第76回テーマ館「朝起きたら…」
リフレクション 第二章(3) 夢水龍之空
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ちょうど、地元の小学校で交通安全講習を終えたところだったので、次の任務を他の班
に回して、井倉とその管理役である蔵牧の二人は、すぐに会議室へ現れた。
「主任の蔵牧です。この度はうちの井倉がお力になれるかもしれないということで、連れ
て参りました。よろしくお願い致します」
「井倉です。よろしくお願いします」
堂々たる貫禄の蔵牧の半歩ほど後ろで、ちょこんと頭を下げる子どものような姿に、初
めて会う飯泉と長南は困惑気味だった。声を聞いても中学生くらいにしか思えない。化粧
と髪型でぎりぎり高校生だ。刑事たちの表情が曇った。
そんな様子を知りながら、それでも井倉は張り切っていた。刑事の夢に一歩近付いた。
ここで実績を作れば、何かしら将来につながるかもしれない。何より、現職の刑事たちが
自分を頼ろうと考えたことが嬉しかった。見た目で落胆されるのは慣れている。実力で挽
回すればいいのだ。まずは、詳しい話を聞かなければ。
勧められた椅子に腰掛けて、井倉は周りの関係者を見回した。
大下警部は知っている。署内でよく見かけるし、屋城家の事件では現場で顔を合わせ
た。敏腕で知られた人物だ。何も聞かされずに連れて来られたので、事情が分かっていな
い。だが、大下を悩ませる事件となると、身が引き締まる。
長南刑事のことも、噂には聞いていた。外にいることが多く、署内ではあまり顔を見な
い。井倉が交通部ともなればなおさらだ。こちらも情報収集の達人と聞いている。データ
不足ということは無さそうだ。
残りの若い刑事は知らなかった。出水と雲田はもちろん顔見知りだ。
井倉が聞く前に、説明が始まった。
「刑事部の飯泉です。我々の整理も兼ねて、事件の説明をさせて頂きます」
状況は単純明快。説明は一時間もかからなかった。そして、井倉は言った。
「犯人は自宅に現金を保管しているはずですから、捜索すればすぐ見つかると思います
が。鉾立さんが事件の日の朝に下ろしたお金だと確認できれば、動かぬ証拠になります」
刑事たちは顔を見合わせた。
「容疑者の二人は、どちらも行ったら鍵がかかっていたから外出したと思って引き返し
た、よくあることだ、という証言だったわけです。もし、待ち合わせよりだいぶ早く現場
へ行き、被害者を殺して金を奪えば、鍵をかけて放置することで発見は遅れ、事件は今よ
りも難しくなっていたでしょう。つまり、鍵をかける細工は当初からの予定です。用意さ
れたトリックだったと考えるべきです」
「トリック?」
長南は思わず鼻で笑った。そんな言葉が現実に使われた事件など聞いたことがない。荒
唐無稽な考えだと頭から決めつけていた。
「渡川は鍵を持ってる。かけたって発見は遅れないよ」
「犯人はそう思った、ということです」
「お嬢ちゃんにそんなことが分かるのかい?」
「あの日、現場には四人全員が集まる予定でした。橋浦さんも建部さんも、鍵がかかって
いたから引き返したと言っていますね? おかしいです。鍵がかかっていても、渡川さん
を待てばいいんですから。よくあることで、外出中だと考えたから引き返した。それは、
集まるはずの三人が誰も鍵を持っていないだろうと、橋浦さんと建部さんの両方が思って
いた証拠です。どちらが犯人であっても、鍵をかければ発見が遅れると考えるのは当然で
す」
長南は黙るしかなかった。理路整然。手本のように完璧なロジックだ。
「トリックの内容は?」
大下が話をつないだ。
「単純ですよ。長い糸があれば可能です。古いマンションで、誰でもドアの前までは行け
るようですから、各部屋の玄関に郵便受けがあると思います。被害者の部屋は物が多いよ
うなので、ロープウェイのように輪にして手繰れば、簡単に鍵を運べます。ほぼ直線上に
しか移動できませんけど」
刑事たちは一斉に眉をしかめて考え始めた。言われたことを実際の現場に当てはめて想
像力を働かせてみた。確かに、物理的には成立しそうに思える。
「証拠はあるのか?」
大下が井倉に聞いた。井倉はそれを、可能性を認めて捜査の方針に組み込む気になった
結果とみなした。
「証明は難しいでしょう。郵便受けか現場の机の周囲の物に、糸が擦った跡を見つける
か、犯人に確かめる他無いと思います」
「擦った形跡か。あり得るな」
「鑑識の報告にはありません」
飯泉が加わった。まだ半信半疑とはいえ、一つの道が開けたことは認めていた。
「郵便受けを調べたという記載はあったか?」
「あ、それは無かったと思います。何も出なかったから書いていないのか、そこまで見て
いないかですね」
「指紋を採る際に、糸の痕跡が消えるような捜査はしてないだろうな?」
「分かりません。もう一度行かせますか?」
「そうしよう。手配してくれ」
「はい」
飯泉が会議室を出て行った。
蔵牧は黙って井倉の話を聞いていた。井倉の観察力は知っている。集中し出すと他のこ
とが何も見えなくなるのが欠点とはいえ、それだけ思考が深い証拠でもある。この機会
に、井倉の才能を見ておきたい気持ちがあった。だからあえて、自分は一歩下がった立場
を取っていた。
長南は、まだ井倉を信用していなかった。慎重さが彼の武器だ。それでも、自分が受け
入れられない渡川犯人説を歯牙にもかけない態度は気に入っていた。刑事の勘を信じる長
南にとって、知能派らしき井倉は馴染めないタイプだ。しかし、事件の捜査のためには、
様々な発想が必要なこともあると、長南は分かっていた。
「なら君は、渡川を疑っていないわけか?」
大下は質問を続けた。
「はい。事故で負うような怪我ではないという結論であれば、解釈は一つです。鉾立さん
と渡川さんが互いに一撃必殺の力で殴り合い、鉾立さんは絶命し、渡川さんは生き残っ
た。背中を向け合って、振り向く力で殴ったとすれば、後頭部に傷ができても不自然では
ありません。ただ、その場合は凶器が二つ必要です。瀕死の渡川さんに凶器を始末する余
裕は無いので、この可能性は没です。それなら、第三者の関与が無ければ状況が成立しま
せん。凶器を持ち去り、鍵をかけるのはその第三者です」
後を受けて、大下が言った。
「その第三者に何らかの利害関係が無い限り、鍵をかける理由は無い。利害としてあり得
るのは金を持ち去ることであって、少なくとも強盗は第三者の方となる。被害者と渡川が
殺し合う理由が考えられない以上、殺人も強盗犯と同一人物とするのが自然だ。よって、
犯人は渡川以外の誰かである。というわけか」
「その通りです。凶器を片方だけ持ち去る理由も無いでしょうし、鉾立さんの傷が多過ぎ
ます」
話を聞き終えた段階で、既にここまで可能性を掘り下げている。ベテランの長南として
も、これほど頭の働く刑事は見たことが無かった。さらに井倉が交通部の人間で、しかも
交通刑事でさえないことを思い出すと、思わず唸り声が出た。
「建部と橋浦の自宅を、調べることはできませんか?」
今度は井倉が質問を投げた。
「難しいな。令状が無ければ踏み込めないが、絞り込めるデータが無くては、発行されな
いだろう。怪しいからという理由では無理なんだよ。ほぼこの線だというところまで追い
込まないと」
「そうなんですか。なら、運が良ければ渡川さんの証言で絞り込めるかもしれません」
「まあな。運良く犯人を見ていれば」
「いいえ。見てはいないと思います」
「なに?」
初めて、大下が驚いたような声を出した。全く考えていないことを言われた証拠だ。付
き合いの長い長南でも、大下がそんな声を上げるのを聞いた記憶が無かった。
「容疑者のどちらも、お金を処理していないことが証拠です」
「ん、どういう意味だ?」
「渡川さんは生きています。いつ証言が可能になるか分かりません。ただ、昏睡するほど
の怪我をしていることを理由に、記憶が混乱しているのだと言い逃れることは可能です。
でも、お金という動かぬ証拠があれば、すぐに捕まってしまうでしょう。それくらい、少
し考えれば分かります。だから、お金を持っていても安全だと犯人が思っているなら、渡
川さんに見られたと、犯人自身が思っていないのは明らかです」
「なるほどな」
百戦錬磨の大下が、感心したように何度も頷く様子を見て、長南もようやく、井倉を信
じてみることに決めた。だから、自分から気になっていたことを聞いてみた。
「それで、運がいいってのはどういうわけだい?」
「先ほどの写真によれば、渡川さんは後頭部を殴られて、玄関方向に頭を向けてうつぶせ
に倒れていました。玄関へ向かっている途中に襲われたと考えるべきです。なぜそうなっ
たかと言えば、部屋に入って奥で倒れている鉾立さんを発見し、助けを呼ぼうとしたか怖
くなったかして、慌てて部屋を出ようとした。そこを隠れていた犯人に襲われた。そうい
う状況が見えてきます」
「それで」
「考えるべきは、犯人は何をしていたのかです。もちろん、鉾立さんを殺した上で、お金
を探していたんでしょう。だから渡川さんは、犯人が部屋を物色している最中に、合い鍵
で部屋に入ったと考えられます」
「だとしたら」
「途中の状態を見ているかもしれないんです。現場は2LDKでしたね。玄関を入ったと
ころの居間と、鉾立さんが亡くなった部屋の他に、寝室がありました。その寝室のタンス
が荒らされていましたよね? 引き出しが全部開けられていました。その途中を見ていた
としたら、犯人がどちらなのか判断する手がかりになります」
「分からないな。どういうことだ?」
「橋浦さんは右利きで、建部さんは左利きだということです」
「お」
長南にもようやく理解できた。利き手のことはもちろん知っていたが、思いつかなかっ
た。自分が大きく出し抜かれたことで、井倉の推理力の高さを感じた。
「引き出しを開けている途中の状態で、もし向かって左の方だけが開いていたなら、左利
きの建部が怪しいという理屈だな」
「はい。共犯でなければ」
大下もすぐに飲み込んだ。話の途中で戻ってきた飯泉にも、大下が概要を聞かせた。
「よし、病院に連絡だ」
こうして、一年ぶりの本格的な捜査が始まることになった。
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