『テーマ館』 第29回テーマ「死にたくない」


眩暈(第2幕) 投稿者:とむ  投稿日:09月13日(月)01時57分05秒
            
            (注:第1幕からお読みください)
      
                                  第2幕

                           ふたつめのプロローグ

       「ここだ」
       私はビルの屋上にいた。
       どんよりとした曇り空に重みを感じる。息が詰まるような圧迫感。
       私は屋上の端にゆっくりと歩み寄った。
       (彼女はここに立ったのだろう)
       そう考えると、胸の中にじんわり寂しさと侘しさが広がった。
       空中へと舞う瞬間、彼女は何を思ったのだろう。
       私に対する憎悪にまみれた思いか。それとも救いを求めたか。
       想像はあくまで想像でしかなかった。
       ただ───ただひとつ確実に言えることがある。
       彼女は私に呪いをかけた。
       そう、これは彼女の呪い。死の瞬間、悪魔に身を売って。
       そうでなければ私はここに導かれては来なかっただろう。
       私は素直にそれに従った。それが彼女を鎮めることになるならば。
       それに───彼女は私を必要としている。
       彼女を理解できるのは私しかいないのだから。
       ……だから、これで良い。

       ふと、曇り空を見上げた。
       その時、眩暈が私を襲った。
       クラクラと頭の中が揺れた。
       同時に身体も揺れた。
       そして、私は彼女を追って落ちていった。
       そう、これで良いんだ───


                                     第2幕 夢

        私はゆっくりと瞼を開いた。
       眩しい───真っ白な世界が目の奥に飛び込んできた。ちかちか
      する。
       太陽か……窓から射し込んでくる陽の光のせいだろう。それが部屋
      の壁や天井で乱反射され、視界を白で覆い尽くしていた。
       私は何度も目を瞬かせながら自分の置かれている状況を見定めよ
      うと周囲に視線を巡らせた。
       ここはどこだろう。
       私の右腕に差し込まれた点滴が目に入る。病院か。
       私はどうやら病院のベッドに寝かせられているらしい。
       何故?−−−あぁ、そうだ。私はあの時落ちたのだ。
       記憶が少しずつではあったが再生されてきた。
       あのビルの上から私は落ちた。そして地上に思い切り叩きつけら
      れ、そして・・・助かったのか?
       と、その時仕切りの向こう側から、ガチャッというドアを開ける
      音とともに誰かが部屋に入ってきたようだ。
       視界に入ってきた服装からしてこの病院の看護婦らしい。
       彼女は私の顔を見るなり驚いたように声を出した。
       「神山さん、起きたのね!・・・先生っ!」

       そのすぐ後、若い医師が慌てて駆け込んで来て半身を起こした私
      の身体を診察した。
       「君は2週間ほど眠っていたんだ。運ばれて来たときは正直言っ
      てダメかと思ったんだが、君の気力が勝ったようだ。おめでとう」
       その医師は私の目にペンライトで光をあてながら、当時の状況な
      どを教えてくれた。
       それを聞いてやっと状況が把握できてきた。
       私は、飛び下りた後にこの病院に重体の患者として担ぎ込まれ、
      そのまま緊急手術を施された。手術は成功したが、頭部損傷が原因
      と思われる昏睡状態が続き、意識が回復せぬまま2週間ここに入院
      させられていたという。確かに頭部には幾重にも包帯が巻かれてい
      ることが触れただけで確認できた。
       医師は、満面にほっとしたような表情を浮かべながら言った。
       「君がこのままシンデレラのように眠り続けなくて良かったよ」
       私はこの若い医師の顔を見つめ、にこりと笑顔を見せた。童話を
      忘れた人間に悪い人はいるまい。
       先ほどの看護婦が家の方にも連絡してくれたらしく、程無くして
      両親が現れた。
       病室に入ってくるなり、母は私の手を取って泣きくずれ、父はベ
      ッドの横で立ったまま「良かった、良かった」と繰り返し呟いてい
      た。
       母は毎日看護にあたってくれていたらしいが、私が意識を取り戻
      した時にちょうど自分の着替えなどを取りに家に戻っていたとのこ
      とだった。
       母は私の右手を痛いほどきつく握った。
       「真矢があんなことになって、あなたまで死んでしまったら私た
      ちほんとにどうすればいいかと・・・」
       その後の言葉は涙声で聞き取れなかった。
       うれしかった。生きて両親の前に戻れた事を心から感謝した。
       その時、ちょっとだけ眩暈がした。
       医師がすぐに私に問いかけてきた。
       「大丈夫ですか?急に起きてしまって疲れたのでしょう」
       医師は私の首の後ろから腕を回して、ゆっくりと頭を枕まで導い
      てくれた。
       私はただそれだけ身体を動かすだけでも異常に身体がだるくなっ
      た。身体が鈍ってしまっているのだろう。
       医師は両親に向かって、
       「彼女を休ませますから側で見ててあげてください」
      と言った。
       両親は医師に何度も頭を下げ、感謝の言葉を繰り返していた。
       そして私は、もう一度目を閉じた。
       
       その翌日、親友の由加里が真先に顔を出してくれた。
       ちょうど病院の朝御飯を食べているところだった。
       私は流動食や栄養剤ではなく、普通の食事を採れるほどに回復し
      ていた。たった1日での驚くべき回復力に、あの若い医師も目を大
      きくさせていたことを思い出し、ちょっとおかしくなった。
       私は頭部と左腕を特に地面に強打したらしく、左腕にはギブスを
      はめていた。が、利き腕である右手の機能には何の支障もなく使え
      ることができていた。
       だから母の手を借りることもなく自分でスプーンを握り、食事を
      していた。
       「真紀ぃ〜!」
       由加里も私の横に近づくと涙を流して喜んでくれた。
       親友は顔をくしゃくしゃにしていた。細面の綺麗な顔が台無しに
      なっちゃうから、と母が横からハンカチを取り出して、由加里に渡
      した。
       少し経って落ち着くと、由加里は思い出したように手提げカバン
      の中から千羽鶴の束を取り出した。
       「これ、クラスのみんなからよ。早く元気になって戻ってきてね」
       その千羽鶴からはみんなの思い、私への思いがほとばしってくる
      ように見えた。心強いプレゼントであった。
       そして、駆けつけてくれた由加里の顔を改めて見つめた。彼女の
      顔をもう一度見ることができて本当に良かった。友情という絆で私
      たちが真に結ばれているのだ、ということを実感した。
       ありがとう、と言いかけた時───また軽い眩暈を覚えた。
       そのせいで、握っていたスプーンを下に落としてしまった。
       「どうしたの?」
       由加里と母が心配げに私の顔を覗き込む。
       私は、大丈夫よ、と笑ってみせた。

       その日の夕方、ドアがノックされ、裕司が入ってきた。
       「真紀・・・」
       彼の声を聞いたとたん、涙がじわりと溢れ出てきた。ひどく懐か
      しい声───
       母は私に遠慮したのか、「お茶でも買ってくるわ」と一言残して
      出ていった。
       病室には裕司と私だけが残された。
       裕司が私を見つめている。その眼差しが痛いほどに感じられたが、
      その痛みは柔らかで優しく、私にはとっても心地良いものだった。
       「心配したんだぞ。何しろ2週間も眠りっぱなしだったんだから」
       裕司は笑顔を浮かべながら私の側に近づき、手を取った。
       「もう大丈夫だ。念のためにさっき先生にも直接訊いてきた。保
      証つきさ」
       あの若い医師に訊いたのだろう。そんなにも私を心配してくれて
      いたのか。
       「元気になったら、あの約束を実行しよう」
       約束?約束とは一体何だっただろうか。
       私の困ったような顔を見て気がついたのか、裕司は続けて言った。
       「泊まりがけの遠出さ。真紀の両親にはもう了解とってあるよ」
       裕司が更に微笑んだ。
       この瞬間、溶ろけるような温かさに包まれた自分を自覚した。
       −−−呪いは解けたのだ。彼女の呪いはもう、無効だ。
       私はもう2度と死ぬなどということは考えないだろう。
       寧ろ、そのように考えた自分、死ななければならないと感じてい
      た自分に滑稽さすら覚えていた。
       これから近い将来、私は目の前にいる男と結ばれるであろう。そ
      んな確信めいたものが私の頭の中をよぎった。
       本当に幸せをつかんだような気がした。夢のような幸福を・・・
       (あっ)
       くらっと目の前が歪んだ。眩暈だ。
       裕司の笑った顔が次第に薄れていく。目の前から消えてゆく−−−
       (えっ?・・・)
       私はとっさに笑顔を見せようと思った。彼に最高の笑顔を見せよ
      うと思った。
       でも、それが上手くいったのかどうか、わからない−−−。


                             ふたつめのエピローグ

       少女の身体が一瞬震えた。
       その時、医院長は見た。
       少女は微笑んだのだった。
       (あぁ、同じじゃないか・・・)
       医院長は大きく溜め息をついた。
       彼ははからずも続けざまにふたりの少女の臨終に立ち会うことに
      なった。
       まるでデジャヴでも体験しているのではないか、という錯覚。
       制服のネームプレートには「神山真紀」と書かれているところま
      で同じだ。
       たまたま彼女たちが落ちた所が彼の病院のすぐ前であったため、
      この病院にふたりとも運ばれてくることになった。
       だがこの病院には重体の怪我人を手術するための施設はなかった。
      また、その術も詳しく知らない。彼は産婦人科の医院長であった。
       目の前に横たわる少女・真紀は先日亡くなった少女・真矢の双子
      の妹だ。
       彼はまったく瓜ふたつの笑顔を目の当たりにした。
       彼女もきっと最後に良い夢を見たのだろう。誰に対する笑顔であ
      ったのかを知ることまではできなかったが。
       医院長は手近にあった椅子にどさりと腰を落とした。
       そして思う……運命か。
       彼女たちはこの小さな病院で生まれた。彼自身が彼女たちを取り
      上げたのだ。
       その彼女たちの最後の姿まで看取ることになろうとは、想像だに
      しなかった。
       これは産婦人科を営む彼にとって最大の皮肉であったろう。
       だが、医院長は何故かうれしかった。
       悲しみより先に、彼女たちの運命を見届けることができたことに、
      何とも説明できぬ感慨を持った。
       彼女たちが最後に見せた笑顔。それは生から離れる瞬間に余力の
      限りを尽くした、贅沢で最高の笑顔であっただろう。
       それを見ることができた自分は本当に幸せだと感じていたのだ。
       「本当に───いい笑顔を見たな」
       そう呟いた彼の頬を、ひとすじの涙がゆっくりと流れていった。

                           (The End)