Home, Sweet Home.


 バート・バカラックの曲で "A house is a not a home"という曲があります。また英語にはMen make houses, women make home.というこれまた当たり前のようなことわざがあるそうです。つまりhomeとは家族によって成り立つものであり、houseは所詮homeの入れ物でしかないという事です。しかし、いくら「狭いながらも楽しいわが家」でも、6畳一間で家族4人が生活するような密航者のような生活では物理的に無理があり、快適な生活を求めて人はhouseを建てるのでしょう。かくいう私・亭主も子どもの成長に従い、現在の2LDK*を脱出してhouseをこさえることにやぶさかではなく、前向きに検討を重ねたところ先立つもんがないということに気がつきました。世の中、金のなる木はないかと思うんだけど、まかぬ種は生えぬもんだし、まあどうにもこればっかりは仕方ない。

(*この文章を書いて2年後の2000年秋に脱出しました)

 実はこの「house less」状態は小生が初代でなく、小生の父親からしてそうだったという筋金入りです。古いはなしですが、昭和39年前後、小生が幼稚園児の頃、小生の一家は借家住まいでした。東京の最北部にあるそのhouseは、同時に父親の仕事場を兼ねたものでしたが、年一回コールタールを塗りかえる黒板塀に囲まれて、猫の額ほどの庭があり、隣に長唄のお師匠さんが住んでいて、夏の夜は三味線の音が聞こえてくるような風情で、小生は今でもhomeというとそのhouseを思い出します。しかし、小生の父親は借家住まいということがいやだったのかどうか(借家の期限があったのかもしれない)、休日毎に幾度となく土地探しに出かけました。小さかった私は父親と出かけられるのがうれしくて、よく一緒についていきました。が、結局条件の折り合いがつかず、夕暮れの町を二人でとぼとぼと帰ってきたのを思い出します。そんなとき、小生の父は不動産屋の最寄り(たいていはド田舎)の駅前の一杯飲み屋に寄ってメートルを上げ、小生も一緒にごはんを食べた覚えがあります。今、二児の父親となってそのときの父の気持ちが少し分かるような気がします。

 それから5年あまりして小生の父は、とある中古物件を買い求めたのです。しかしそこは、もともとのオーナーが仕事場のみにするために建てた建物であったため、家族の生活するようなspaceは全くなく、最初の半年は仕事場をカーテンで仕切って、板敷きのうえに古畳を積んだ上で生活するような(つまり震災の避難所のような)状態でした。のちに2回・増改築を行ってどうにか家族の生活スペースを確保しましたが、今度は不動産購入に伴う借金返済のため父母とも仕事が多忙となり、家族で話をするチャンスも少なくなり、子どもだった小生も兄もあっという間に成人し、結局小生の父親はhouseを手に入れた代わりにhomeを失ってしまいました。今も両親の住むその家は仕事場であり、houseであっても小生にとって決してhomeではありません。

 家族が増えて新しい巣をもとめるということは動物としての本能にねざした行為のような気もするし、にもかかわらず手頃な価格のhouseを見つけることは相変わらず容易ではなく、かなり無理してhouseを手に入れたため、家族の生活のバランスが崩れ、結果的にhomeが崩壊してしまう・・・・という光景はこの国ではどこでもみられるような気がします。

 そもそも家族が家族らしく暮らしている期間というのは子どもが生まれてから成人するまでの期間であり、せいぜい20年間前後ではないでしょうか?。しかし平凡な勤め人が家を建てるには、25年ローンや30年ローンを組まざるを得ず、結局、子どもたちが成人して出ていった後、ガランとした家の中で老夫婦2人で会話もなくローンだけがが続いている家って多いんだろうな。余ったお金はすべからく貯蓄に回し、今日の楽しみは明日以降にとっておくというわが国の貧乏性な国民性のせいでそうなるのかなあ?。まあ、私・亭主といえど土地付き一戸建て(できれば注文住宅)がほしいなどと詮無い希望はもっているのですが、子育ての「旬」を過ぎ、子どもたちが出てっちゃってからまでローン返済したいとは思いません。今は「旬」を楽しみたいと思います。

 まあ、これは持てざるもののひがみみたいなもんだと思うけれど、houseにはこだわらず、homeにこだわってこれからもやっていこうかなと思います。