千早隊


イ368潜 イ370潜 イ44潜

昭和20年2月20、21、22日出撃

>> 当時の日本の状況



イ368潜


前列左より磯辺二飛曹、石田少尉、入沢艦長、三輪長官、川崎中尉、難波少尉、芝崎二飛曹


左より川崎中尉、石田少尉、難波少尉、磯辺二飛曹、芝崎二飛曹

二月二十日出撃。硫黄島海域に向かうも消息不明(米記録二月二十六日撃沈)。
戦死、搭乗員・川崎順二中尉(海機53)、石田敏雄少尉(拓大)、難波進少尉(中大・法)、磯辺武雄二飛曹、柴崎昭七二飛曹艦長入沢三輝少佐以下潜水艦乗組員104名




*参考資料「忘れ得ぬ黒い瞳」* 

朝日ソノラマ『人間魚雷回天』より/
神津直次(元回天四期予備学生隊員)

中庭をへだてた向こうの棟から、ただならぬ気配が伝わったきた。灯火管制の暗幕におおわれた宿舎から、一歩外に出れば真の闇だった。その闇に踏みだした私の耳に聞こえてくる、怒号と鈍い打撃音。続いてのズシンという、何かが倒れる重苦しい響きは、そこで激しい修正(制裁)がおこなわれていることを示している。

光(基地)に到着してから、まだほんの二日か三日しかたたぬころのことであった。あの音のする部屋は、私たちより少しはやく、九月初旬に回天隊員となり、今や連日出撃訓練に明け暮れている、水雷学校出身の同期の者たちの部屋にまちがいない。

明日の日にも魚雷と化して死んでいく男たちが、なんであんな残酷なリンチにあって苦しまねばならないのか。ただでさえ暗い私の心は、深く闇に沈んでいった。

それは四期士官講習員に対して、××(海機出身。のち出撃戦死)が加えている修正(制裁)だった。

××(八期)は、「あの男のしごきは連日連夜猛烈を極め、われわれは毎日それを目撃し戦慄していた」と言い、××飛曹(大津島水上偵察機パイロット)は、「あの男、正気じゃなかった」とまで極言している。


左より磯辺二飛曹、石田少尉、川崎中尉、難波少尉、芝崎二飛曹

だが翌朝にあった四期士官講習員の顔はさわやかだった。その深く澄んだ瞳には、昨夜の嵐の影さえ宿していなかった。特攻隊員になることは、あの瞳になることなのか。そこにはもう、生きながらに人間のすべての業を解脱している姿があった。

これはえらいことになった。あそこまで悟りきらねば、ここの隊員はつとまらないとしたら、俺はいつになったらそうなれるのだろうか。・・(中略)

全員が出撃して戦死してしまった、あの部屋の人たちに、四十年たった今でも私は畏敬の念を抱いている。

 

川崎順二

 

『特攻』会報・「忘れがたい人たち」より/
小灘利春(第二回天隊隊長・現回天会会長)

川崎順二少佐(死後二階級特進)は海軍潜水学校機関科学生を卒業後、志願して昭和十九年九月一日に開隊した回天部隊に着任、最初の時期の搭乗員となった。「大津島の基地で兵学校出の士官がよく殴った」と言い立てる向きがあるが、無責任な誇張である。

気迫に満ちた部隊であるから、鉄拳制裁が時にはあったが、行うのは大部分が機関学校出身者であり、またその殆どは「川崎順二」とされている。

海軍機関学校は元来気性の激しいところであるが、その歴史上最も殴ったクラスは彼の53期と言われ、その中でも川崎が随一との定評がある。それにもかかわらず、殴られた下級生の間に彼を怨む声がないのである。激しく叱咤し殴っても、良くしようとの誠意からの制裁であって一切の私心がなく、それが下の者によくわかるからだと言う。個人的な感情がないから、カラッとして後に残らない。


桟橋まで続いた見送りを受け、イ368潜に向かう隊員たち

彼は一面、良く気がつき、人に親切で面倒見がよかった。古くからいた予備士官たちも「川崎中尉はむしろ気安い仲間の感じで、猛烈人間といった印象ではなかった」と語る。

ともかく、回天の訓練基地、大津島の中では最も勇ましい存在であったことはたしかであり、特に同じ隊で出撃する学徒出身の、海上経験が少ない少尉たちは、いつも身近にいるだけに大変であったと推察される。

昭和20年、米軍の大機動部隊が硫黄島に、攻略部隊を満載した船団を伴って来攻、迎え撃つ日本海軍の戦力は神風特攻機と潜水艦だけであった。

米軍は2月19日上陸を開始、急遽潜水艦伊368、伊370、伊44の三隻をもって回天特別攻撃隊千早隊が編成され、川崎中尉は回天五基を搭載する伊号第368潜水艦の先任搭乗員として2月20日、大津島基地を出撃し戦場に急行、そのまま消息を絶った。

広報では2月26日戦死とされ二階級特進しているが、戦後調査した米軍の記録では2月27日未明、同潜水艦は護衛空母アンジオの搭載機に捕捉され潜航したが、執拗な追跡、攻撃が続き、遂に硫黄島西方24浬の地点で沈んだ。

この交戦の際、甲板上に回天の姿はなかったと聞く。即ち、既に回天が発進した後であった可能性があり、硫黄島守備隊からも洋上に火柱多数を見たとの報告が来ていた。交戦機の詳しい報告や周囲艦船の記録の入手に努めているが、熱血の人川崎順二を偲ぶとき、残されたものとして隊員たちの戦いぶりを明らかにせずにはおれない思いである。 



*資料・回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿/伊号第368潜*




イ370潜



左より浦佐二飛曹、市川少尉、岡山少尉、田中少尉、熊田二飛曹


壮途を祝す鯉のぼりの下で鉢巻きを受ける岡山少尉


鉢巻受領・市川少尉


増速する艦上で刀を振る搭乗員

二月二十一日出撃。硫黄島海域に向かうも消息不明(米記録二月二十六日撃沈)。
戦死、搭乗員・岡山至少尉(海機54)、市川尊継少尉(早大)、田中二郎少尉(慶大)、浦佐登一二飛曹、熊田孝一二飛曹、艦長藤川進大尉以下乗組員104名。
 
 
*資料・回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿/伊号第370潜*




イ44潜


前列左より菅原二飛曹、亥角少尉、川口艦長、三輪長官、土井中尉、館脇少尉

二月二十二日出撃。硫黄島向かうも敵哨戒線を突破出来ず三月九日帰還