〜*〜  本会議場 市民の討論広場 メイン会場  〜*〜

[ 書き込む(W) ] [ 全部既読(M-) ] [ 検索(RT) ] [ コマンド(H) ] [ 操作マニュアル ] [ 市民の討論広場 HP へ ]
[ タイトル一覧 未読 ( テロップ ) | 最新 | 最初 ] [ メッセージ(総数: 168) 最新 | 最初 ] [ 過去ログ ]


#3368/3368 本会議場  市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********)  24/ 7/29(Mon.)  17:32  ( 58)
弥助の話     拓睦
★内容
何か、信長に仕えた弥助が話題とのことで、ちょっと触れてみようかと。

日本語版wikiにおける弥助は下記のURLになります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8A%A9

編集合戦になっているようで、2024年8月11日 (日) 07:54 (UTC)まで
の記事となっていますが、私の知っている弥助像はこのとおりだな、
と思いました。
多くの歴史好き日本人だと、司馬遼太郎という歴史小説家の影響が
大きく、弥助の名前は知る人は知っている、といった知名度です。

さて、一次資料として弥助の記載がある資料は

・家忠日記
 徳川家康の家臣、松平家忠(1555-1600)の日記。一次資料として信
 憑性が高い
・信長公記
 織田信長の家臣、太田牛一(1527-1613)による伝記。ただし原本は
 失われており、写本が現存。版によって記載が違う部分があるので突
 合が必要
・イエズス会の書簡
 イエズス会宣教師が本国に送った書簡。伝聞も多数なため精査がいる

となります。

歴史学者でない私には、一次資料の調査は難しいなと思案してましたら、
すでに調査されていた方がいました。
そのHPをあげたいところですが、wikiで編集合戦になっているので、
申し訳ないですがURLは記載しないことにしました。
まあ、日本で検索をかければすぐにはでてきますが。

そのうえで、その方の論点と整理していくと

・弥助はいたのか。
 それは、家忠日記にも登場しているので、確実と言えます
・弥助は侍か?
 これは、否。弥助という名前だけがあり、家名がないのだ証拠といえま
す。家名というと徳川家康の場合、松平氏という家名があって徳川とう苗
字があります。『称号:Appellatio(ラテン語)』に近いとのこと。
・弥助の武勇
 信長公記には成田弥六という方が人物がおり、この方が槍の名手だった
とか。また弓の名手として『黒坊主』と呼ばれた「甘楽備前守忠貞」とい
う人との間違いではないかとのこと。弥助の戦闘系の活躍は皆無です。
・本能寺での活躍
 これについては家忠日記に記載があり、「弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供
申候由ニ候」とあり、御所にいたようです。
・その後の弥助
 これも、引用させてもらっているHPからですが『イエズス会の記録(15
98年・1599年)でも、宣教師ヴァリニャーノが京都で会ったという記録を書
簡に残しています』とのこと。その間、日本側の記録には全く出てきません
ので、戦働きはないのでしょう。


最後に、黒人奴隷貿易についてですが日本は黒人奴隷を輸入はしてません。
むしろ日本人奴隷が国外に販売されていったというのが実際です。戦の戦利
品として他国に人を売り払うのは当時の常識でしたので。

以上、弥助に関してでした。

[ 削除する(D3368) ] [ コメントを書く(C3368) ]


[ ( タイトル一覧#3367-3348 | メッセージ#3367 ) 次 << 降順 >> 前 ( メッセージ | タイトル一覧#3368 ) ]

番号またはコマンド=