周南市回天記念館内壁修正の件

概要
・これまで判明した事実の範囲内で言わせていただけると判断することを伝える。(具体的に明記。*1)
・河合不死男のみならず、国家滅亡の国難に立ち上がり、士官率先で先頭に立ち出撃していったという、当時の回天隊をしっかりと伝えて行くことこそが、周南市に多くの富をもたらすであろうというのが(それだけの力を持っていると確信する)、この件から派生するすべての核となっている。人間の営み、−−日の当る部分だけでなく、散華して今も(永遠に)海の底に眠る搭乗員同様、中々表現出来ない影の部分もしっかりと見据えたところから、人材が集まり育ち、文化、産業経済がうるおい英知が発展する形、方向で進めて行く。そのためにどう行動すべきか、というのが自分の基本となる考えである。
・これは周南市にとどまることなく、自分と将来関わりあうすべての人達につながっていくという視点からのもので、そういったパスポートが第一回天隊隊長・河合不死男遺族代表としての自分にはあると考える。
・これまでのことはいずれ必要に応じてweb上で公表する考えがある。関係者には個別に周知する。
・『社会的な立場や地位、財力ではなく、人間としての秩序、相手のことを思い、いたわる心のあるところに、人間にとって本当に必要な知恵、力が生まれる』、というのが自分の信念である。
・無名の、海底に沈む兵士達の長としての責任、役割があると考える。社会の底、裾野で日本を支える人達の生活レベルの向上を目指すのが自分の最も大きな課題の一つである。
・特攻は「人柱」であったと思う。「軍神」「生き神様」が「人柱」となって海底に沈み日本を護れば、そこから「霊気」が生まれる。自分には、そういう人に与えられる力と、人の庇護や恩情が必要な心的欠陥、性(さが)を負って生きているように思う。そういう精神障害者的な側面が自分には確かにある。
・その解決策を与えてくれるような(日本が体験した、この負の極限の歴史をプラスの力に昇華する)場所としての大津島になっていくのなら、コンタクトをとっていける。
・第一回天隊隊長・河合不死男は、周南市のみならず、「日本のお守り」、といった意味合いの役割を果たすことになると思う。

*1 これまで判明した主な事実
・1999年3月発行の『回天記念館・概要収蔵目録』[編集・発行:回天(基地)を保存する会/監修:徳山市教育委員会](下記)にある資料を利用した回天記念館内壁の解説において、第一回天隊の記述がそのまま一切削除された。
・2001年、回天顕彰会の指摘によって内壁の解説に訂正、修正が加えられた。この際も第一回天隊についての修正はされなかった。(周南市文化スポーツ課の回答。)
・それまで回天記念館及び靖国神社が所蔵する河合不死男の遺品は0。現在の遺品はその後回天記念館で保管していただいている(弟・強が保管していたものを高齢の為2011年2月寄託)、出撃前に残したアルバムの一点のみ。
・桜井兵曹宛て書簡。…HP制作期間中、小灘会長から資料を整理していたら出てきたとコピーを一部いただく。(現在どう保管されているかは確認出来ず。)
・多賀谷虎雄元搭乗員が回天会に預けた、河合不死男が贈った遺句は紛失。(不明。河崎事務局長が亡くなられた後、事務局では保管しておらず。事務局長の奥様談。小灘会長が保管していた可能性も考えられる。多賀谷さんは靖国神社に寄贈してもらえるものと思っていた旨、生前語られていた。)
・ネット(『回天特別攻撃隊』のフラッシュ動画)で話題になった河合不死男、伊東中尉、久住中尉らの回天搭乗員の笑顔の写真は、回天会発行の写真集(1992年12月刊)には載せられていない(それまで公表されていない)ものだった。
・1997年11月出版の武田五郎氏著『回天特攻学徒隊員の記録』(光文社)において、基地配置図で第一回天隊が除外。(補足1)
・1999年3月発行された『回天記念館・概要収蔵目録』において、第一回天隊に関する記述(配置図、年譜、出撃記録、出撃写真)はすべて割愛。 (補足2)
・HPの制作が始まった2000年以降に判明、修正されたこと。
  …「潜水学校に河合不死男はいなかった」→「遺品のアルバムには潜水学校卒業とある」と伝える。→「河合不死男は潜水学校にいた」という証言があって「いた」と訂正。
  …沖縄の『平和の碑』戦死者氏名に河合不死男がないことが判明。→礎に河合不死男の氏名を追加。
  …第一回天隊の第十八号輸送艦乗組員名簿(搭乗員、整備兵以外)はすべて紛失。基地の詳細、所在も不明。→名簿が一部見つかる。

 (補足1)そのおよそ2年前の1995年9月に発行された神津直次著 『人間魚雷回天』 (朝日ソノラマ.)における、第一回天隊と第二回天隊の出撃に関する記述。
「(昭和二十年五月)十五日。八丈島基地回天隊が出発。この隊は大津島から隊長小灘利春中尉(海兵七二期)と下士官搭乗員三名、光から次席搭乗員高橋和郎中尉(予備学三期)と下士官搭乗員三名の混成部隊で、光基地で出発式をおこなったのち、汽車で横須賀に向かった。白龍隊のときと違い、熱狂の見送り風景はなく、ひっそりとした出発だった。」
この本の出版記念パーティーに、1991年3月全国回天会会長になられた小灘さんは出席され、関係者の前でスピーチをされたとのこと。 わずか数行の文章であっても、会長の威信をゆるがす、許し難い記述だったのではないかと個人的に推測する。

 (補足2) この収蔵目録が発行されてすぐ、まったく別の形から、(自分が河合不死男の遺品のアルバムの存在を知り、靖国神社遊就館でパンフレットを見つけ)、回天会に問い合わせ、小灘会長と出会うことになる。 その後、インターネットが利用出来る環境となり、ご協力をいただきながら自分がHPを制作して発信、今日の流れになった。 小灘会長は、当初は違う方向に進まれようとしていたとも個人的には推測するが、HP開設以降亡くなられるまでにいただいた手紙、メールは100通あまりとなり、このご厚意は「心底感謝しています」、と公言出来るものである。

2000年HPを立ち上げて以降の経緯


周南市長木村健一郎様にお伝えしたいこと

・市長、周南市議会を船頭として、市の方針としての決断があれば、これから事態は良い流れに大きく変わって行くと強く確信する。
・ほんの一例としていくつかを揚げる。
 a.「国家再建の礎」となって今も(永遠に)沖縄の海の底に眠る、第一回天隊隊長・河合不死男(大正11年1月1日生まれ)の存在を、これから日本の人々に広く知ってもらうことにより、「人間としての誇り」、「尊厳」、また不死男という名前から「長寿」、元日生まれの「寿」という方向性で、限界過疎集落である大津島の様々な活性化への道が生まれる。
 b.酒蔵「はつもみぢ」等、それらを地場産業の発展につなげる。
 c.防長交通等、周南市と首都東京をつなぐ様々な企画を立て、人的交流、文化の育成、経済の発展を図る。
・日本一高い山、富士山は日本のみならず世界にも知られ、世界遺産にまでなったが、日本で二番目に高い山を知る人は日本人でもごく少ない。繰り返しになるが、第一回天隊の隊長、そして大正11年1月1日生まれの河合不死男が、回天の史実、志を伝えるの中心の一人となり、これから日本の人々に広く知られるところとなれば、必ずや周南市に大きな富、幸福をもたらす筈である。

市としての謝罪、Web上での謝罪
・市としての謝罪。謝罪文のWeb上での掲載を希望する。
・他にも同様の排除が見られ、周南市の落ち度とは積極的に思うものではないが、それを10年以上見過ごし続けた責任は重いと考える。遺族からの指摘がなければずっとこの状態が続いた。それを謝罪もなしに修正して良いものか。
・「あなたに子供はいますか、自分の子供が特攻で人間魚雷に乗って、敵に体当たりするべく出撃戦死して、こんなことをされたらどう思いますか。」
・謝罪がない場合は訴訟、或いはそれに相応する内容をWebで公開することを選択枝に入れる。
・この件の担当者を明確にしていただきたい。その際メール、会話、通話すべて、第三者が確認できるものとしてファイルに残す。

回天顕彰会
・2001年の回天顕彰会による内壁記述の修正(訂正)で、第一回天隊の欠落を指摘しなかったのは、気付かなかったということはあり得ない。
・今からの後付での弁明は信憑性・誠意に欠けると考える。
・実際は小灘会長の回天会に、そういった空気が流れていたためではないか。(完全な階級組織であった元軍人の戦友会である回天会を前に、そこまで踏み込んだ訂正は出来なかったのではないか。)

回天会
・内壁、所蔵目録での第一回天隊欠如は、回天会関係者は知らなかったはずがない。他における同様の欠如、河合不死男の遺品不明の件も併せ、インターネットのなかった当時の情況から考えれば、第一回天隊を伝えないようにという意志が暗に働いていたとも考えられる。
・1995〜2000年当時は、今のようなインターネット社会の価値観では動いていなかった。(それまでの価値観でなされていたことで、インターネット社会になり真実真相を暴露されるようになった出来事が今はいくらでも報告されるようになっている。)
・(略)
・回天会はいつの間にか社会的な名誉名声を重要視し、自らの名誉を後世に残す、といったことに主眼を置く組織になったのではないか。(すべてを良いこととして伝える。良いことしか伝えない。都合の悪いこと、不祥事は一切伝えない等の雰囲気を感じた。)

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文化スポーツ課宛送信メール

----- Original Message -----
Date: 2014/3/13, Thu 18:51
Subject: 今回の件の詳細報告。

今回明らかになりました、『回天記念館概要・収蔵目録』において、第一回天隊に関する記述が一切割愛されていた問題、そして、それを基にした同記念館内壁の解説でも、同様に一切割愛されており、それが将来に渡って後世に伝えられようとした問題は、河合不死男・本人と遺族(両親)の心境を当方が代弁して表現するのであれば、許しがたい怒り、仮に死後の世界があるのなら、怨念、祟りとなってこの世に現れるであろう類の怒りです。
インターネットがこれほど普及することが想像されなかった当時、この行為は第一回天隊を抹殺するに等しいものであり、内壁の年譜他に、その後回天顕彰会からの指示で誤った記述の修正が加えられていた事実があるのなら、これは同顕彰会が第一回天隊の割愛に気がつかなかったというのではなく(それは有り得ません)、顕彰会でも指摘することが出来ない、何らかの圧力が存在した、と考える方が自然でしょう。
また、回天会関係者においても、見れば誰でも気づくことで、内心では皆そう思っても、それを上に上げられない、あるいは上がっても事務局レベルで止まってしまう何かが存在していた、と考えられます。
神津直次氏の著書『人間魚雷回天』(1995年刊)の中にある、先週(2014.3.7)送付したファイル、『ホームページ(HP)を立ち上げた2000年以降の経緯』で紹介した第一回天隊と第二回天隊に関する記述。
「(昭和二十年五月)十五日。八丈島基地回天隊が出発。この隊は大津島から隊長小灘利春中尉(海兵七二期)と下士官搭乗員三名、光から次席搭乗員高橋和郎中尉(予備学三期)と下士官搭乗員三名の混成部隊で、光基地で出発式をおこなったのち、汽車で横須賀に向かった。白龍隊のときと違い、熱狂の見送り風景はなく、ひっそりとした出発だった。」
この本の出版記念祝のパーティーで、小灘会長はスピーチを頼まれたそうですが(妻・郁子さん談)、これほど会長としての立場を辱められることはなかったのではないかと思われます。
その後出版された、武田五郎氏の著書『回天特攻 学徒隊員の記録』(1997年刊)では、小灘会長(搭乗員)が褒められ(良く書かれ)、基地隊配置図から第一回天隊が除外されているのを見ると、この頃から、表面的な第一回天隊外しが始まったのではないかと自分は感じます。
小灘会長と出会ってホームページを立ち上げた2000年頃、生き残り搭乗員の息子さんである峯一央氏と知り合い、いろいろ史料を頂いていた時期がありましたが、その中から「第一回天隊のこういう資料を頂きました」、と小灘会長に伝えると、後追いで、こういう史料がありますと送られてきた、当初はそのような形が続きました。

(略)

小灘会長からは、「第一回天隊については、1945年3月13日光基地から沖縄に向かった第十八号輸送艦乗組員の名簿も紛失等、不明な点が多い」と説明されてきましたが、その後「名簿の一部が見つかりました」と小灘会長から報告があり、また、「沖縄で戦死した兵士を弔う沖縄平和祈念公園の『平和の礎』に河合不死男の名前がなかったので、県に要請して加えてもらいました」、と報告があり、今思えば、峯氏の時と同様の、後追い後追いで手が打たれていたのではないか、という疑惑も、今では視野の中に入ってきています。
遺品については、靖国神社、回天記念館が所蔵する遺品は(当方がアルバムを記念館に寄託するまで)「0」。
多賀谷虎雄氏が回天会に預けた遺品(遺句)は、その後調べたところ回天会事務局では保管しておらず、紛失。
桜井兵曹に宛てた遺品(書状)は小灘会長が保管していて、これも「調べていたら出てきました」と、コピーを郵送して頂きました。
なお、多賀谷氏が所持していた遺句は、小灘会長が保管していて今後見つかる可能性も考えられます。
出会った当初、河合不死男の遺族の強(つよし)は、「なにわ会(海軍兵学校72期戦友会)」に参加しないのでなにわ会では非常に評判が悪い」と言われ、「河合不死男のことは、大男でしたがその他は何も覚えていないのですよ」と言われ、何かがあるかと感じながらはじまった関係でした。
関連する記憶としては、2004年の回天会新年会で、会が終わって、小灘会長と、ライターの片岡紀明氏と上原光晴氏と四人で喫茶店に入った折、片岡氏が何の拍子か小灘会長を「河合不死男さん」と呼んでしまった、その時、会長の顔がみるみる硬直し、震え出し、怒った様子をはじめて見ました。この時、おそらく小灘会長は第一回天隊、河合不死男に相当のライバル心を持っていたのだろう、と自分は感じました。

(略)

今回の件に関し、現時点で思い浮かぶ(伝えられる)のは以上ですが、おそらく、明らかな意図はなかったとしても、河合不死男を口に出来ない雰囲気が回天会(事務局)の中にあって(当方が最初に伝えられたことは当然伝えられていたでしょう)、それが曲折して、今回の問題になって現れたのだと自分は感じております。
明らかな意図があった場合は、第一回天隊については将来伝えるな、という回天会の意志と関係者は受け取るでしょう。
他の事項については改めてご連絡致しますので、今しばらくお待ち下さい。
(このメールに対する返信は不要。関係者の方々に配布して頂いても結構です。)


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この件の所感
河合不死男も両親も死んでしまっている。言いたくても何も言えない。そういうところからの何かの波動を感じ、自分は動いてきたようにも思える。 これまでお伝えしてきたように、2013年7月夏の山間部金峰(みたけ)での惨事があったことで大津島を訪れる考えになった。
「こんなことをしたら死んだ人間が生き返る。だからこのような、いわば封印がとれたような流れになってきたのだろう・・」というのが、内壁第一回天隊欠落のこの件に関連して自分が率直に抱く感情である。

2015年8月14日