働組合結成運動が起こり、平成7年2月26日に遂に岐阜一般労働組合財団法人文化財保護センター支部が結成され、補助調査員であり、申立人の妻である篠田薫(通称長坂薫)が支部長に就任し、支部の組合事務所を申立人宅に置いたことに対して、処分者とセンターは申立人が背後で労働組合に影響を与えていると誤って邪推し、その影響力排除をねらって行ったものであるとしか考えようがないものであります。
 以上述べた諸事情を総合すると、岐阜県埋蔵文化財行政の充実発展のためには、処分者は申立人に平成9年度以降もセンターに出向させて塚遺跡の報告書作成業務・寺屋敷遺跡の埋蔵物整理と報告書作成作業に従事させ、これを申立人の手で完成させるべきであったのであり、そうすることが申立人を平成5年4月にセンターに出向させた趣旨に最も沿うことになるのであります。本件処分を取り消し、再度申立人をセンターに出向させるべきであることを述べ、最終意見陳述を終えます。
                                        (以上、水谷)

人事委員会は「大作」を
理解できるだろうか
□□公開口頭審理傍聴記□□
     
            桐 生 正 市

 残念で不十分な審理

 最後の傍聴記になった。98年5月15日の第1回から1年半、今回が最終の公開口頭審理である。これまで審理が打ち切られず続けられてきたのは、傍聴者の〃数の力〃によるものだろう。
 11月16日、いつも通り、シンクタンクセンター5階の大会議室が会場だ。前は県庁3階の3北・1会議室だったが、途中からこちらに変更された。だが、今回はいつもと内容が違う。これまでは、意見陳述書と証人尋問だったが、最終回は最終陳述で異議申立人と処分者側が主張を述べ合う。通常は双方とも陳述書を事前に提出し、それを陳述に替えるが、今回は篠田さん側が要旨を陳述することになっている。篠田さんと水谷弁護士は、400字詰め原稿用紙に換算して約160枚にも及ぶ大作をもって臨んだ。
 開会後、これまでの尋問速記録の訂正のあと、陳述が始まった。
 篠田さんが立ち上がってマイクなしで話そうとすると、傍聴席から「聞こえるようにマイクを使って」と言われた。「聞こえるように話すから」と答え、大きく通った声が会場に響いた。
 陳述は、篠田さんが中学時代の話から始まった。考古学好きの少年は、大学を出ると、徳山小学校へ赴任し、地元の人たちとともに遺跡調査に力を注いだ。センターに派遣後は、寺屋敷遺跡の発掘を1人で担当、報告書を作成する段階になって、突然異動を命じられた。これは陳述というより、徳山の歴史を解明した男の物語だ。「人に歴史あり」というが、篠田さんもまた歴史のある人である。
 その陳述を聞いていると、今までの審理の光景が目に浮かんできた。水谷弁護士の鋭い質問に「わからない」「覚えていない」を連発する岩田義孝・元教職員課主管。塚遺跡の考古学的価値を知らない竹山妖司・文化課長が傍聴席から「課長失格だわ」と言われた場面。公開審理の後に開かれる「喫茶フジ」での報告会などなど?。
 これで最後かと思うと本当に残念だ。篠田さん側が申請した、篠田幸男氏(センター理事長)と石部正志氏(奈良県五條市立五條文化博物館館長)への証人尋問も認めるべきだった。特に石部氏の尋問がないと、篠田さんの異動による文化財行政への影響がわからない。審理としては不十分である。専門知識のない私には篠田さんの業績、つまり寺屋敷遺跡や塚遺跡の考古学的価値はわからず仕舞いだった。だが、徳山でいい仕事をしてきたということはわかる。平日にもかかわらず傍聴席に多くの人が座っている光景が何よりの証拠である。それを人事委員会が汲み取るかどうか。

 派遣には納得できる理由が必要

 この審理でのポイントは、人事委員会が職員の給与や地位以外についての不服申し立てをどう判断するかである。処分者側である岐阜県教育委員会は、給料が減ったわけでも、通勤できないほど遠くへ異動させられたわけでもなく、篠田さんへは不利益が生じていないので、異議申し立ては却下されるべきと主張している。客観的に見て、この主張は間違いではない。
 地方公務員法では、人事委員会は「職員に対する不利益な処分についての不服申立に対する裁決又は決定をする」(第8条1第10項)と規定されている。全国的にも判例がある。その点から、篠田さんの訴えは人事委員会の判断の外にあるとも言える。たとえると、ラーメン屋でハンバーグを注文するようなものである。
 確かに同8条の他のどの項目にも、今回の場合のように異動が行政全体にとって不利益になるかどうかを「裁決又は決定」することが人事委員会の目的に挙がっていない。だが、それをしてはならないとも規定されていない。これからの時代は、そこまで言及するべきだというのが篠田さん側の訴えである。
 この主張の根拠は、審理の中で何度も出てきた最高裁の判例である。
 1988年4月、神奈川県茅ヶ崎市の職員が同市商工会議所に出向させられ、給与は市から支払われていた。この職員は市立病院の事務長で、地方公務員法第35条に定められている職務専念義務を解かれて、商工会議所に派遣させられたのである。この給与支出が違法だとして住民が市長と商工会議所を訴えていた裁判で、昨年4月24日に最高裁は、支出の違法性を認めなかった高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した。
 最高裁判決では、「本件職務専念義務の免除及び本件承認を適法と判断するためには、右目的の達成と本派遣との具体的な関連性が明らかにされなければならない」としている。つまり、茅ヶ崎市立病院の事務局長を職務専念義務を解いて、商工会議所に派遣させることが適法と認められるためには、茅ヶ崎市の商工業振興策にどれだけ役立って、どれだけ公益性があるのかをハッキリさせなければないのである。
 それを発展させて考えると、公務員の職務専念義務を解いて派遣させるときだけでなく、派遣から元の職場に戻すときにも納得できる理由が必要になるだろう。
 遺跡を調査してきた教師を教育委員会に異動させ、そのまま埋蔵文化財を発掘調査している公益法人に派遣させることは、文化財保護行政にとってたいへん利益がある。その公益性は疑うところがないだろう。ならばその先生を教育現場に戻すときも、担当していた遺跡の調査が全て終了したなど、当然それなりの理由が必要になる。それがないなら、派遣の意味がなくなり、公益性が台無しになってしまう。
 ここ数年、アカウンタビリティ(説明責任)という言葉が重視されている。行政は自分たちの仕事の意義を説明できなければならないということである。この主張はなかなか定着しないが、もっと受け入れられるべきだ。そうでなければ、職員の給与が減らないならどんな人事をしてもいいということになる。その意味で、最高裁判決は画期的で、まさに「最高」の判決だった。
 篠田さんの異動について、証人尋問では納得できる説明がされなかった。それだけで、岐阜県はアウトなのである。

 悲しみではなく喜びの涙を

 問題なのは、異動についての異議申立を審理する機関が人事委員会しかないということだ。そこは職員への不利益だけを判断するということになれば、一体、人事異動が行政へ悪影響を与える場合はどこで審理をするのか。
 それはお上のすることに間違いはないという幻想からきている。今までどれだけの被害がこれによって引き起こされてきたことだろうか。薬害エイズしかり、長良川河口堰しかり。そして、徳山ダム。それに異議を唱えることははばかられ、訴えると罪人のように白い目で見られる。
 これまで、徳山ダム計画で大きく問題にされている自然破壊と水需要の問題と、篠田さんの異動は全く別物だと考えてきた。しかし、根本的には同じだったのである。一度決められたことは変更できない。理由もロクに説明できない。この国にはアカウンタビリティなど針の穴ほどもなく、誰も責任を取ろうとはしない。
 徳山ダムは着々と工事が進められているが、今となっては全く意味のないシロモノではないか。そのために貴重な遺跡は水没させられる。このダムによって徳山村民は離村を余儀なくされたばかりか、将来、市民は財政的負担を強いることになる。そのとき、誰も責任を取らず、謝りもしないだろう。
 この1年半の傍聴を終えて、開放感と同時に、激しい憤りを感じている。篠田さんの異議申し立てが、その問題を社会に問いかけるきっかけになってほしい。
 人事委員会の決定はどうなるかわからない。予想では篠田さんにとって厳しいものになるとみられる。だが、まだ第1ラウンドを終了しただけかもしれない。長い闘いがつづくだろう。最終陳述を終えた篠田さんは涙ぐんでいた。前日に自宅で陳述の練習をしたとき、涙が出てきたという。最後に流すのは悲しみではなく、喜びの涙になってほしい。