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#3271/3366 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  14/ 7/ 5(Sat.)  23:28  ( 40)
冷戦     拓睦
★内容
結局のところ共産主義と自由主義の争いといわれた冷戦は、政治と連結した経済学の門派争いです
富の分配と政治は不可分ですから、当然といえば当然。

生産局面の模範例である自由でいくか、消費局面の模範例である平等でいくかの違いです。
人間は多面的であり、その場その場で立場が変わる生き物ですから一元的な観測ではサンプリングの範囲が狭すぎる。

では何を観測していくのか?
考えれば、経済活動とは人生そのものであるということに行き着く。
つまり「平凡で平穏な人生」を基準にすえて、その生産・金融・消費の循環流を考えていく。
意外性も話題性もまったくない、地味で地道な学問になるでしょうが、実務的であるというのはそういうことでしょう。
「ライフ・サイクルの経済学」です。
およそ、人生において金と同時にかかわらない部分は少ない。
政治・経済・社会・家庭・産業・環境問題にいたるまで金はかかわってくる。
それらの連結まで考えて、演算していくのならば経済学は社会学の中心になれるでしょう。

だが、冷戦で利用された経済学ではサンプリングの範囲が狭い。
自由により利己的人間、といっても全ての人が常に利己的行動をとるという、均質的な人間像は成立しない。
また個性とは差異を把握することで成立するのですから、平等といっう均質性の成立範囲は狭い。
観測対象である人間は動的であり、均質ではないのだから。

では、経済学は科学ではないのか?
まずもって、経済学は人間を考察するのだから出し抜かれだり、時間経による形骸化、周知による陳腐化からは避けられない。
だが、統計学に根ざした経済学が無用の長物とは言えない。
そうなると、疑似科学的であるとは言い切れる。
つまり、時間による変化や例外事項を内包した、一定の見解という意味で経済学は有効だ。

しかし、世の中のイメージとして科学というと自然科学のイメージがつきまとう。
経済科学ということならば、機械的な演算で算出した見解であり例外のない決定的な見解という印象操作がぬぐえない。
そういったパラダイムを利用して、人間を弾圧したのが共産主義は唯物史観による平等という均質的定義であり、冷戦後の
新自由主義における利己的かつ合理的人間という均質性です。

結局、経済学の見解をもってイデオロギーにとした冷戦の思想対立は誤用に過ぎない。
亜インテリの商売というわけです。
そろそろ、専門家による実務的な学問にもどる時期でしょう。
一般の人が経済学に期待しているのは、経済活動における救済なのですから。


1789年以前を生きたとのない人に、人生の甘美さはわからぬ、、、、か。
タレーランからですが彼は革命期という不幸に生まれた、と嘆いています。
人間を均質的に定義する文明の狂気は、いつ収まりますかね。


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