第76回テーマ館「朝起きたら…」
リフレクション 第二章(4) 夢水龍之空
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数日後、再び井倉たちが招集され、捜査会議が行われた。今度は会議室を借りただけで
はなく、書き直された『鉾立秀磨殺害及び強盗事件捜査本部』の看板が設置されていた。
「みなさん、お忙しい中、ようこそお集まりくださいました」
大下の挨拶から、話が始まった。
「実は、あまり状況がよろしくありません。渡川は意識を取り戻しましたが、容態が安定
せず、はっきりと目を覚ますまでには時間がかかりそうです。しかし、会話はできる程度
に回復しているとのことで、十分だけ時間をもらい、尋問をかけました。そこで、事件の
記憶がなくなっているらしいことが分かったのです」
「事件があった時間、つまり、襲われた時間の記憶が無いということですか?」
井倉が素早く質問して、これには飯泉が答えた。
「いいえ。事件の日の記憶が全体的に薄くなっているようです。その日の大雑把な予定で
すとか、仕事の状況については思い出せました。詳しい行動や、鉾立との約束については
曖昧です。おそらく、親友を失った上に瀕死の怪我を負ったショックが原因だろうという
ことです」
「容態が安定すれば、記憶も回復する見込みがあるのではないですか?」
「それは分からないそうです。記憶が戻ってショックを思い出せば、今度は精神を病んで
しまう危険性もあります」
「徐々に、ゆっくり思い出してもらえば」
「記憶がフラッシュバックすることは、制御できるものではないそうです」
話をしながら、井倉は何やら考えている様子だった。彼女が何を考えているのか、まだ
誰にも想像がつかない。だから次の言葉はあまりにも唐突だった。
「では、ゆっくり思い出すのも、一気に思い出すのも、渡川さんにかかる負担は変わらな
いと思っていいですね?」
「医者の話からすれば、そうです」
「なら、一気に思い出してもらったらどうでしょうか」
「は?」
今回も同席していた蔵牧の目には、井倉の意識にはもはや周囲の存在が無く、完全に思
索に集中していることが分かっていた。普段なら注意するところだが、今はそれが必要な
時なのだろう。そう考えて見守っていた。
誰もついて来ていないことなど気づきもせず、井倉は自分の話を続けた。
「容態が安定する見通しは?」
「傷は回復しているので、後は時間の問題だと」
「間に合うかしら」
「え?」
最後は独り言だった。
そのまま考え込んでしまった井倉に、大下たち全員が取り残される格好になった。蔵牧
はいち早く井倉の考えを読み取り、代わりに伝えた。
「つまり、渡川さんが回復してくれた場合、どうすれば記憶を取り戻せるかが問題です」
「ええ。分かっています」
大下が言った。
「出歩けるくらいになれば、事件の日にたどった足取りを、本人になぞってもらうのが早
いかもしれません」
「ああ、なるほど」
「ただ、リハビリも無しにいきなりでは、危険があるかもしれません。医師と相談した上
で判断する必要があるかと」
「そういうことですか。しかし、説明しながら同じ道を歩いても、その説明によって記憶
が歪められてしまっては意味がありません」
「それなら大丈夫です」
井倉が口を開いた。一斉に、すべての視線が井倉に注がれた。
「自分でたどってもらえばいいんです。自分で思い出しながら、同じ一日を体験してもら
います」
「同じ一日?」
「はい。あと一週間で、三月二日が来ます」
「まさか……」
「そうです。渡川さんには一年間の入院をあえて知らせずに、眠ったまま自宅へお運びし
ます。麻酔を併用すれば、目覚める時間もある程度はコントロールできるはずです」
「朝、去年と同じように目覚めさせて、同じ予定に沿った行動を取ってもらう、というこ
とか」
「はい」
本部を沈黙が支配した。
「前提として、鉾立さんのマンションの部屋が、そのまま使える必要があります」
「それなら、大丈夫です」
戸惑いながらも、飯泉が答えた。
「あの部屋は家主によって競売にかけられましたが、なにせ未解決の殺人現場ということ
で、落札者も困っています。手つかずで放置され、今も血痕までそのまま残っていると聞
いています」
「でしたら、可能です」
井倉は言い切った。
確かに、自分で思い出した記憶なら信用できるし、そのために自主的に同じ場所で同じ
行動を取らせるのに、一度経験した同じ日を繰り返させるというのは合理的かもしれな
い。ただ、そんな大作戦は見たことも聞いたことも無い。なんだか、警察よりも犯罪組織
に向いているような気もする。手段というより、手口と呼びたい。そんな考えが、刑事た
ちの頭で渦を巻いていた。
「気づくんじゃないか?」
大下の疑問は、全員の疑問だった。だが、井倉の回答は明快だった。
「渡川さんは、カレンダーだけがスケジュールの頼みです。手帳を所持していないことか
ら明らかです。三月一日に斜線が入っていたので、それによって時間の経過を把握してい
たと思われます。自由業ですから、土日という概念も薄いはずです。曜日感覚は一般より
低いと思っていいでしょう」
「曜日か。それをごまかせても、一年もすれば色々変わっているだろ?」
「他のことで気を引けばいいんです」
「どういうことだ?」
「例えば、話し相手がいれば」
「実際いないだろ」
「作るんです」
「作る?」
「はい。部屋で目覚めて、同じ内容の新聞でも見たら驚きますよね? 予定に従って部屋
を出てくれたところで、昨日と同じ日ですね、と言って近付いてくる人物がいれば、気に
なると思いませんか?」
「そりゃ、気になるというか、不気味というか」
「それです。同じ日を繰り返すという非常識な体験を、あっさり肯定する人間が現れた
ら、そもそもが非現実的な世界ですから、逆に自然と受け入れてしまうかもしれません」
「うーん。無いとは言わないが……」
「そうして近付いて、色々聞き出すついでに、会話によって周囲の風景の違いには注意を
向けさせないようにできます」
「うむ、不可能じゃなさそうだが」
井倉は関係者を見回した。誰もが、大下の言葉を待っていた。彼がやると言えば、やっ
てくれそうに見えた。
「その役は私がやります」
「井倉君が?」
「はい。私なら、きっと子どもに見えます。大人の男性より、女の子の方が警戒されない
はずです」
「それはそうだな」
「事件の手がかりとなる情報がつかめたら、その時点で終了を宣言します。記憶が戻って
危険に陥るようなことがあれば、すぐに中止します」
井倉の熱意も、部下たちの気持ちも、大下にはよく伝わっていた。渡川の身を案じる気
持ちもあったのだが、何より、こんな破天荒な捜査方法に自信が持てなかった。
「とにかく、渡川の見通しについて医者に聞いてみますか?」
飯泉が提案した。まだ若い彼には、井倉の珍妙な意見も、型破りで創造的な捜査法に思
えた。乗ってみる価値がある。そう感じていた。その言葉で、大下の心も決まった。
「よし。医者が可能だという言うなら、具体的に考えてみよう。どうも、他に手っ取り早
い方法が無さそうだ」
大下の鶴の一声で、方針は決まった。
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