きょうの思い出

05/01

 1988年「歌え!アイドルど〜む」この日から新コーナー「光GENJIビデオ通信」ができました。これは光GENJIとファンをビデオで繋ごうと言うコーナーで、きっかけはあるファンからの悩み事の相談お葉書。まず、最初のこの日は、そのファンのところに取材に行きました。この子の悩み相談は2人の男の子に言い寄られて困ってますとのことでしたが、彼女はその男の子達を嫌ってる訳でもなさそうだったから、人に相談するようなことではないですね。一応メンバーは真面目に答えてましたが、自分の好みを言ってて終わったような…。決まりましたねって言いながら、結論出してないし、あまにり内容のないコーナーだったから、ビデオ見返すまですっかり忘れてました(^^;)。
青春のフレーズ、この日のテーマは「occupation…職業」で、まず大沢くんは、芸能界に入ってなかったらカーレーサーに。車が好きってこともあるけれど、男を感じる仕事で、常に緊張し、常に自分を燃やせるので、魅力を感じるとのこと。今ももし時間があったらA級ライセンスを取って、レースに出てみたいそうです。
昔から父親の後を継いで大工さんになろうと思っていた淳くんは、小さい頃から大工さんの仕事を見て、職人とはこう言う人たちのことを言うのかなと痛感していたそう。そして、もし将来できたら自分で設計して、自分で家を建てたいとのことでした。
晃くんは競馬の騎手になりたかったとのことで、ただの乗馬じゃ物足りないし、あのスピード感と懸命にゴールに走って行く姿が素敵だと思うとのこと。そして、馬は勝手に走るのではなく、騎手と馬の気持ちが一緒になって速く走るので、動物好きの晃くんはそういうことをやってみたいそうです。
喫茶店の雰囲気が大好きだと言う寛くんは喫茶店のマスターをやってみたくて、仕事や学校で疲れた人に美味しいコーヒーを煎れてあげたいとのこと。店の名前は「命くれない」ってのもいいけれど、店の名前は看板になるから、もうちょっと考えたいと思いますと。
内海くんが今、職業を選ぶとしたら、子供たちのヒーローにこだわりたいと言うことで、特に人気のある「仮面ライダーブラック」に。空想の世界だけど、正義のために悪と闘う、子供たちの夢を叶えてあげる男らしい人だと思いますと大真面目に語る内海くんでした。しかし、「仮面ライダーブラック」って職業なの…(^^;)。
もしかしたらラーメン屋か漫画家になっているかもしれないと言う敦くんは、世界中の人に面白い漫画や、美味しいラーメンを作っていたかも。自信はないけど、挑戦してみたいですとのことでした。でも、敦くんの年齢だったら、これからじっくり職業を選らぶのが本当ですよね…。
職業と言うのは大人になって考えるのであって、小さい頃から「職業」と言う言葉に縛られたら、子供も伸び伸び育てないと思いますと、この日は真面目に話し始めた諸星くんだけど、自分でも何を言ってるのか良くわかりませんと言って、友達が一番だと思いますって延々、「友達」のことを言って、「友達」が一番職業にむいていると思いますと、やっぱりよくわからない諸星くんでした(^^;)。ま、彼なら「友達」も職業になるかも!?

 1989年「歌のトップテン」本当はこの頃はまだ雲の上、機上の人だったはずの光GENJIは、今、海外に来ていますとのことでしたが、テラスにいる彼らの後ろの風景は合成の何処かのビーチの映像。諸星くんがインタビューに行ってきますとテラスを出て行きましたが、身体が映像に重なって透けてるぞって(^^;)。ここは何処なんですか? に大沢くんは千葉の稲毛海岸なんて言うし…。スタジオには行けないってことで、諸星くんからGW、何処へも行けず、テレビを見ているみなさん、僕達も休みなしで頑張っているので、みなさんも頑張ってくださいとつっかえつっかえのメッセージがありました。
歌もVTRで、青い空と海の映像をバックに、船のデッキのセットで歌いました。アップになると単なるブルーバックになるのはご愛敬(^^;)。それに合成技術があまりよくないのか輪郭がすごくブレてので、合成になってない時は輪郭がはっきりするから、その方が良かったです。スタンドマイク使用の手振りバージョンでした。

 この日から1週間、彼らはアメリカへ行きました。今回の目的はパンフレットなどの写真撮影もあったようですが、半分はオフだったみたいですね。このアメリカ行きのことはコンサートやテレビでも行ってたので、この日は成田空港にお見送りのファンがすごかったです(と知ってる私も実は行きましたが…。私は成田空港が近いし、こんなことも初めてだったからちょっと興味があってね)。
彼らは夕方の5時の便で旅立って行きましたが、彼らが空港に姿を見せた途端、居合わせたファンは走る、走るで、一般のお客さんのスーツケースをなぎ倒したりでえらい迷惑でしたね。私はそんな様子を少し離れてたところから見てましたが、100人くらいはファンいたのかな? 興奮するのもわかるけど、一般の人に迷惑をかけるようではいけませんね。彼らは空港の玄関からすぐVIPルームへ入り、しばらくして出て来た後、すぐ横のエレベーターから搭乗手続きのため、階下へ降りて行きました。その後、登場ゲートに出て来た彼らを上からガラスに張り付いて見てましたけど、大勢のファンがガラスにへばりついてるのを下から見たらちょっとすごい光景だろうな…なんて思ったりして(^^;)。
結局人込みと見れた時間がわずかってことで、メンバー全員のチェックはできませんでした。淳くんは白っぽい服の上下だったみたい。ファンが多くてパニック状態になったからかみんな表情が硬かったと当時の日記に書いてありました。そして、きっと今ごろはうるさい日本のファンから解放されてホッとしてるんだろうな…ってのが、海外に行く彼らを初めて見送った私の感想でした。

 1992年「ミュージックステーション」この日はオープニングにはいなくて、ランキングの発表後(ちなみに「リラの咲くころバルセロナへ」が4位にランクイン)、もう一組のゲスト紹介で登場しました。でも大沢くんが高熱を出して、顔が腫れちゃったとのことで、この日は欠席。
洋行帰りと言われた彼ら、今回は17泊18日の長期のお出かけで、話題もそのこと。バルセロナはどうでしたか? と聞かれ、淳くんは広い町並みを見て勉強になりましたって言ってたけど、何の勉強? オリンピックメインスタジアムで歌ったのは光GENJIが最初で、歴史に残る1ページを築いたと言われましたが、このスタジアムはまだ工事中だったと敦くんが言ったら、タモリさんは間に合うのか? と心配してました。普通だと途中から登場のゲストはもっと長く喋ってると思うけど、光GENJIはレギュラーだからいつも程度の話でした。
歌は途中でサンジョルディ競技場前ヨーロッパ広場で歌ったVTRも少し流れました。この日の淳くんは前髪を斜めに流した張り付いたような髪型で、いつもと違う雰囲気。これはこれでなかなか可愛かったけど、いつもの方が好きかな…。
前週から始まった「My Just Fit」のコーナーは淳くんが担当。MULTI MAXの歌詞「眠れない夜に届けましょう○○をあなたに」の○○の部分に「ピザ」と入れてました。ピザの横にちっちゃい字で何か書いてたけど何だったんだろう…? 生島さんが「30分以内に」って言ってたから、そう書いてあったのかも。

 1993年SAY'Sコンサート名古屋1日目。5月に名古屋に行ったのはこれが最初で最後でしたね。でも光GENJIじゃないけれど…。
ステージの形は神戸と同様で長い花道がありました。武道館から大きな変更箇所はなし。細かいところで「目で見ちゃだめさ」の色紙投げがボール打ちになってたくらいかな。
1部のMCはTOKIOが一緒にいる時間がずいぶん長くなって、そのせいでMC全体も長かったです。で、敦くんの発案でMCは花道真ん中のステージに移動してました。ここでMCをやったのはこの回だけだったかな?
この日の詳しいレポートはこちらをご覧ください。

 1994年「歌謡びんびんハウス」1週空いての前回の続きの放送。まずは「IN玉カラオケ」。これは新しいゲームかな? ボールを投げて入ったところに書いてある歌をちゃんと歌えればOK。光GENJIは大沢くんが挑戦して、入ったのが「北国の春」だったから、昔、別の番組でこの歌歌った時のこと思い出してちょっと心配でしたが、今回はそう音を外すこともなく無事歌えました。大沢くんが歌ってる間、前に出て来た諸星くんは客席にまで行ってお客さんと握手。歌が終わってもまだフラフラしてるので、内海くんに引っ張り戻されてました。諸星くんは他の人が歌ってる時もいろいろものまねなどしてましたね。
歌はこの週で、寛くんが足を怪我してる時なので、ローラースケート履いた途中から6人でした。歌の後は「スターぴったんこ」で、この日のスターは武田鉄矢さんで光GENJIは光&諸星組とSAY'Sに分かれて答えてたけど、喋ってたのは諸星くんと敦くんがほとんどだったかな? 結構真面目に答えてたので、そんなに面白い発言もありませんでした。このコーナー、光&諸星チームがトップ賞をもらいました。


HOME BACK