多聞隊(原爆運搬艦インディアナポリス撃沈)


イ53潜 イ58潜 イ47潜 イ367潜 イ366潜 イ363潜

昭和20年7月14日〜8月8日出撃

>> 当時の日本の状況



イ53潜



前列:川尻一飛曹、荒川一飛曹、関少尉、大場艦長、佐々木参謀長、勝山中尉、高橋一飛曹、坂本一飛曹
後列:溝口特攻長、山崎参謀、不詳、不詳、末広艦隊主計長、不詳、高島整備長



見送りに応えて


壮途につくイ53潜

7月24日勝山淳中尉(海兵73期)、7月29日川尻勉一飛曹(北見中)、8月4日関豊興少尉(明治学院大)、荒川正弘一飛曹(法政大)、発進戦死。
回天2基故障のため発進不能。(生還者、高橋博、坂本雅刀)





*資料・勝山艇のアンダーヒル撃沈*

『回天その青春群像〜特殊潜航艇の
男たち』(上原光晴/翔雲社)より

中尉:部下を大切にし、出撃まで寝食を共にした。
・・伊五三潜は、多聞隊の先陣をうけて、七月十四日に出撃した。レイテと沖縄をむすぶ線上に待機、哨戒にあたった。

二十四日午後二時ごろ、北上する輸送船団を発見し、大場艦長は「回天戦、魚雷戦」を下令。勝山中尉の一号艇が、発進した。

R.M.ニューカム少佐の指揮する駆逐艦アンダーヒル(1400トン)が、船団護衛部隊の一艦として、フィリピン・ルソン島北部の東方を航海中であった。

ニューカム少佐は、潜望鏡を発見して爆雷攻撃をはじめ、油膜が浮かんできたのを見て「潜水艦一隻撃沈」と無線で報告した。
そのとたん、もう一つの潜望鏡を間近に発見。転舵しようとしたが間にあわず、大爆発がおこり、艦首もふっ飛び、艦長以下士官十名、兵員百十二名が艦と運命をともにした。
生き残った士官の先任者エルウッド・M・リッチ中尉は、駆逐艦は真っ二つに割れたと報告している。

命中したのは、勝山艇である。勝山艇が発進して四十分後に、大音響を聴取。潜望鏡をあげて観測したところ、黒煙一条がレンズいっぱいに立ちのぼっていた。

誰が挙げた戦果であるかを確定できる、回天では唯一のケースとなった。勝山中尉は、勝気で純情、みなに愛される明るい士官であった。 

>> 海軍少佐 勝山 淳




イ58潜(原爆搭載艦インディアナポリス撃沈)



前列:揚田司令、水井少尉、橋本艦長、沢村司令、伴中尉、鳥巣参謀
後列:沢谷整備長、小森一飛曹、林一飛曹、白木一飛曹、中井一飛曹、橋口特攻長、渡辺分隊長



神酒を受ける林一飛曹


短刀を受ける水井少尉

7月28日伴修二中尉(東京麻布獣医)、小森一之一飛曹(県立高岡工芸電気科)、8月10日水井淑夫少尉(九大)、中井昭一飛曹(大阪府立淀川工業校)、8月12日林義明一飛曹(台南第一中)、発進戦死。
回天一基故障のため発進不能。(生還者、白木一郎)




*資料・原爆運搬艦インディアナポリスの撃沈*

『特攻兵器回天と若者たち』新潮社/
鳥巣建之助(元水雷参謀・海軍中佐)より

昭和20年7月29日午後11時5分頃、イ58潜浮上。観測。その直後左90度、距離10,000mに敵艦らしきもの発見。直ちに沈航。

橋本艦長、「魚雷戦用意」「回天戦用意」号令。

水雷科員、魚雷発射準備。回天搭乗員(中井、白木両一飛曹)、発進準備。
午後11時9分、潜望鏡に映る艦影が大きくなると橋本艦長「発射魚雷数6本」「五号艇回天、六号艇回天発進準備」下令。

中井、白木両一飛曹、「五号艇よし」「六号艇よし」と報告。

敵艦刻々と接近。大型艦であることがわかる。

艦長、「距離2,000メートル、方位角45度」と令し、あらかじめ方位盤に調整させる。

橋本艦長は、人命尊重のため、まず回天ではなく通常の魚雷を使用。11時26分、艦長「発射はじめ」発令。「右60度、1,500」と方位角、距離の改定を命じる。方位盤手、復唱。

「用意、撃て」で魚雷発射。(2秒間隔で計6本)

その約一分後、三つの水柱、命中音と爆発音を確認。

艦長、次発装填のため深々度に潜航。(この時回天内の白木、中井一飛曹は「敵艦が沈まないなら仕留めに出して下さい」と電話で再三催促したと伝えられる)。魚雷の装填を終わり、潜望鏡を上げたときには、すでに海上に敵影はみえなかった。海上に浮上し、しばらくあたりを捜索したが何も見えないため、アイダホ型戦艦撃沈と確認。その後この艦は、広島と長崎に投下された原爆をテニアン島(B−29の拠点)まで運んだ帰りの重巡インディアナポリスと判明。


*インディアナポリスとマンハッタン計画*

同・『特攻兵器回天と若者たち』より

米重巡インディアナポリスは、第五艦隊司令長官スプルアンス提督の旗艦として、ギルバート攻撃戦、マーシャル群島攻略戦の陣頭に立つ。その後、トラック島空襲、パラオ空襲、マリアナ攻略、硫黄島攻略を経て、沖縄作戦に臨む。昭和20年3月30日、沖縄沖で神風特攻の体当り攻撃を受け損傷。自力でサンフランシスコのメーア・アイランド工廠に帰投。ここでマンハッタン計画(日本への原爆投下作戦)の原爆運搬の司令を受けることになる。完工した7月16日、二個の原爆を搭載しサンフランシスコ湾を出港。7月26日、テニアン島(原爆を搭載するB29の本拠地)へ到着、原爆を降ろす。そして出港後の7月29日、伊58潜の攻撃を受け撃沈。

伊58潜より発信された「敵艦撃沈確実」の電報は米無線班により当然解読されたが、マンハッタン計画は極秘事項で、その関係者にはまったく通知されなかったため、この情報は真面目に検討されず、海上で救援を待った500名を含む800名が死亡するという、米海軍最大の惨事へとつながった。

その後8月6日、原爆を搭載しテニアン島を飛び立ったB29は、広島に原爆を投下。同じく九日、長崎に原爆を投下。一挙に30万人の命が犠牲となり、ここで天皇の聖断が下され、終戦となる。
 

*米大統領トルーマンの日記(広島への原爆投下より12日前のもの)*

同・『特攻兵器回天と若者たち』より

「われわれは、世界の歴史を通じて最も恐ろしい爆弾を作り上げた。ニューメキシコ州の砂漠で行われた実験は、控えめにいっても驚くべきものだった。重さ十三ポンド(約5.9キロ)の爆発物が、高さ20メートルの鉄塔を完全に破壊したうえ、深さ2メートル直径400メートルの大穴を作り、800メートル離れていた鉄塔を倒して、9キロメートルもかなたの人間をなぎ倒したのだ。

この兵器はいまから8月10日までの間に、日本に対して使う予定だ。私はスチムソン陸軍長官に、攻撃の対象は軍事目標と陸海軍人に限り、婦女子は対象からはずすよう指示した。・・世界の福祉をめざす指導者であるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を古い都市(京都)や首都(東京)に投下することはできない。

長官と私の意見は一致した。目標は純粋に軍事的なものにするとともに、ジャップに対して、降伏して人命を救うよう呼びかけるよう警告の声明を出すことにした。警告で日本が降伏するとは思わないが、そのチャンスは与えたことになる。原爆をヒトラーやスターリンの一味が作り出さなかったことは、世界にとって実に喜ばしい。

これは、これまでに発明された最も恐るべきものだが、それを最も有益なものにすることができるだろう」


*原爆の功罪について*

同・『特攻兵器回天と若者たち』より

・・神風特攻により損傷を受け、メーア・アイランドに帰投、大修理をしたために原爆を運搬するめぐりあわせとなり、原爆を運搬したあと、回天特攻隊の伊58潜に撃沈されたインディアナポリスの運命には何か因縁めいたものを感ずるが(註:筆者はその前の章で「万に一つも起こり得ないような奇跡が起こった」と書いています)、この原爆が戦争を終結させる要因となり、より大きな不幸を防いだのではあるまいか。

(中略)・・もしもあのとき、原爆の投下がなく、戦争を続けていたならば、米英軍はもちろん、ソ連軍の本土上陸となり(8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破って宣戦布告)、日本の悲惨は言語に絶するものとなり、四分割占領が実現し、日本は東西と南北に分割されたドイツや朝鮮のような悲運に見舞われていたかも知れなかった。

原爆投下はまことに不幸であった。しかしその幾百倍の不幸を日本民族に与えずに済んだことを考え、全日本民族にかわって犠牲になった広島、長崎の幾十万の同胞に感謝しなければなるまい。・・ 
 

−HP制作者として−

制作者はこの見解(「原爆の功罪について」)を支持しています。これが、過去の事実をもっとも現実的に受け止め、それを未来に生かす解釈の仕方だと考えます。

仲介役の存在しなかったこの大戦、アジア植民地化阻止の最後の砦として立ちはだかった日本(一方で欧米の帝国主義にも染まりましたが――)と、その日本を潰そうとしたアメリカという図式の中で、日本が死滅するまで戦わざるを得なかったのは、もはや不可避であったのであり、それが最後は「特攻」と「原爆」という、人類の歴史において、今後二度と起こることがないともいえる空前絶後の体験を通し、日本はたとえ負けるにしてもアジアの国としての意地、執念を見せつけ、また最後は原爆投下により、それが国家の滅亡にも分割占領にもならずにすんだ。日本にとって、その後の再建につながる最も幸運な形で戦争を終えることが出来たと考えます。

それは何より現在までの、この経済的成長、繁栄、平和が証明しています。これからはそこに、敗戦で失われた日本人としての誇りを取り戻し、魂を入れていくことが、散っていった特攻隊員、また多くの兵士が未来を託した「我々」に、課せられた課題であると考えます。




イ47潜



左より加藤中尉、桐沢少尉、新海、河村、石渡、久本各一飛曹

沖縄東方海域に向かうも会敵せず8月11日帰還。




イ367潜



前列:岡田一飛曹、安西少尉、今西艦長、藤田中尉、吉留一飛曹、井上一飛曹
後列:高島整備長、溝口特攻長、鳥巣参謀、板倉参謀、湯浅先任将校



出撃と回天上で見送りに応える搭乗員たち

沖縄・グアム線上に向かうも会敵せず8月15日帰還。




イ366潜



前列:佐野一飛曹、上西一飛曹、成瀬中尉、鈴木少尉、岩井一飛曹
後列:整備員(順不同)小池兵曹、佐藤兵曹、細川水長、安達水長、更谷水長


8月11日、成瀬謙治中尉(海兵73期)、上西徳英一飛曹(県立築上中)、佐野元一飛曹(園部中)、発進戦死。
回天2基故障にて発進不能。(生還者、鈴木大三郎、岩井忠重)





イ363潜



前列:久保一飛曹、園田少尉、木原艦長、醍醐長官、上山中尉、石橋一飛曹、小林一飛曹
後列:足羽艦隊軍医長、浜口整備長、中村司令、揚田司令、長井司令官、有近参謀、不詳、鳥巣参謀



出撃の光景

沖縄東方に向かうも日本海に配備変更を命ぜられ、北上の途中敵機の銃撃を受け、潜水艦損傷(乗組員二名戦死)、8月18日帰還。

*関連リンク (-2011.11.7-)
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  『原爆に一矢報いた回天多門隊』――伊五八潜のあげた奇しき大戦果 /元第六艦隊参謀・鳥巣建之助

  米重巡洋艦インディアナポリス - Wikipedia -

  インディアナポリス(画像) 『回天特別攻撃隊写真集』 回天会発行

  『伊号58帰投せり』(日米潜水艦戦) 橋本以橋 /光人社NF文庫

  『回天 一特攻隊員の肖像』 編者:児玉辰春 /高文研

    - 血染めの鉢巻 勝山淳海軍少佐 (殉国の碑)

  『伊号第366潜水艦の一生』 池田 勝武 /文芸社

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  日本への原子爆弾投下 - Wikipedia -

  広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia -

  長崎市への原子爆弾投下 - Wikipedia -