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#3230/3366 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  12/12/21(Fri.)  20:27  ( 65)
知識の腐敗     拓睦
★内容
結局のところ、知識とは認識の範疇でしか構築されない。

しかし哲学者は真理あると構え、真理が相対主義に陥らないように努力している
とか。
その努力は、知識人が知識の権威を守るために必要なことなのでしょうが、砂上
の楼閣にすぎない。

何故、狂信者は生まれるのか。
知覚と認識を奪われ狂信的価値観に染まり、その結果行った大なり小なりの反社
会的行動を償う道を閉ざされたから。
扇動家により洗脳は行われるが、何を武器にするのか。
扇動家は演説を使ってのし上がるのだから、言語である。
言語に欠陥があるとして、それはどこか?
それは定義である。

人間は知覚の範疇で対象を認識して、定義を行い事象を掴む。
前者は感覚器官の行い、後者は理性の行いです。
しかし、日常的な言語の運営において、以下の欠点がある。

第一に、言語化の前段である発言者の認識を考察しなかったこと
第二に、個人の認識には差異があるのに、言語で改善できると信仰してきたこと
第三に、人間の認識において言語のみの抽象概念を存在させる力について、その
運営について理性の名の下に放置したこと

哲学者は普遍的という一括りで、画一的に考察をしてきているようです。
そうなければ、学問ではないからでしょう。
だが、我々の生きている世界において知識は力だ。
故に武器として使われ、不当な行いにも利用されている。

人々のどこにつけ込むのか?
認識の違いにつけ込む。
その一方で均一的な認識の下に合意された定義があるとして、自らの都合の良い
理論、定義を押しつける。
以前、山岳ベース事件を考察しましたが、あの事件で出てくる言葉として
「革命戦士にふさわしくないので総括せよ」が出てくる。
さて、ここで革命戦士という言葉に、具体的な合意が成立しているか?
そのような抽象概念に具体性自体がない、他者を自分の都合の良い兵隊にするた
めの武器にすぎない。
総括という言葉も同様である。
本来なら反省という程度の言葉であるが、相手を自分より下に位置付け貶める罠
に使われる。
その結果はリンチという極端な形として現れた。

もう一度言うが、知識は力だ。
現実の世界を変える力がある。
社会は偉人たちが作った知識で運営されている。
では、知識自体に欠陥があればどうなる?
社会に欠陥があると言うことにつながる。

知識の行きつつ所は結論、すなわち事象の定義である。
確定と言い換えても良い。
定義を行った言論の精査は行われてきたが、その前段である認識の精査をあまり
行われてこなかった。
そう考えるときに、言語のみを問題視する社会は暴走の危険性を孕むと言うこと
が判る。

我々は知識を信仰している。
そろそろ知識への信仰をやめるべきであろう。
道具は道具の有用性があるが、道具は道具の限界性を持つだけである。
それらを無視して、完璧だとか絶対を言いきるのは腐敗と堕落である。
現代社会においては知識人こそ腐敗している。
簡単な話だ、「批判されない権力は必ず腐敗する」である

追伸 次はこれをうけてモラルハラスメントの見解から、思想そのものを考えて
みますか


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#3231/3366 本会議場  市民の討論広場 メイン会場    *** コメント #3230 ***
★タイトル (********)  13/ 1/12(Sat.)  16:46  ( 63)
自由について Re:3230 権力だけでなく     一久
★内容

【 批判されない意見は必ず腐敗する 】

 権力だけではなくて、すべての意見や意見の持ち主もまた、批判される
 ことがなくなれば、腐敗する。

 ゆえに、いかなる反対意見の表明も許容し、自己の意見の練磨のために
 使用するという姿勢が求められる。

 これが自由主義であり、民主主義である。

 民主主義は「みんなで考えて決めよう」という主義だが、上のような
 自由な意見の表明を、互いに認めなければ「みんなで考える」ことは
 不可能であるがゆえに。

 閑話休題

 さて、では全く科学的(もしくはもっと信頼性のある方法によって)
 
 「全く正しい、議論の余地がない」

 と多くの人が認める事象についてはどうであろうか?


 その場合でもやはり、反対意見は許容されねばならない。

 「自明の理である」「それは決着がついている」「定説である」としても、
 疑問を呈する者が現れたならば、再度、より説得性のある論によって正当
 性をアピールせねばならない。

 この行為が容易にできることこそが、本当にその「定説」が正しいという
 ことの、唯一の証明方法であるのだから。

 この行為を怠り、反対権を封じることは、「真理と信じられていたものに
 内包されたわずかな齟齬」を見落とす危険性があるばかりか、「真理と思
 える(信じ込んでしまった)」意見を絶対視することになる。

 そして、「証明されている真理は再検証しなくてもよい」という態度を醸
 成してしまう。

 これはすでに、自由主義の死に等しい。

_______________________________________________________

 科学的に正しくとも、現実においては妥当ではないという事態は数多い。

 それは、科学というものが限定した範囲について調べるものだからだ。
 一方、現実には無限大といって言いほどの不純物が存在する。

 ユークリッド幾何学も、ニュートン力学も、それらの前提とする条件外で
 は通用しなくなる。

________________________________________________________

 「真理」が本当に真理であったとしても、それを扱う人間は決して神でも仏
 でもないのであるから、「真理の使われ方」には必ず錯誤が混ざっている。

 ゆえに、「絶対の真理」もまた、自由主義からの挑戦を免除されてはならない。


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