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#3108/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 4(Tue.)  20:53  ( 19)
a@006 考えるということ     一久
★内容

 今回、この365本をやっていて、気づいたこと。

 書くという行為によってこそ、考えるということは完成
 するのだなぁ、ということ。

 特に私の場合、考えているうちに、あちこち話が飛ぶの
 で、書留ながらでないと、こんがらがった後に霧散して
 しまう。

 ここ数年、このように書き込むことが無かったので、
 書くことの大切さが逆に良く分かった。

 以前はこんなこと考えもしなかったのになぁ・・・

 このようなエッセイも、おまけで365本の数に入れます。

 ちなみに、英語では論文もエッセイも「エッセイ」
 私の記憶が確かならですが・・・


#3109/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 6(Thu.)  19:24  ( 19)
a@007 風邪の話     一久
★内容

 風邪と自然治癒力

 自然治癒力を過信する人の中には、熱が出るのはウィルスを殺す為だから、
 解熱剤なんて使うべきでない、と極端なことを言う人もいるようだが、
 「発熱」は人間の体のことを配慮してはくれない。

 発熱によってウィルスより先に死ぬ体ならば、死んだほうが種族全体を
 強くすることになる。これが自然淘汰というもの。

 現代社会でそのような行為を正当化することはできまい。

 ゆえに、病状が体力を奪うこと大であれば、一旦、薬によって発熱を抑え、
 体力を回復させるほうが自然治癒力を引き出すことになる。

 同じ理由で、セキ止め、のど飴、等により、体力の損耗を防ぐことが有効。

 「生き死にはものの常道なり。医の道は別にあり」(手塚治虫)



#3110/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 6(Thu.)  20:35  ( 42)
a@008 自由主義     一久
★内容

 【反対者の発言する自由】

 言論の自由とは、自分の意見に反対する者の言論の自由を
 擁護することである。

 逆に相手もまた、こちらの反論する自由を保障する。

 そして、それが守れない人間は、言論の自由を持つ資格が
 無い者であるとして、放逐されねばならないということで
 ある。

 自由主義とは、自由主義を否定する者の発言権をも擁護する
 主義である。しかしそれは、「否定する者」自身が反論を許
 す場合に限る。

 反論に対して、真摯に受け答えするならば、自由主義を否定
 する者であっても構わない。なぜならば、そのときの彼の行
 為は、まさに自由主義者の行為そのものであるのだから。

 反対者の言論の自由を容認できない人間に自由を得る資格は
 ない。

 人間社会で言う自由とは、自分の自由も、相手の自由も尊重
 する自由のことである。

 自分の自由は主張するが、自分に反対する者の自由は妨害す
 るというのでは、これはケダモノの自由である。

 人間は社会的生物である。相手の自由を尊重しあうことによ
 って、より住み良い社会を作ることができる、その結果、ケ
 ダモノの自由を行使するよりも、一個人としても安楽に暮ら
 せる、という理を知っているのが人間である。

 ときおりここから外れて、ケダモノの自由のほうが楽なよう
 な気がして、外道に落ちる人間もいる。しかし考えてみたま
 え。

 アウトローは法規範からは自由かも知れないが、その生活は
 一般人よりもはるかに不自由だ。彼らは病気になったからと
 いって、不用意に病院へ行くことすらできないのだ。



#3111/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 7(Fri.)  19:19  ( 26)
a@009 「言論の自由その新常識     一久
★内容

 【新たに加えるべき観念】

 言論の自由を尊重すべきとする人は多い。

 だが、言論の自由を享受するには資格が必要であるということ
 を理解している人は多くないのではないか。

 資格と言うと、そのことに関しての知識があるとか、経験があ
 るとかいうことのことだと思ってしまう人もまた同様である。

 言論の自由を行使できる資格とは、自分の意見に反対する相手
 の言論の自由をも守るのだ、という気高き精神を持っていると
 いうことである。

 「君の意見に反対であるが、君がその意見を述べる自由は死を
  賭してでも守ろう」

 古くからある言葉である。これこそがまさに自由の本質を言い
 当てている。

 逆に言えば、反対者の言論を封じようとする者には、言論の自
 由のある場にいる資格がないのである。

 その者はそこにいるだけで自由の敵となるのだ。

 

#3112/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 7(Fri.)  19:30  ( 37)
a@010 小政党における言論の自由     一久
★内容

 【小政党に言論の自由はあるか】

 小政党とは、小さな政党を言うのではない。

 労働者の党とか、女性の為の党とか、スポーツ平和党とか、
 サラリーマン新党とか、特定の集団の利益を代表する政党
 を小政党という。

 言論の自由とは、反対者の言論の自由を守りあうことである。

 となれば、これら小政党の内部においては、もはや言論の
 自由は存在できないことになりかねない。

 労働者の政党を名乗る政党の内部で、労働者に不利益をも
 たらす政策を提言することはできまい。

 一見、労働者にとって不利益であっても、長い目で見れば
 利益となる政策であっても、「そんなこというなら我が党
 から出て行け」と非難されかねない。

 さらには、指導部の政策を批判しただけで、労働者の敵と
 して追い出されかねない。

 このような状態になることは、よくあることだ。

 これでは、指導部に不正や間違いがあったとしても、自浄
 機能は働かないし、政策に誤りがあったとしても是正され
 ることはない。

 一言で言えば、独裁化するのだ。

 独裁政権と闘っている政党や市民グループが、独裁化して
 いることは、よくあることだ。



 

#3113/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/ 9(Sun.)  21:39  ( 34)
a@011 何故に民主主義か     一久
★内容

【何故に民主主義が良いのか】

 何故に民主主義が良いのか? 民主主義でなければいけないのか?

 この根本的な問題に答えよう。

 民主主義とは、国民に主権があるということである。

 では主権とは何か? それは人によって色々な意見があろうけれど、
 最低限度の条件として、言論の自由を挙げておこう。

 王政において、王に自由な発言権がなかったならば、その王を主権
 者と認めることはできない。傀儡の王、もしくは、象徴王と呼ばね
 ばならない。

 同様に、もしも国民に言論の自由が無かったならば、その国は国民
 主権の国ではない。

 逆に言えば、民主主義国家とは、国民に言論の自由がある国のこと
 だといえる。民主主義と言論の自由とは、不可分のものなのである。

 民主主義であるべき理由とは、言論の自由を得るためである。民主
 主義以外の体制においては、国民に言論の自由はない。

 啓蒙君主制において与えられる「言論の自由」は、あくまでも君主
 が持つ「自由」を臣下に分け与えているにすぎず、君主の胸先三寸
 で、制限されたり廃止されたりするものである。これは見せかけの
 自由にすぎないものだ。

 民主主義であってこそ、言論の自由は存在できる。

 民主主義であらねばならない理由はそこにある。



#3114/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/10(Mon.)   9:30  ( 45)
a@012 なにゆえに言論の自由は必要か     一久
★内容

【言論の自由 その必要性】

 では問う。なにゆえに言論の自由は必要なのか?
 「言論の不自由」ではいけないのか、と。

 「言論の自由」が無ければ、自己検証が出来ない。政権の
 自浄能力もない。

 それはつまり、間違った政策を是正できないということで
 あり、政権内部の不正や恣意的運用を改めることができな
 いということである。

 民主主義であろうがなかろうが、このような国家や組織の
 下では、国民は疲弊し、国家もやがては崩壊する。

 ゆえに、古今東西の名君主は皆、広く意見を求め、それに
 よって改革を志したのである。ただし、君主の限界が改革
 の限界でもあったのだが。

 言論の自由が保障された状態において、自由に反対意見を
 のべることができてこそ、真理・真実への階段を上ること
 ができる。

 いままで信じてきたことは本当に正しかったのか。権力者
 達は収賄されていないのか。今まで悪とされてきたことは、
 本当に悪だったのか、権力者の詐術ではなかったのか。

 言論の自由があってこそ、これらのことは再検証できるの
 である。

 ゆえに、自己の意見を絶対化する人は、再検証を好まない。
 当然、言論の自由をも好まない。自己宣伝には積極的であ
 っても、自分の意見に合わない考えは、陳腐だの軍国主義
 だの、自己正当化だのと文句をつけて黙らせようとする。

 このような人々のことを、ファシストという。

 ファシストとは軍国主義や差別主義のことではない。自己
 の意見を絶対化し、それに対する反論を許さない者のこと
 である。

 ゆえに、世の中には「平和主義者のファシスト」が数多く
 存在している。



#3115/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/10(Mon.)  21:13  ( 44)
a@013 何故に政党内民主主義か     一久
★内容

 【政党内民主主義こそがすべて】

 小学校では、議会において異なった意見をぶつけ、討論し、
 よりよい答を出すものだと習ったはずだ。

 現実の議会がそうなっていないことに腹をたて、それは政治
 家たちが無能で不潔で傲慢であるからだと憤慨している。あ
 るいは見捨てている。それが大抵の国民の心情であろう。

 だが、そもそも、小学校で習ったような議会のあり方自体が
 間違いであったらどうだろうか。

 つまり、現実の議会は、小学校の学級会議とは違って、それ
 自体では真摯な討論は不可能なのだとしたら、怒るべきは国
 会議員たちの無能ではなくて、制度にあった選挙の仕方を知
 らない国民自身の無知でこそあらねばならない。

【学級会と国会は違う】

 小学校の学級会であれば、そこでマジメな討論も可能であろう。
 しかし、国会においてはそれは不可能なのだ。

 なぜならば、大人の世界では、打算や利害や思惑を排除する
 ことは不可能だからである。

 さらに、小学校の学級会には、「先生」という絶対権力者が存
 在する。自由に討論しているように見えても、実は教師による
 統制の下でしか学級会は進行しない。そうであればこそ、多数
 派が強行採決をしたり、少数派が「実力行使」したりすること
 はない。教師による治安維持が常に働いているのだ。

 対して、大人の議会はそうではない。多数派は出来るだけ早く
 自分達の都合のいい法案を可決しようとするし、少数派は暴力
 や牛歩戦術に訴えてでもそれを阻止しようとする。

 もっとも現実には、その両者の中間を取って、話し合いで国会
 運営が決められることのほうが多い。いわゆる「談合政治」で
 あり国会対策委員会が重要視されるいわれである。

 繰り返す。国会は小学校の学級会ではない。

 国会それ自体で、意見を闘わせ真摯な討議を行うことは不可能
 なのである。
 

#3116/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/12(Wed.)  20:45  ( 36)
a@014 プロ意識を持て     一久
★内容

【「プロ意識を持て」は正しいか】

 アルバイトや新入社員といえども、お金をもらって働いている
 以上はプロである。プロ意識を持って働いて欲しい。

 というような訓示を、誰でも一度は聞いたことがあるであろう。

 お金をもらう以上は皆プロである。なるほど、そういう定義も
 成立しているように思える。

 が、もうひとつ別の定義もあるように思う。

 すなわち、その職業だけで、生活に十分な報酬と、社会的な地
 位を獲得している者だけが真のプロといえる、という定義だ。

 分かりやすい例で言えば、シーズンオフにアルバイトをしなけ
 れば生活できないプロ野球選手がいたら、誰も彼のことを一人
 前のプロ野球選手とは認めないだろう。

 建前上は、プロ球団に所属しているのでプロだが、実質的には
 プロと呼ばれるのはおこがましい存在である。

 「お金をもらっているから皆プロ」というのは建前のプロ論で
 あり、「十分な報酬を得ている者だけがプロ」というのは本音
 のプロ論である、ともいえる。

 そうであればこそ、会社側からの度重なる「プロ意識を持て」
 という訓示があるにも関わらず、それに感化されるのはごく一
 部の社員だけで、他の多くの社員・アルバイトは、「また、は
 じまったワイ」と、聞き流す。

 機会があれば人件費を削減しようとする会社が、なんおプロ意
 識か!?と、腹の中で思いつつ、リストラされぬように、表向
 きは神妙にうなずくのだ。

 

#3117/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/12(Wed.)  20:57  ( 35)
a@015 欧米のプロ意識     一久
★内容

【ノット マイビジネス】

 欧米においては、日本のような職場一体となってのフォロー
 は期待できないという。

 一般の窓口などでも、同様に、忙しい部署に同僚が駆けつける
 などということは無いのだそうな。

 これは、プロ意識の欠如であろうか? 日本流に考えればそう
 いうことになるであろうが、実は、彼らのプロ意識のほうが、
 論理的に調っているためである。

 お金をもらっている以上はプロである。しかし、十分な報酬
 を得ていない者は真の意味でのプロではない。

 この二つのプロ意識の妥協点は、結局は、「契約と報酬」に
 求めざるを得ない。

 そして欧米の社会は、これをキッチリやっているだけなのだ。

 すなわち、契約で決められた範囲でのみ、プロ意識を持って
 働く。それ以外のことに手を貸すことは、かえって契約違反
 であり、余計なお世話ということになる。

 もっとも、それで割りを喰うのは客であるが、その対応を工
 夫することはマネージャーの職務ということになる。

 逆に言えば、日本流の「プロ意識を持て」というのは、報酬
 と契約をあいまいにすることによって、少ない報酬で最大の
 努力を社員に求める、相当にヤクザなやり口であるといえる。

 そうであればこそ、社員は面従排復し、訓辞は成果を表さない。
 なんと、おろかなことよ。



#3118/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/14(Fri.)  20: 0  ( 50)
a@016 政党内民主主義     一久
★内容

【選挙は民主主義の入り口にすぎない】

 選挙というものは、民主的手段のひとつには違いないが、選挙を
 すれば民主主義という訳ではない。

 古くから言われているように、選挙によって独裁者が選ばれたり、
 選挙の結果、強圧的な政権が誕生したりすることが少なくない。

 いわゆる識者諸氏は、そうなる原因として国民が馬鹿だからだと
 しか言わない。なにがどう馬鹿なのか、何に気をつければよいの
 か、という肝心なことについては何も言わずじまいである。

 「だまされた国民が悪い」と、他人事のようにうそぶくのである。


【民主主義の国にしたいなら】

 民主主義の国にしたいのであるならば、民主主義を持っている政
 党を選べばよいだけのことなのだ。

 民主主義を持っていない独裁的・強権的・独善的な政党や候補者
 に票を投じなければ良いだけのことだ。

 実に簡単なことではないか。

 個々の政策や、政治綱領などではなく、その政党の内部において
 民主的な話し合いが行われているかどうかを見ればよい。

 しかしながら、今現在行われている選挙は、大概そうではない。

 政党も、マスコミも、国民も、どの政党が最も理想に近い民主主
 義的運営をしているか、などということは、問おうともしない。

 そんな観点から選挙すべきであるとは、誰も考えたことすらない
 かのようだ。

【選挙は捕獲網のようなもの】

 選挙は民主主義のアイテムのひとつである。しかしそれは、民主
 主義以外のものを導入することもできる道具でもある。

 カブトムシ(民主主義)を捕まえようとして民主主義印の昆虫網
 をふるったはいいが、入ってきたのはゴキブリ(独裁政権)だった、
 ということがありえる。

 カブトムシ(民主主義)を手に入れたければ、どれがカブトムシで
 どれがゴキブリなのかを良く見極めて投票(網をふる)必要がある。




#3119/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/15(Sat.)  22:22  ( 28)
a@017 民主主義の政党とは     一久
★内容

【民主主義の政党とはなにか】

 それでは、選ぶべき「民主主義の政党」とは何か?

 民主主義であるべき理由は、言論の自由を確保し、それに
 よって、政策や見解を常に検証し、誤りあれば正すことで
 あり、同様に、自分達の指導者に不正があれば糾弾するた
 めである。

 だから、そういう行為を行っている政党を選べばよいとい
 うことになる。

 党内に言論の自由があって、どのような政策に対してでも、
 常に理知的な反対派を抱え、真摯な討論が繰り返されてい
 るかどうか。

 党所属の議員や有力者の不正を調査することに、検察やラ
 イバル政党以上に真剣であるか。

 多数の違った意見を抱えつつも、現時点で最良とする判断
 を示しえているかどうか。政治である以上は、討論の続行
 と共に、現時点での決断が必要不可欠であるから。

 検証・自浄・決断。この三つにおいて、どの政党の民主主
 義がもっとも優れているかを判定し、選挙で投票すればよ
 い。



#3120/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/16(Sun.)  21: 5  ( 41)
マニフェスト・公約に意味は無い     一久
★内容

【マニフェスト・公約に意味なし】

 マニフェストに意味は無い。

 いかなるマニフェストといえども、現実の政治とは必ず乖離が
 ある。

 ゆえに、政権を得た後は、現実に沿ってマニフェストに修正を
 加えていかざるを得ない。

 しかしながら、もし無制限な修正を許せば、マニフェストには
 なんの意味も無かったことになってしまう。

 修正せずに原理主義的にマニフェストに従うのは愚かであるが、
 無制限に修正を許すことはマニフェスト選挙を無効にしてしま
 う。

 【なんのためにマニフェストか】

 では、なんの為にマニフェストはあるのかというと、それは、
 マニフェストを作る過程を通じて、政党内民主主義があるかど
 うかを有権者が知る為である。

 そのマニフェストは、どのようにして作られたか?その利点と
 欠点、リスクはどこにあるのか、対案は他にあるのか、他の案
 よりもそれを選んだのはなぜか。

 党内の討議において、これらのことが検討され、発表されてい
 てはじめてマニフェストは意味を持つ。

 すなわち、マニフェストが修正されざるを得ない現実にぶつか
 ったとき、この討議の場の経緯結果を参考にして、再考した結
 果、修正しました、と国民に報告する。

 それでこそ、無制限な修正ではなく、より吟味した結果の修正
 であると主張できる。

 マニフェストもまた、政党内民主主義によって担保されるべき
 ものなのだ。



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#3121/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場    *** コメント #3120 ***
★タイトル (********)  11/ 1/16(Sun.)  21: 5  (  1)
a@018     一久
★内容
 ナンバーつけるのわすれてた

#3122/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/19(Wed.)  20:49  ( 32)
a@019 国家百年の計     一久
★内容

国家百年の計を考えるのが政治家の仕事だ、とかいう人は多いが、
具体的な国家百年の計をきいたことはいまだにない。代わりに言
ってやろう。百年後に、すべての生活必需品をロボットが生産す
る世界を目指すことがソレだ、と。

物だけではなくて、サービスもだ。医療・看護・メンテナンス、
そうそう、学術や開発もロボットやコンピューターが行う。人間の仕事
は、要求を出すことと、ダメダしをすることだけになる。

人型ロボットは、2050年までに完成を目指して開発されてい
る。ロボカップがそれだ。あれは、単にサッカーで勝つことを目
的にしているのではなくて、サッカーで人間に勝てる能力があれ
ば、他に何でもできるだろうということで設定された競技だそうな。

あと40年ほどでそこまでいくならば、それから60年かけて社
会全般にロボットを普及させることは十分に実現可能なことだろう。

そのうえに、日本政府の政策として、年間一兆円の予算をつける。
財源は赤字国債でよい。計画の進行は飛躍的に高まるだろう。

百年後には、赤字国債が100兆円増える訳だが、べつに問題あ
るまい。それ以後にロボットが生み出す国富は100兆円どころ
ではないのだから。現在のGDPが500兆円だから、ロボットが人間
の仕事をすべて肩代わりすれば、一年間に500兆円の返済をして
いることになる。

ということで、技術的・財政的には簡単なのだが、問題は、社会的
にどうやって以降していくかにある。 一億体のロボットを作って、
働く国民全員に見習いとして付け、一ヵ月後に一斉に交代する、と
いうことが出来れば問題ないのだろうけれど。



#3123/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/22(Sat.)   9:22  ( 34)
自由と平等のバランス     拓睦
★内容
基本的に、自由と平等は矛盾する。
差異を認める自由、等しく平らにする平等。当たり前ですね。
ならば、ケースバイケースで臨機応変に、という感じで運営されてきましたが
どちらが上位概念かは考えられずにいた。

どちらが上位なのか?
思うに「平等」である。
なぜならば、不特定多数を対象にしたインフラだからである。
「法の下の平等」「機会の平等」「GODの下の平等」などは、まさにこれである。
国民、信者、労働者など不特定多数を対象にしており、人間というカゴテリーを
採用しているからです。
ここでは個人というものが出てこない。

故に、個別事象には対応しきれない。
その段階においては、自由の方が活力と創意工夫を活性化でできる。
個別事象とは差異を把握してこそ、有益な手段が創成される。
すなわち、議論による模索だ。
馬鹿な的外れな意見も等しく尊ばれば排除できないからです。

つまり、平等はその非世俗性ゆえに、世俗性のあることには手を出すべきでは
ない、ということです。

個性とは差異を把握することで成立する。
そこに平等を持ち出したならば、抑圧に他ならない。
なぜ国家社会主義者が、ああも暴走するのか?
平等の適用を広げていくと、差異を押しつぶさざるえなくなる。
もし、無制限に広げることができたのならば、、、
その結果残る差異は、指導者(自分)と奴隷(他者)という概念だからです。
「山岳ベース事件」など、この最たるもの。

つまり、アカが暴走するのは、当たり前の話です。
理論の適用範囲は狭いのに、出世のために押し広げるのですから。
自己正当化にも慣れていますからね。



#3124/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/22(Sat.)  11:53  ( 34)
a@0020 現代社会における平等     一久
★内容

【平等とは公正のこと】

 現代の自由主義社会においての平等とは、等しく均すことでは
 なくて、機会均等という言葉に代表されるように、公正な競争
 を行いえることを指す。

 ゆえに、基本的に自由と平等は同席することになる。

 平等でない状態からの自由競争というものもあるにはあるが、
 その場合でも、競争できるという平等性は保障されていなけれ
 ばならない。

 例えば、金持ちの息子が家庭教師を何人もやとって勉強し、貧
 乏人の息子が本もろくにない状況で勉強していたとしても、受
 験する機会が均等にあるならば、貧乏人が勝つこともありえる。

 しかし、資産家の息子しか受験できない不平等な社会であった
 ならば、貧乏人が受験で勝つことはありえない。

 このような社会には、平等も自由も共に存在していないことに
 なる。

【公正な平等】

 平等をテーマにする個人・団体であっても、まったくのナマケ
 モノを手厚く保護せよ、などとは言わないであろう。

 平等の名の下に保護し、援助すべきは、不可抗力もしくは、過
 去の失敗によってマイナス要因を抱え込んでいる人のみである。

 これもまた、一言で言えば、自由競争のための平等のことなの
 である。



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#3125/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/22(Sat.)  12:13  ( 53)
a@021 最低限度、討論に必要な知識     一久
★内容

【正義は必ず勝つ、とは限らない】

 正義が必ず勝つのであれば、負けたということは正しく
 なかったのだ、ということになる。ゆえに、第二次世界
 大戦後の日本人は、一億総懺悔した。

 しかしこの考えかたほど、近代国家から程遠いものはない。

 そして、「負けたのは正しくなかったからだ」という思考
 を否定しない限り、討論ひとつマトモにすることはできな
 い。

 「負けたのは正しくないから」であるならば、討論で負け
 る訳にはいかないようになる。必然的に感情的・煽動的に
 なり、最後は罵倒合戦となる。



【中性国家】 政教分離の本当の意味

 国家における議会の決定も、討論における勝ち負けも、そ
 の結果として出される決定・結論は、単なる法的形式的な
 決定にすぎない。

 決して、勝った側の政策や意見が、真理や正義を意味する
 のではない。

 真理だの正義だのといったものは、各自がそれぞれで追求
 するものであり、国家や討論の場は、それに関与しない。

 どうしてもという人は、宗教だの文学だのといった場所で
 それを求めることになる。

 こうであればこそ、各自は各々の信念に沿って自由に意見
 を述べることができ、かつ、敵対するものの弁を聞くこと
 も可能となる。

 たとえ「敵」の妄言がその場の賛同を得たとしても、それ
 は相手の正しさを意味しないのだから。

 政治的決定(討論での結論も)は、あくまでも法的・形式
 的な決定であって、正義や真理を意味しない。そういうも
 のは宗教(や文学といって精神的なもの)でやるべきこと
 である。

 そしてまた、宗教のほうも、宗教的正義をもって法的決定
 を覆すことはしない。これが政教分離の本当の意味である。

 そして、近代政治は、これなしにはありえない。

 これを中性国家という。



#3126/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/22(Sat.)  12:40  ( 37)
a@022 討論は自己検証のためにある     一久
★内容

 【何のための討論か】

 討論での結論は、正義でも真実でもない。それどころか、
 討論を経ることによって、確からしさが増す訳でもない。

 討論の結果、A案が採択されたとしても、それはA案が
 正しいからではなくて、議論に参加した者がすべてアホ
 だったから、なのかもしれない。

 真実は、否決されたB案こそが正しかったのかもしれない。

 では、そうだとしたら、討論なんて意味がないのではな
 いか。何のためにそんなことをするのか。


 【討論は自己検証のためにある】

 討論の意義は、互いに意見をぶつけることによって、そ
 れぞれの意見の利点・欠点を検証しあうことにある。

 そうすることによって、A案が採択され実行されたとき
 に生じるであろう、現実とのギャップによって生まれる
 不具合に、対応しやすくなる。

 否決されるであろうことが最初から分かっているB案に
 ついても同様のことがなされなければならない。

 なぜならば、A案が全く的外れで、急遽、B案に変更せ
 ねばならない事態もありえるからだ。そのとき、B案に
 対する批判的な議事録が無かったならば、対応できまい。

 いわゆる談合政治がダメな理由もここにある。談合では、
 互いの意見を批判検証することができないからだ。


 


#3127/3200 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  11/ 1/22(Sat.)  12:48  ( 17)
a@023 マニフェストは検証する団体があってこそ     一久
★内容

【検証する団体はいずこ?】

 マニフェストというものは、それを検証する団体があって
 初めて有効なものになる。

 実行できたかどうかを判定し、次の選挙において「格付け」
 をする。

 この政党は、政権を取っておきながら、これだけしか実行
 できませんでした。この政党のマニフェスト信用度は、

   発表します!   「15%です」

 というふうに、である。

 格付けのないマニフェスト選挙なんて、なんの意味もない。


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