空洞だけが残った

「海の神風」出撃せず 

 伊豆諸島・八丈島(東京都八丈町)。その海辺の片隅にある洞くつが、太平洋戦争中の日本軍の特攻兵器「人間魚雷」の基地の跡であることは、あまり知られていない。結局、島から出撃することなく終戦を迎えたものの、洞くつは太平洋に浮かぶ、生と死の境界線として語り継がれる。終戦の1945(昭和20)年と、2001(平成13)年。洞くつをめぐるそれぞれの夏を、終戦記念日のきょうから2回にわたり、リポートする。





太平洋戦争末期、人間魚雷「回天」の格納壕だった洞くつ。「戦後50年以上を経て、かなり壁が崩れてきている」と島の戦史研究家、山田平右エ門さんは危ぐする=八丈島で

 「この先ですよ」

 歓声が上がる八丈島・底土(そこど)海水浴場。その先にある小高い緑の山の前で、島の戦史研究家・山田平右エ門さん(77)が告げた。細い道を二百メートルほど歩く。山田さんの仲間があらかじめ草を刈ってくれていたが、普段は生い茂る亜熱帯植物が行く手を阻む。

 たどり着いた「回天」基地の格納壕(ごう)跡は、山肌にくり抜かれた高さ四メートル、幅三メートルで、奥行き三十七メートルほどの洞くつだった。

 足を踏み入れると、中は真っ暗。冷気以外何もない。水滴がぽたぽた落ち、でこぼこの床に崩落したのか、岩が転がる。

 かつて、ここに回天があった。搭乗員の操縦で敵艦船に体当たりし、撃沈するための一人乗り魚雷。いわば海の“神風特攻隊”だった。

 山田さんが言う。「島に配備された八基の回天のうち、この底土には四基。当時、格納壕は二つあり、それぞれ二基を一列に並べていたそうですが、今も残るのはここだけです」

 回天特別攻撃隊の誕生は戦争末期だった。海軍の青年士官、黒木博司中尉と仁科関夫少尉は戦局打開のため、人間魚雷兵器採用を軍に上申したが、「必死の兵器」として拒絶され続けた。だが、戦局は一層悪化。四四年八月、神風特攻隊初出撃の二カ月前、人間魚雷は正式採用された。

 八丈島には陸上型「防衛基地隊」の一つ、「第二回天隊」が置かれ、八人の隊員が着任した。終戦直前の四五年五月三十一日だった。

 山田さんは「サイパン、そして硫黄島も陥落し、次は飛行場もある八丈島が狙われる恐れもあると、本土防衛上、兵力を強化した一環でしょう」と秘密兵器・回天の八丈配備の背景を推測する。

 洞くつを出て、百メートルほど離れた海岸へ。出撃に備え、山中の格納壕から海岸まで敷かれていた運搬用レールの跡らしき白いコンクリートが一部残っていた。

 「戦争末期、島内には二万人以上の陸海軍兵(現在の島の人口約九千三百人)が投入され、今も跡が残る陸軍司令部など地下壕は総延長六十キロを超えるといわれている」と山田さん。八丈島は小島ながら本土を背にする位置関係から、次第に島全体が要さい化されていった。

 しかし「結局、米軍は八丈島に上陸せず、島の頭越しに本土攻撃を強めた。回天は最後までこの格納庫から出撃することはなかった」(山田さん)。

 終戦後、回天は米軍の命令で爆破され、破片などは鉄くずとして、朝鮮戦争のころ、地元業者らが売却したとも伝わる。

 そして、残ったのは、ただ、空洞だけ−。

 山田さんは中学教諭を定年退職後、二十年前に町の戦史研究を始めた。島内外の調査を続け、島では第一人者だ。

 回天の格納壕跡は、十年ほど前に初めて訪れた。「後世に保存すべき貴重な戦争遺跡」との声も聞かれるが、町などに動きはない。山田さんは「放置していれば、洞くつはいずれ崩れ落ちてしまう」と“風化”を警告する。

 「私は戦争末期、徴兵などで島を離れていた。だからこそ、当時の島のありのままを知りたいと思うようになったんですね。二度と同じことが起こらないように」

   ◇  ◇

 空洞。しかし、この空洞の中には、本当に何もないのだろうか。第二回天隊の八人は、一体どんな思いでこの洞くつから海を眺めていたのだろうか。

 第二回天隊・元隊長で、全国の回天搭乗員でつくる全国回天会会長を務める小灘利春さん(78)は現在神奈川県内に暮らしている。八丈島の「空洞」を埋めるため、会いに行った。

 (メモ)

 ◆回天 弾頭に1.55トンの爆薬を搭載、最高速度30ノット(約55キロ)で航走。初陣は1944年11月8日。潜水艦を母艦にするほか、陸上基地などに合計22隊、244基が配備。「時勢を一変させる」として戦局打開の願いが名称に込められた。搭乗員は海軍兵学校、学徒や飛行予科練習生出身ら、大多数が20歳前後の合計1375人。うち、106人が戦死した。

東京新聞(朝刊)−2001.8.15− 文・増田恵美子 写真・川北真三

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