第40回テーマ館「三日月」



三日月より突入せよ  前編 ひろし [2001/07/24 03:37:06]


道長孝一郎は集まった三人の略式の軍服姿に向かって盃を掲げた。彼だけが零戦パイロット姿
で、伝令管も落下傘も救命胴衣もなく、十四式拳銃も携帯していなかった。

いずれもみな痩せ細って目の鋭い針金のような老人たちで、かっては三菱ゼロ式戦闘機の設計に
あたった若手ベテラン技術者たちもすでに七十歳を越えているが、道長を囲んで盃を高々と闘志
を燃やして掲げた目には狂気が漂い、突き刺すような瞳には少しも衰えがなく、まるで五十七年
前と変わらぬ略帽を目深に被り、腰には軍刀を携えて怨念をたたえていた。

「隊長、必ず戦果を上げてください」
これまで零戦製作に心血を注いできたメンバーの中心である葉山作太郎は盃の酒をいっきに飲み
干すなり、こぼれ落ちる涙を拭って道長の腕をとった。
「わかっている。満月なら敵に見つかる可能性もあろうが、幸い三日月だ。衰えたとはいえ、こ
れぐらいの明るさがちょうどよい。必ず一泡ふかせてみせる」
道長は冷たい酒が喉をすべり下りていく間、五十七年前エンジンの不調で南海の海に不時着し、
海を漂った数日間を思い起こしていた。

(生イキテ虜囚ノ辱メヲ受けズ)アメリカの駆逐艦に拾われた屈辱がいまでも脳裏を去らないの
だ。
戦争が終わっても身を隠すように町工場を起こし、エンジンの部品を作ってきたが、自分の捕虜
の屈辱が軽減されたわけではなかった。眠れば決まって南海の空に散華した学徒たちが黄泉の世
界からぞろぞろ現れてきて、彼の夢の中まで追い詰めてきた。

道長孝一郎は八十八歳、技術の責任者である葉山作太郎も八十八歳、水島俊幸も七十九歳、吉田
元男も七十七歳で、三人のメンバーは家族を原爆で失い、敵愾心だけを頭の片隅に蓄えて、密か
に古ぼけた設計図を頼りに零戦の復元に精根を費やしてきた。

エンジン、プロペラ、タイヤは水島俊幸が担当し、燃料系統、油圧系統、電気系統は吉田元男が
専門だった。責任者の葉山作太郎は機体を再現し、操舵翼、円蓋、風防を忠実に製作した。
その皺の刻まれた苦難の歳月がこの日のために死に場所を求める悲壮な決意となって夜目にも銀
色に輝く零戦の翼と大きく描かれた日の丸が四人の年寄りの目に涙となって染みた。

「いま何時だ」道長は白絹のマフラーを首に巻き、航空手袋をはめて五指を折り曲げながら尋ね
た。
「そろそろ十二時です」
「沖縄までは二時間で行ける。すでに八月十四日だ。二時過ぎには戦果が報告されるだろう」
道長の心は五十七年前の自分の姿を掴もうとする青年の記憶のように零戦の翼に足をかけて円蓋
を開け、白いマフラーの裾をなびかせながら慎重に操縦席の縁を跨いだ。円蓋を閉じると、自分
の在りし日の回想が荒波のように襲ってきた。

無線は取り付けられていないので、三人はニュースで聞いてくれるだろう。よくも恥辱に耐えて
生きてきたものだと思う。名誉ある死などはこの世界にはないが、ただ自らの命を断って遅れた
罪を英霊に報告したい。靖国神社の戦友たちの霊からは自分たちを拒否するだろうが、その最も
過酷な刑罰を受け入れなければ武人としての誇りが許さなかった。

あの真珠湾攻撃をアメリカ人は卑怯な騙まし討ちだと言う。果たしてあの局面で日本の選ぶ道が
あっただろうか?太平洋海域を制圧してしまった日本軍が極東のリーダーになることをルーズベ
ルトは危惧し、石油や鉄などの供給を断つことで日本の軍事力を弱体化させようと策謀した。そ
れがルーズベルトの卑劣な宣戦布告だった。

その日本人に対する蔑視がいまだに駐留しているアメリカ兵にはある。沖縄で事件が起こるたび
に道長の怒りは消えるどころか肌を焼く蒸気を噴き上げていた。アメリカ人というやつはそうい
う人種なのだ。このまま老いて死ぬわけにはいかない。アメリカ政府に自分の生命と引き換えに
武士道の一矢をまっとうさせなければ自分の人生は末代までも汚辱にまみえるだろう。

「成功をお祈りしております。われわれは戦果を聞き届け次第、この皺腹を掻っ捌きます」と言
って軍刀を抜き、刃を閃かせて顔の位置に構えると、三人の年寄りたちの顔に青春が蘇った。
「五十七年目の終戦の前日に靖国神社で逢いましょう。くれぐれも米軍に気づかれぬようにして
ください」
軍刀を横に払い、零戦の中の道長に声を震わせて叫ぶと、ともに五十七年前の学徒たちのあとを
追い、遅すぎた心の中の戦争に決着をつけるため、いま沖縄に突入し、靖国神社の英霊たちに自
分たちの罪を詫びなければならない。だからこそ零戦には機銃は装備されていなかった。

「わかっている。じゃ靖国神社で逢おう!」
航空眼鏡をはめると、道長はエンジンを始動させた。プロペラが回転をはじめ、エンジンの轟音
とともに加速を増し、立っている三人を吹き飛ばすばかりの烈風が一面の草を薙ぎ、濛々たる枯
れ草が宙に舞った。

道長は暗い海のねりを真っ直ぐ見つめてレバーを押すと、零戦は草の上を矢のように疾走をしは
じめた。その眼前の茫漠たる闇の中を神風特攻機が充満して、ごうごうと爆音を響かせながら進
んでいるような錯覚にとらわれた。その先にヘルキャットが待ち受けているだろうか?道長は操
縦桿を押す手の重さを感じて歯を食いしばった。

軍刀を突き上げ、天皇陛下万歳!と絶叫する三人を道長は敬礼しながら残し、零戦は草の上から
車輪が離れ、絶壁が尽きる直前にふわりと暗い空中に舞い上がった。
三人は闇の中で軍刀を輪を描くように振った。その光芒を見て取ったらしく、零戦は翼を振って
応え、すぐに脚をひっこめて、進路を沖縄に向けてどんどん上昇した。

小さな機影が消えるまで三人は軍刀を脇に払ったまま直立不動の姿勢をとって敬礼を続けた。そ
して三人の目に八月十四日の三日月だけが中空に残った。

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