第76回テーマ館「朝起きたら…」



リフレクション 第二章(6) 夢水龍之空

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「これが、あなたの身に起こった出来事の正体です。捜査のためとはいえ、無理なことを
させて本当に申し訳ありませんでした」
 渡川が病院のベッドで目を覚ましたのは、大作戦から二日後のことだった。
 意識はあるものの、かなり衰弱していて医師との会話もままならず、眠っていてもうな
されているような声を漏らすことがあった。そのため警察が面会を許されるまで、さらに
四日の時間を要した。
「じゃあやっぱり、秀磨は死んだんですね」
「はい。亡くなっています」
「今の話だと、犯人は左利きということになるんですね」
「はい。すぐに捜査令状が発行されて、建部さんの自宅に踏み込みました。本当に頭のい
い人で、少し手間がかかりましたが、盗まれた現金をそのまま押収しました」
「そうですか」
 医者の口から、ある程度のことは聞いていた。いきなり警察と話すのは負担が大きいと
いう病院側の判断の結果だ。
 心の準備をして待っていた渡川の前に現れたのは、あの衣装そのままの井倉だった。髪
はまっすぐにしていたが。
「長い話をしましたから、今日はここまでにしましょうか? もう少し元気になってから
の方がいいかもしれません」
 心配そうな井倉の顔を見て、渡川には可哀相という言葉が浮かんだ。こう説明されたと
ころで、目の前にいるのはどう見てもあどけない少女なのだ。
「あのう、その服は」
「あ、これですか。できるだけ親近感を持ってもらうために、目立たないものを選んだん
です」
 目立たないとは思えなかったが、渡川はとりあえず頷いた。
「色彩心理の世界では、青というのは安堵感や癒しを与える色とされています。警戒心を
持たれにくいように、この色にしてみました。どうでしたか?」
 どうと言われても困る。あの時なら、例え宇宙人に話しかけられても受け入れただろ
う。渡川はそう思ったが、正直に話すのも気が引けたので、微妙な答えを返した。
「まあ、可愛かったです」
「あら、まあ、そうですか? ヤですねえもう」
 井倉はすっかり照れてしまった。女優並みの演技力を持ちながら、実は恥ずかしがり屋
なのかもしれない。そんな風に思うと、渡川はあの日、井倉と過ごした短い時間のことを
思い出し、胸が温かくなった。
「あの、僕の注意を周りから逸らすのが、ミカちゃ……井倉さんの役目だったんですよ
ね?」
「そうです。それと、渡川さんが何か重要な発言をした場合、そこから事件の真相をしっ
かり導き出す役でもありました」
「すごいですよね」
「何がですか?」
 首をかしげる仕草がまた可愛い。
「いや、初対面の人間の意識を自分に引きつけられるとか、重要な発言は絶対に聞き逃さ
ないとか、そういう自信がないとできないことだろうなと思いまして」
「そんなことはありません。自信なんて、どこにも無いんです」
「そうなんですか?」
「そうですよ。自信じゃないんです。ただ、今は自分にできることを一つでも増やしたい
んです。そのために経験できるチャンスがあれば、逃げずに挑戦したいんです」
「へえ」
 何があったのか分からないが、とても強い決意を感じる。渡川の興味は増すばかりだっ
た。
「あの宅配便とか、財布の女性とかは、どうしたんですか?」
「あれは、警察官の変装です」
「あ、でも、そんな感じは全然」
「しないでしょうね。そういう配役ですから」
「と、言いますと?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、井倉は説明した。
「宅配の人は、広瀬巡査です。警察音楽隊の人なので、事件の捜査には出たことがありま
せん。とても警官らしくないので、顔を合わせる役にはぴったりでした」
「そういう仕事があるんですか」
「はい。式典や警察のイベントで演奏したり、司会をしたり、そんなお仕事です」
「へえ」
 知らなかった。どこかの楽団を雇っているものと思っていた。警察の臭いがしなかった
のは当然だ。
「家から出てくる様子を見守って、渡川さんが周辺に違和感を持ち始めないかチェックす
るために、うちの蔵牧が隠れていました」
「あ、上司の方ですよね」
「はい。私の教育係です」
「あ、そうなんですか」
「はい。渡川さんが周りを見ながら考え始めたので、蔵牧の合図で私が出て行きました」
「なるほど」
 絶妙なタイミングの理由が分かった。
「渡川さんを知っている人が声をかけてきても困るので、そういう素振りの人がいないか
チェックするために、駅周辺を刑事たちが張っていました。この変装もなかなかだったん
ですよ」
「へえ、見たかったなあ」
「見てるはずです。ただ気づかなかっただけです」
「あ、そうか」
 本職の技、といったところか。
「OLさんの役は、私の同期で交通部の愛田です」
「あんな綺麗な人もいるんですか」
「いるんですよ」
「そっちでも刑事さんたちが?」
「もちろんです。同じ電車で移動もしています。同じ車両の、隣のドアにいました。ちな
みに、OLさんが声をかけたコンビニの店員は、三課の雲田巡査、八百屋の親父さんは、
同じく三課の出水警部です。見張り役は、一課のお三方でした」
「知らなかった……」
「プロですから」
 日本の警察もやる時はやるものだ。渡川は人知れず存在する守護者たちが、とても心強
いものに感じられた。
 その守護者たちが果たした役割を考えると、渡川の思考は自然に事件の方へ流れた。
「建部は……」
「はい」
 事件のことを思い出そうとすると、まだ頭が痛んだ。そのまま自分が壊れてしまいそう
なほど痛むことも少なくない。だが、聞かないわけにはいかなかった。井倉に話してもら
えれば、聞けるような気がした。
「建部は、何と言ってますか?」
「動機ということでしょうか?」
「はい」
 すべて予定通りという対応を見せていた井倉が、初めてためらう様子を見せた。
「教えてください」
 渡川は、どうしても知りたかった。必要だと思った。
「分かりました」
 井倉は答えた。
「鉾立さんは、あまり他人の感情に配慮する人ではなかったようですね。悪意は無くて
も、人を傷つけてしまうことがありました」
「はい」
「建部さんは、とてもプライドの高い人です。自分の仕事には絶対の自信があって、それ
を誇っていました」
「はい」
「あの日、建部さんは早朝から鉾立さんを訪ねて、金額交渉をしたそうです。長いこと言
い合ったそうですが、鉾立さんは最後に、俺を本当に満足させる仕事ができれば考えて
やってもいい、といった意味のことを言ったそうです」
「あぁ……」
「その後のことは、建部さんもはっきりした記憶が無いと言っています。ただ、とても頭
のいい人ですから、心は乱れても冷静な思考を保って、コンビニで裁縫用の糸を買い、建
築現場から鉄パイプを盗み出して、現場に戻りました。九時くらいだったはずだと、建部
さんは言っています」
「それで、殺したんですか」
「はい。お金を奪ったのは、欲しかったからというより、死んだ鉾立さんが持つよりは生
きている自分が持つ方が合理的だと考えたからだそうです。お金に困っている橋浦さんに
嫌疑が向く可能性も考えたそうです」
「鍵をかけたのはやっぱり」
「はい。発見を遅らせるつもりでした」
「なんか、彼らしくないですね」
「同感です。それだけ感情的になっていたということでしょうね」
 渡川の頭の中には、不自然な格好で倒れている鉾立のヴィジョンが浮かんでいる。それ
でも、今までのような痛みは起きなかった。「あれから、一年経ったんですよね」
「はい」
「僕は、どうしたらいいんでしょうか?」
 一瞬だけ考える素振りがあって、井倉は言った。
「警察の捜査の過程で、渡川さんのお仕事の関係者さんには、事情が知られています。復
帰したと連絡すれば、またお付き合いできると思います。今まで通り、でいいんじゃない
でしょうか」
「今まで通り」
「はい。お友達を亡くされたこと以外は、今まで通りです」
「そうか……」
 いや、違う。渡川は思った。
「あの、井倉さん」
「はい」
「退院してからも、また会えますか?」
「は?」
「ダメですか?」
「あの、え?」
 想定外の質問だったらしい。理解できなくて困っている顔を隠そうともしない。
「あの、私は交通なので、この辺の道路によくいますけども」
「はは、交番なら分かりやすいんですけど」
「すみません。交番には入れてもらえませんでした」
 本当にすまなそうな顔をしている。渡川は思わず笑ってしまった。
 きょとんとした、不思議そうな目で、井倉は渡川を見ている。最初に会った時にも、同
じ目をしていた。その顔だけは演技じゃなかったんだなと思うと、なんだか嬉しくなる渡
川だった。

完


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