第76回テーマ館「朝起きたら…」



リフレクション 第二章(5) 夢水龍之空

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 医者を説得するのに三日を要したが、ついに本格的な作戦会議が開かれた。
 主導権は完全に井倉の手に移っていた。彼女の言葉こそが、彼らの意志だった。
 まず、渡川の生活習慣を急ピッチに調べ上げた。それにも、井倉が活躍した。
 部屋には人のすべてがあると言い、井倉は渡川のマンションを訪れた。ワンルームで、
玄関から向かって左のスペースは書斎部分、奥の窓際から寝室部分と、建具は無いものの
道具の配置ではっきり区別されていた。物は乱雑だったが配置には規則性がある。さすが
デザイナーと言うべきか。
 まず部屋を見回して、ラジカセを見つけると、井倉は首をかしげた。飯泉が見守る中、
おもむろに電源を入れると、ラジオに切り替える。どこを回しても、放送が入らなかっ
た。受信状況が悪いようだ。次にテレビの電源を入れると、何も映らない。数秒リモコン
を睨んでから操作すると、どうやらHDMIの外部入力になっていた。
「テレビは見ない人のようです。ラジオも聞いたことが無いですね。これはいいですよ」
 井倉は俄然元気になると、唖然とする飯泉には見向きもせず、獲物を探すような目つき
で部屋を見回した。
 井倉はベッドに上がると、カーテンレールを調べた。上はもちろん、内側にもかなり埃
が溜まっていた。カーテンは開けっ放しにすることが多いと推理した。
 持ってきた証拠物件、渡川が倒れていた時に携帯していた物を広げて、書斎スペースを
眺めながら、鞄に入っていた書類束を取り上げると机の上に置いた。同行した飯泉には紙
が散らばっていただけに見えたのだが、机の脇にあるシュレッダーの箱が紙くずでいっぱ
いだったことと、当時の捜査資料からプリンターの電源が入っていたのが分かっていたこ
とから、新たに多くの紙を印刷したはずだと井倉は推理した。比較的整理されていた机の
隅に新しい印刷物を束ねて置いた可能性が高いと考え、それを再現したのだ。
 ゴミ箱からは、配達伝票が見つかった。床に散らばった物の中には、潰した段ボール箱
もあった。そばにはちぎれたエアーパッキンがあり、ベッドの上にゲームソフトが放り出
されていた。配達伝票の荷主に連絡して、そのゲームソフトが荷主の物であり、ネットの
オークションで渡川が落札したものだと分かった。配達業者に問い合わせて、荷物の到着
が三月二日、朝八時半前後だということも分かった。
 井倉はキッチンを調べて、古新聞の束を見つけ出した。そこから三月二日の分を抜き
取って、その新聞会社に連絡した。一年前の在庫はさすがに無かったが、井倉は当てがあ
ると言って平然としていた。飯泉には何のことか分からなかった。
 署に戻ると、井倉は一年前の交番の記録を漁り始めた。すぐに、財布を落とした女性の
記録を発見した。女性の証言を詳しくメモすると、今度は資料課へ向かった。
 どうやら、井倉は資料課の担当者と顔見知りなようで、何やら二言三言交わすと、担当
者が奥へ引っ込んだ。数分後に出て来たその手には、警察署として毎日何部か買ってい
る、例の新聞があった。一年前の三月二日の新品だった。
 次に、井倉は渡川の所持品であったICカードを持って、地下鉄の駅へ向かった。渡川
のマンションから鉾立のマンションへは、地下鉄なら遠回りだが一本で移動できるのだ
と、飯泉に説明した。鉄道会社の協力でICカードの履歴を見てもらい、事件当日に渡川
が移動した時刻が判明した。それを見て、井倉はにっこりと満足げに笑った。
 再度渡川のマンションの部屋に戻ると、人がいないせいで溜まった埃、床の洗濯物から
起きていた臭いなどを始末して、あたかも昨日まで普通に生活していたかのような空間を
作り上げた。手が入った様子など感じられないほど自然な生活感を出すための繊細な工夫
と注意力に、飯泉は舌を巻いた。
 三月一日、作戦は実行に移された。
 朝はヒゲを剃り、昼の間に医師たちによる最終的な診断が行われ、体を起こしても無理
の無い状態だということが確認された。渡川の若さがあったためだ。当初はすっかり痩せ
ていたものの、点滴の栄養を得て頬は写真で見た元の形に近付き、青白い肌も色を取り戻
していた。体は健康になっている証拠だ。
 二k日前から、ベッドを起こして上体を縦にしておく時間を作るようにしていた。本来
は専門医の指導を受けながら徐々にリハビリするべきものを、いきなり起こして活動させ
るに当たり、できる限り体を準備させておくためだった。腰に力を入れる感覚を、体に思
い出させる必要があった。
 その間、渡川の意識はそれなりに戻っていた。見たら自分で立ち上がっていたこともあ
る。渡川には常に窓の景色は見せず、できるだけ声もかけないで、興味の無いふりをして
いた。曖昧なはずの感覚を助長して、夢だと思わせるよう努力してきた。
 夕方になってから麻酔を施し、いよいよ自宅への搬送となった。大型のバンで担架を運
び、マンションの部屋へ入れた。ベッドにひっかかっていたジャージがパジャマだと推定
し、それに着替えさせた。カーテンは開けておく。髪はあらかじめ、事件の現場写真と同
じくらいの長さに切り揃えてあった。切った髪が枕に残らないよう、入念に洗髪もしてお
いた。
 念のため夜通しで、向かいのビルから部屋の中を監視し続けた。そういう仕事は長南が
最も得意とするものだった。飯泉に仮眠を取らせる間も、ベッドの渡川から片時として目
を離さなかった。
 そして三月二日の朝、渡川は予定通りの行動を取ってくれた。

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