〜*〜  本会議場 市民の討論広場 メイン会場  〜*〜

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#3101/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 1(Sat.)  17:23  ( 42)
a@001 はじめに     一久
★内容

 我々の議論は、つまるところどのようにすればより良い政治が
 実現するのか、ということにつきる。

 それに対する私の答は、極めて単純で簡単なのもだ。

 しかしながら、同時に今の世の中(西暦2011年の地球)の
 常識とは著しく異なっている。

 簡単ではあるが常識と異なる。それはほとんど理解し難いという
 ことを意味する。

 なぜならば、簡単かつ常識であるということは、「間違いない」
 ものであるはずだと信じられているもののことだからである。

 人々がかたくなに信じている「簡単な常識」を疑わせ、自分の頭
 でもういちど考えなおしてもらわない限り、この論理を理解する
 ことはできない。

 はじめに、結論を述べておこう。

 「より優れた政党内民主主義を実現している政党に選挙で投票する」

 たったこれだけのことで、政治は良くなるのだ。

 だがこれは、今の常識とはかなり違う。

 そもそも、選挙において何を基準に投票すべきかを論じ合ったことす
 らないのが普通ではあるまいか。

 そして、なんの考えもなしに、「自分の意見に近い政党」だの「清潔
 な政党」だの「利害が一致している政党」だのに投票している。

 あるいは「政権交代」だの「お灸をすえる」だの「勢力バランスをとる」
 だの、といった打算によって、である。

 そして、最大多数の国民は、そのいずれにおいても投票すべき政党を
 見出せず、無党派層として流動的に投票しているのである。

 「選挙における投票とは、何を基準にすべきか」という根本的な討議を
 せずに、国家は選挙を行い、国民は投票所に向かう。あなおそろしや。



#3102/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 3(Mon.)  19:14  ( 31)
bQ  良い政治とは     一久
★内容

 【良い政治とはなにか】

 良い政治とは、住みやすい世の中を作ることである。

 単に経済的に楽だとか、娯楽にあふれているだとかだけではなくて、
 人として生きがいのある社会、誇りを持って生きられる社会を作る。
 同時に、余暇や安らぎも保たれねばならない。

 それらがバランスを保って、よりよき世界を目指す行為。それが政治
 というものである。

 「住み良い社会を作る」これ政治の第一義である。

 政治問題において迷った時には、ここに帰って判断すべし。いかなる
 良案も、正義もイデオロギーも、その結果が住み良い世界を意味しな
 いならば、それは政治的に間違っていることになる。

 「鮑叔は傲岸不遜にして宰相に任にあらず」と管仲は死の床で桓公に
 言った。中華第一の紳士である鮑叔が傲慢な人物である訳も無い。

 正論を通す為に主君である桓公と衝突し、ついにはそれを討つか、逆
 に鮑叔が引退するかするようになる、という意味である。

 それでは住み良い社会にはならない。正論を掲げつつも現実と妥協し、
 段階的に良くしていく忍耐(というかいい加減さ)が必要だと言って
 いるのである。

 後年の、孔子が魯公に仕えた態度は、まさにそのようなものであり、
 ゆえに孔子は官界を去らざるをえなくなった。



#3103/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 3(Mon.)  20:10  ( 28)
a@003  よい政治のために必要なもの     一久
★内容

 【良い政治の為に必要なもの】

 古今東西、名君のすることは決まっている。

 広く意見や知識や新規珍奇な文物を求め、新しき制度を導入
 し、誤りあればすばやく修正する。

 新しき物事を見出すのも、体制や政策に誤りを発見するのも、
 人々からの意見聴取にある。

 すなわち、言論の自由あってこその良い政治である。

 言論の自由があってこそ、権力者の不正は糾弾され、政策
 の過ちは糾されるのである。

 名君はそれを知るがゆえに、忍耐をもって痛耳に耐える。が、
 凡君はそれに耐えられない。明君もまた、老いては凡君以下
 となる傾向がある。

 君主によって与えられた言論の自由は、君主の器量の限界が
 自由の限界となり、政治の限界となる。

 ゆえに、君主制は結局は弱い。




 

#3104/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 4(Tue.)  10: 1  ( 67)
a@003 識者は大衆の部分集合である     一久
★内容

【言論の自由とはなにか】

 言論の自由なしには、自浄能力の無い社会となり、政策の誤り
 を糾すこともできない、ということを述べてきた。

 しかし一方で、野放図な言論の自由を許せば、衆愚の跋扈を許
 し、大衆受けする意見や、利己的な主張がまかり通るという懸
 念を示す人も多い。

 ゆえに、民主主義とは衆愚政治であり、言論の自由とは馬鹿が
 大声で叫ぶ自由にすぎない、と彼らはいう。

 しかし、である。

 もしも大衆に言論の自由を与えなければ、いわゆる識者や専門
 家の言動も同時に封じ込められてしまうということに彼らは気
 づいているであろうか?

 なぜならば、権力者や各分野の権威者は、自分達に都合の悪い
 意見や、理解できない論理を、衆愚の一部として圧殺してしま
 うからである。

  光が重力によって曲がるという仮説でさえ、アインシュタイ
  ンが皆既日食時の観測によって確かめられるという方法を提
  示する以前には、「出来の悪い学生の答案」だと言われてい
  たそうな。

 誰でもが言論の自由を持つということこそが、識者や専門家に
 自由な発表の場を作るということなのである。

 大衆と専門家は別の「集合」に存在するものではなくて、大衆
 という集合の中の部分集合が、識者や専門家というものなのだ。

 いわゆる識者諸君はここのところを誤解しているようだ。

 大衆と別の集合となる識者とは、今現在において権力・権威・
 権限を持っている者のことだけである。

 反体制派の識者でさえ、自分がグループ内で持っている権威に
 寄りかかっていることに変わりはない。

 それ以外の者は、いかに優れた言説を吐いても、グループの権
 力者達に理解されなければ、衆愚の一員として葬られることに
 なる。

 「識者は大衆の部分集合」である。

 ゆえに、大衆に言論の自由が無ければ、識者にも言論の自由は
 ありえない。

 あるのは、「権」を持った「いわゆる識者」の言論だけである。

 「しばしば、マスコミに登場するという”権”」
 「有名人であるという権」
 「権力者に近しいという権」
 「悪名が高いという権」

 これらも、政治権力の一部に他ならない。

 大衆の自由を否定する者は、自分自身が大衆の一部であること
 を理解していないか、なんらかの形で既存権力にコネを持って
 いる者である。




 

[ コメント数 1 読む(F3104) ]

#3105/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場    *** コメント #3104 ***
★タイトル (********)  11/ 1/ 4(Tue.)  10: 2  (  4)
Re:3104 間違えた 003 ← は 004     一久
★内容

 「a@004」でした。

 修正って、出来ないんだったかなぁ・・


#3106/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 4(Tue.)  20:47  ( 42)
自由な言論の場     一久
★内容

【言論の自由に必要なもの】

 大衆に自由な言論を許せば、好き勝手なことを言い出す。
 いわゆる「場荒れする」ことになる。という人は多い。

 たとえば「2ちゃんねる」を見よ、と。

 しかし私に言わせれば、あのような場所は、真に自由な
 討論の場であろうか?

 もっといえば、そもそも自由な言論の場とはどのような
 ものか、必要十分な条件は何か?という考察や共通認識
 を得るための作業がなされたことがあるのであろうか。

 例えば、他の参加者の発言機会を奪う人間がいたら、そ
 の場所は言論の自由があるとは言えまい。

 ということは、言論の自由を保証するということは、ま
 ず第一に、お互いに他の参加者の発言する権利を尊重す
 るという契約を交わしたもの同士でなければならないと
 いうことになる。

 たとえどのような不穏当な意見表明がなされようとも、
 その言葉は吐いた人間に対する反論が他の人間から成さ
 れることを、本人が許容しているのであるから、結果、
 多くの発言者からの糾弾にさらされることになり、見学
 者の賛同も得られまい。

 ゆえに、そのような了解の下に無い討論の場においては、
 反論したくなくなるように、互いに罵倒や揶揄やはぐら
 かしをして、お山の大将になろうとする。

 「一度も論争で負けたことが無い」と豪語するネット上
 の論客氏がいるが、なんのことはない。相手がウンザリ
 して討論の場所を去るまで延々と自己主張を繰り返すだ
 けの人なのだ。

 このような人に対する対策としては、「機会均等」を保
 証せねばなるまい。例えば、ディベートのようにである。




[ コメント数 1 読む(F3106) ]

#3107/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場    *** コメント #3106 ***
★タイトル (********)  11/ 1/ 4(Tue.)  20:48  (  2)
a@005 番号つけるの忘れた     一久
★内容

番号付けるのわすれてました


#3108/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 4(Tue.)  20:53  ( 19)
a@006 考えるということ     一久
★内容

 今回、この365本をやっていて、気づいたこと。

 書くという行為によってこそ、考えるということは完成
 するのだなぁ、ということ。

 特に私の場合、考えているうちに、あちこち話が飛ぶの
 で、書留ながらでないと、こんがらがった後に霧散して
 しまう。

 ここ数年、このように書き込むことが無かったので、
 書くことの大切さが逆に良く分かった。

 以前はこんなこと考えもしなかったのになぁ・・・

 このようなエッセイも、おまけで365本の数に入れます。

 ちなみに、英語では論文もエッセイも「エッセイ」
 私の記憶が確かならですが・・・


#3109/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 6(Thu.)  19:24  ( 19)
a@007 風邪の話     一久
★内容

 風邪と自然治癒力

 自然治癒力を過信する人の中には、熱が出るのはウィルスを殺す為だから、
 解熱剤なんて使うべきでない、と極端なことを言う人もいるようだが、
 「発熱」は人間の体のことを配慮してはくれない。

 発熱によってウィルスより先に死ぬ体ならば、死んだほうが種族全体を
 強くすることになる。これが自然淘汰というもの。

 現代社会でそのような行為を正当化することはできまい。

 ゆえに、病状が体力を奪うこと大であれば、一旦、薬によって発熱を抑え、
 体力を回復させるほうが自然治癒力を引き出すことになる。

 同じ理由で、セキ止め、のど飴、等により、体力の損耗を防ぐことが有効。

 「生き死にはものの常道なり。医の道は別にあり」(手塚治虫)



#3110/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 6(Thu.)  20:35  ( 42)
a@008 自由主義     一久
★内容

 【反対者の発言する自由】

 言論の自由とは、自分の意見に反対する者の言論の自由を
 擁護することである。

 逆に相手もまた、こちらの反論する自由を保障する。

 そして、それが守れない人間は、言論の自由を持つ資格が
 無い者であるとして、放逐されねばならないということで
 ある。

 自由主義とは、自由主義を否定する者の発言権をも擁護する
 主義である。しかしそれは、「否定する者」自身が反論を許
 す場合に限る。

 反論に対して、真摯に受け答えするならば、自由主義を否定
 する者であっても構わない。なぜならば、そのときの彼の行
 為は、まさに自由主義者の行為そのものであるのだから。

 反対者の言論の自由を容認できない人間に自由を得る資格は
 ない。

 人間社会で言う自由とは、自分の自由も、相手の自由も尊重
 する自由のことである。

 自分の自由は主張するが、自分に反対する者の自由は妨害す
 るというのでは、これはケダモノの自由である。

 人間は社会的生物である。相手の自由を尊重しあうことによ
 って、より住み良い社会を作ることができる、その結果、ケ
 ダモノの自由を行使するよりも、一個人としても安楽に暮ら
 せる、という理を知っているのが人間である。

 ときおりここから外れて、ケダモノの自由のほうが楽なよう
 な気がして、外道に落ちる人間もいる。しかし考えてみたま
 え。

 アウトローは法規範からは自由かも知れないが、その生活は
 一般人よりもはるかに不自由だ。彼らは病気になったからと
 いって、不用意に病院へ行くことすらできないのだ。



#3111/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 7(Fri.)  19:19  ( 26)
a@009 「言論の自由その新常識     一久
★内容

 【新たに加えるべき観念】

 言論の自由を尊重すべきとする人は多い。

 だが、言論の自由を享受するには資格が必要であるということ
 を理解している人は多くないのではないか。

 資格と言うと、そのことに関しての知識があるとか、経験があ
 るとかいうことのことだと思ってしまう人もまた同様である。

 言論の自由を行使できる資格とは、自分の意見に反対する相手
 の言論の自由をも守るのだ、という気高き精神を持っていると
 いうことである。

 「君の意見に反対であるが、君がその意見を述べる自由は死を
  賭してでも守ろう」

 古くからある言葉である。これこそがまさに自由の本質を言い
 当てている。

 逆に言えば、反対者の言論を封じようとする者には、言論の自
 由のある場にいる資格がないのである。

 その者はそこにいるだけで自由の敵となるのだ。

 

#3112/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 7(Fri.)  19:30  ( 37)
a@010 小政党における言論の自由     一久
★内容

 【小政党に言論の自由はあるか】

 小政党とは、小さな政党を言うのではない。

 労働者の党とか、女性の為の党とか、スポーツ平和党とか、
 サラリーマン新党とか、特定の集団の利益を代表する政党
 を小政党という。

 言論の自由とは、反対者の言論の自由を守りあうことである。

 となれば、これら小政党の内部においては、もはや言論の
 自由は存在できないことになりかねない。

 労働者の政党を名乗る政党の内部で、労働者に不利益をも
 たらす政策を提言することはできまい。

 一見、労働者にとって不利益であっても、長い目で見れば
 利益となる政策であっても、「そんなこというなら我が党
 から出て行け」と非難されかねない。

 さらには、指導部の政策を批判しただけで、労働者の敵と
 して追い出されかねない。

 このような状態になることは、よくあることだ。

 これでは、指導部に不正や間違いがあったとしても、自浄
 機能は働かないし、政策に誤りがあったとしても是正され
 ることはない。

 一言で言えば、独裁化するのだ。

 独裁政権と闘っている政党や市民グループが、独裁化して
 いることは、よくあることだ。



 

#3113/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 9(Sun.)  21:39  ( 34)
a@011 何故に民主主義か     一久
★内容

【何故に民主主義が良いのか】

 何故に民主主義が良いのか? 民主主義でなければいけないのか?

 この根本的な問題に答えよう。

 民主主義とは、国民に主権があるということである。

 では主権とは何か? それは人によって色々な意見があろうけれど、
 最低限度の条件として、言論の自由を挙げておこう。

 王政において、王に自由な発言権がなかったならば、その王を主権
 者と認めることはできない。傀儡の王、もしくは、象徴王と呼ばね
 ばならない。

 同様に、もしも国民に言論の自由が無かったならば、その国は国民
 主権の国ではない。

 逆に言えば、民主主義国家とは、国民に言論の自由がある国のこと
 だといえる。民主主義と言論の自由とは、不可分のものなのである。

 民主主義であるべき理由とは、言論の自由を得るためである。民主
 主義以外の体制においては、国民に言論の自由はない。

 啓蒙君主制において与えられる「言論の自由」は、あくまでも君主
 が持つ「自由」を臣下に分け与えているにすぎず、君主の胸先三寸
 で、制限されたり廃止されたりするものである。これは見せかけの
 自由にすぎないものだ。

 民主主義であってこそ、言論の自由は存在できる。

 民主主義であらねばならない理由はそこにある。



#3114/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/10(Mon.)   9:30  ( 45)
a@012 なにゆえに言論の自由は必要か     一久
★内容

【言論の自由 その必要性】

 では問う。なにゆえに言論の自由は必要なのか?
 「言論の不自由」ではいけないのか、と。

 「言論の自由」が無ければ、自己検証が出来ない。政権の
 自浄能力もない。

 それはつまり、間違った政策を是正できないということで
 あり、政権内部の不正や恣意的運用を改めることができな
 いということである。

 民主主義であろうがなかろうが、このような国家や組織の
 下では、国民は疲弊し、国家もやがては崩壊する。

 ゆえに、古今東西の名君主は皆、広く意見を求め、それに
 よって改革を志したのである。ただし、君主の限界が改革
 の限界でもあったのだが。

 言論の自由が保障された状態において、自由に反対意見を
 のべることができてこそ、真理・真実への階段を上ること
 ができる。

 いままで信じてきたことは本当に正しかったのか。権力者
 達は収賄されていないのか。今まで悪とされてきたことは、
 本当に悪だったのか、権力者の詐術ではなかったのか。

 言論の自由があってこそ、これらのことは再検証できるの
 である。

 ゆえに、自己の意見を絶対化する人は、再検証を好まない。
 当然、言論の自由をも好まない。自己宣伝には積極的であ
 っても、自分の意見に合わない考えは、陳腐だの軍国主義
 だの、自己正当化だのと文句をつけて黙らせようとする。

 このような人々のことを、ファシストという。

 ファシストとは軍国主義や差別主義のことではない。自己
 の意見を絶対化し、それに対する反論を許さない者のこと
 である。

 ゆえに、世の中には「平和主義者のファシスト」が数多く
 存在している。



#3115/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/10(Mon.)  21:13  ( 44)
a@013 何故に政党内民主主義か     一久
★内容

 【政党内民主主義こそがすべて】

 小学校では、議会において異なった意見をぶつけ、討論し、
 よりよい答を出すものだと習ったはずだ。

 現実の議会がそうなっていないことに腹をたて、それは政治
 家たちが無能で不潔で傲慢であるからだと憤慨している。あ
 るいは見捨てている。それが大抵の国民の心情であろう。

 だが、そもそも、小学校で習ったような議会のあり方自体が
 間違いであったらどうだろうか。

 つまり、現実の議会は、小学校の学級会議とは違って、それ
 自体では真摯な討論は不可能なのだとしたら、怒るべきは国
 会議員たちの無能ではなくて、制度にあった選挙の仕方を知
 らない国民自身の無知でこそあらねばならない。

【学級会と国会は違う】

 小学校の学級会であれば、そこでマジメな討論も可能であろう。
 しかし、国会においてはそれは不可能なのだ。

 なぜならば、大人の世界では、打算や利害や思惑を排除する
 ことは不可能だからである。

 さらに、小学校の学級会には、「先生」という絶対権力者が存
 在する。自由に討論しているように見えても、実は教師による
 統制の下でしか学級会は進行しない。そうであればこそ、多数
 派が強行採決をしたり、少数派が「実力行使」したりすること
 はない。教師による治安維持が常に働いているのだ。

 対して、大人の議会はそうではない。多数派は出来るだけ早く
 自分達の都合のいい法案を可決しようとするし、少数派は暴力
 や牛歩戦術に訴えてでもそれを阻止しようとする。

 もっとも現実には、その両者の中間を取って、話し合いで国会
 運営が決められることのほうが多い。いわゆる「談合政治」で
 あり国会対策委員会が重要視されるいわれである。

 繰り返す。国会は小学校の学級会ではない。

 国会それ自体で、意見を闘わせ真摯な討議を行うことは不可能
 なのである。
 

#3116/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/12(Wed.)  20:45  ( 36)
a@014 プロ意識を持て     一久
★内容

【「プロ意識を持て」は正しいか】

 アルバイトや新入社員といえども、お金をもらって働いている
 以上はプロである。プロ意識を持って働いて欲しい。

 というような訓示を、誰でも一度は聞いたことがあるであろう。

 お金をもらう以上は皆プロである。なるほど、そういう定義も
 成立しているように思える。

 が、もうひとつ別の定義もあるように思う。

 すなわち、その職業だけで、生活に十分な報酬と、社会的な地
 位を獲得している者だけが真のプロといえる、という定義だ。

 分かりやすい例で言えば、シーズンオフにアルバイトをしなけ
 れば生活できないプロ野球選手がいたら、誰も彼のことを一人
 前のプロ野球選手とは認めないだろう。

 建前上は、プロ球団に所属しているのでプロだが、実質的には
 プロと呼ばれるのはおこがましい存在である。

 「お金をもらっているから皆プロ」というのは建前のプロ論で
 あり、「十分な報酬を得ている者だけがプロ」というのは本音
 のプロ論である、ともいえる。

 そうであればこそ、会社側からの度重なる「プロ意識を持て」
 という訓示があるにも関わらず、それに感化されるのはごく一
 部の社員だけで、他の多くの社員・アルバイトは、「また、は
 じまったワイ」と、聞き流す。

 機会があれば人件費を削減しようとする会社が、なんおプロ意
 識か!?と、腹の中で思いつつ、リストラされぬように、表向
 きは神妙にうなずくのだ。

 

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