第55回テーマ館「夢」



土蔵破り2     −銀次捕物帖ー GO [2004/11/15 13:28:06]


(4)
 息を弾ませて戻ってきた小平と銀次に、お袖は伏せていた茶碗を起こし、かいがいしく
お櫃の飯をつぐ。
「どうぜえ、霞の様子は?」と銀次は訊く。
「野郎の素振りじゃ、今夜やりそうでござんすね」と小平は寒さに鼻水をすすっては何倍
もお代わりしながら言う。お袖のつくった握り飯では足りず、よほど腹が減っているよう
だった。

「そうだろう。おれもそう睨んでいるんだ」と銀次も頷きながら飯を口に運んでいる。
「おまえさん、今夜は雪だよ。捕物には十分気をつけておくれよ」とお袖は何度も念を押
す。銀次の身が心配でたまらないのだ。
 捕物とは非情なもので、取り逃がせば、江戸中の物笑いになるばかりか、お上から十手
を取り上げられて、江戸に住むこともままならなくなる。といって取り押さえる最中に揉
み合いになり、不幸にして命を落としかねないこともある。だからといってお上からびた
一文出るわけではない。

 目明しは与力や同心の使い走りのようなもので、たとえ銀次が捕物の名人でも二足のわ
らじを履くか、貧乏を承知の物好きでなければ勤まる仕事ではない。まだ霞の源兵衛や不
知火の蜘蛛のほうがましかも知れない、と銀次はふと冗談ながら思ってみたりする。
 もしお袖という気のいい商家の娘がいなかったら、小平に給金も払えなかっただろう。
だから、お袖には感謝している分、とてもじゃないが頭が上がらなかった。

「そりゃ姉さん、親分に限って盗人を取り逃がすようなことなどありやせんや。なにしろ
美人の姉さんを一人残して仏になるわけにゃいきやせんからね」と飯粒を飛ばして茶化
す。
 お袖は白雪のような顔を真っ赤に染めた。
「小平、縁起でもねえことを言うんじゃねえ」と、ちらりとお袖に目を走らせてから、銀
次は小平を叱った。

 それにしてもお袖が来てからは、万年床も片付いて、飯を食うだけの広さができたし、
小平もすわって話ができるようになった。それよりも何よりも狭い長屋に蒸れこもる若い
女の匂いが漂って、仲睦まじい二人の初々しさを眺める長屋の住人は銀次が所帯持ちらし
くなったことに目を細めて一番喜んだ。

 小平もこの長屋の住人の一人で、長屋には大工、左官はもとより、飴売り、辻講釈師、
がまの油売り、果ては年老いた夜鷹などが住んでいて、小平はその住人に責められたが、
まだ女を持つほどの捕物の器量がないので、ただ頭を掻きながら笑うしかない。火事と喧
嘩は江戸の花というくらいで、女より男の多い江戸では、女房を持てるのは、ほんの一握
りで、べつに女房を持たぬからといって恥ずかしいことではなかった。むしろ宵越しの金
をはたく独り者こそが江戸っ子の粋な遊び人として箔がついた。

「それにしても霞の源兵衛の解き放ちとはお上も妙なことをなさるものよ」と口を歪めて
爪楊枝で歯をせせる。霞の源兵衛の解き放ちが頭に焼きついて、しきりに頭をふっては太
息をつく。じっと考え込む。
「そりゃおまえさん、お上は霞と不知火を一度にお縄にしたいんじゃないのかね」と脇か
らお袖が茶を入れながら、艶麗なまなじりを向けて呟いたので、銀次はなるほど、と爪楊
枝を歯から放した。

「不知火ともどもか? それで霞を解き放ったというわけか。そうかも知れねえな」と膝
を叩いて、お袖が入れた茶をすすった。
 お袖の助言にいつも頼むものがあったから、銀次は何の躊躇もなく穏かに頷き、茶の音
を立てる。
「お奉行様もお手柄を上げなくちゃ出世も叶わないんじゃないのかね」
「たしかにな。お前の言うことに理屈がありそうだ」

 そうはいっても常磐津の師匠であるお栄をそのままに放置しているお上ご処置にも合点
がいかなかった。大盗人を匿えば同罪である。泳がせているとも思えないないので、今回
ばかりはお上の計らいの手ぬるさに銀次は呆れるばかりである。どうも裏に魂胆があると
しか思えなかった。が、何分、御用の筋であれば、軽々しくお袖に尋ねるわけにもいか
ず、藁でも噛んでいるようで味気なさが募るばかりだ。

 銀次は十手の握りに投げ縄の紐を結わえ付けた。その紐の付いた十手を屋根を走る盗人
の脚に投げるのである。十手が盗人の脚に絡みついてぐるぐる巻きにしてから、屋根から
盗人を転がり落とそうという寸法だ。これも銀次の得意技の一つだった。あとは捕物装束
であるが、目明しの分際では平素と何ら変わらない。せいぜい肌着を一枚重ね着して頭巾
をかぶるぐらいのものだ。

「そろそろ刻限だぜ、小平」
「へい」と答えて、「姉さん、ごちそうさまでごさんす」と箸を置き、爪楊枝をくわえて
立ち上がった。裾を捲って尻からげにする。股引の上から見ても韋駄天らしく敏捷な脚で
ある。
「おめえは深川の鈴乃屋にいなさる島崎様にひとっ走りしてお知らせしてくんな。場所は
越後屋ということを言い忘れるんじゃねえぜ」

「合っ点でさあ」と小平が框を下りて黒足袋にわらじを履いて戸を開ける。闇の中から猛
烈な吹雪が渦巻きながら舞い込んできて、行灯の火を激しく揺らした。「こりゃすげえ
や」
「ちょっとお待ちよ」とお袖が神棚から火打石を持ってきて、半纏を羽織った二人の背中
にチョンチョンと火花を散らした。「勇み足はしないでおくれよ」

「姉さん、よくわかってまさあ」と一寸先も見えない猛吹雪の中へ小平は足を踏み出し
た。
「じゃあな、お袖。火の用心を頼むぜ」
 銀次もうっすらと積もった雪の上を踏んで路地を出た。そこで二人は左右に分かれた。
小平は雪道を韋駄天のように音もなく深川の鈴乃屋に向かって駆ける。

(5)
 捕り方の手配りがすむと、あとは暁九つから、じっと息をひそめて待つばかりだ。霞の
源兵衛と不知火の蜘蛛が現れるまでは御用提灯に黒い覆い布がかぶせられて灯を隠し、寒
さの中で二人の大盗人が現れる暁七つまで呼吸を抑え、血気を秘めて越後屋やその界隈に
も気づかれずに偵察されたあたりに身を伏せて時を待つ。
 采配を振るうのは鈴乃屋でたらふく酒を飲んだ与力筆頭の島崎次郎兵である。

 この猛吹雪の中では犬も吠えず、江戸は深い熟睡の中にあった。
「そろそろ刻限だな」と脇に寄り添った銀次に酒臭い息を吹きかける。酒を飲んでいても
盗人の出現は予見できるらしい。
「へえ、やつらが現れる刻限でござんすよ」
 そう返事をして銀次は猛吹雪を透かして屋根を射るように見つめる。その猛吹雪と重な
って速影が屋根を走るのが見えたからだ。あれは霞の源兵衛に違いない。

「旦那、霞の源兵衛が出やしたぜ」
「よし、御用提灯を上げろ!」
 島崎次郎兵の野太い掛け声が飛んで、いっせいに竿にくくりつた高張りの御用提灯が屋
根から屋根へ退路を断ち切るように照らし出す。
 千両箱を背負った黒装束の姿が猛吹雪の中にくっきりと照らされて包囲された御用提灯
の波に行き場を失っている。

 その脚に向かって銀次の投げた十手が紐をなびかせて空に躍り、十手は黒装束の脚に絡
み付いてぐるぐる巻きに締め上げてしまった。
 黒装束は不意を衝かれてよろめき、平均を崩して、どっと屋根から転げ落ちてきた。開
いた千両箱の口から黄金のきらめく小判がばら蒔かれて、悶絶した黒装束は捕り方の手で
あっさりと取り押さえられた。

 こうして機先を制した捕り方たちによって霞の源兵衛は縄をかけられた。
 そのとき御用提灯の波が騒然となり、次々に崩れはじめたので、銀次は怪訝そうに顔を
上げた。猛吹雪の闇に飛んだ御用提灯が雪の地面に落ちて炎を上げている。
 目を凝らすと、黒頭巾の着流しの武士が猛吹雪の闇から白刃をきらめかせて黒装束の源
兵衛のすぐ近くまで来ていた。

「何者だ! 邪魔立てするやつは? 名を名乗れ!」と叫ぶなり島崎次郎兵も抜刀して構え
た。
 捕り方も半ば意地づくで喚き立てては十手や六尺棒を振りかざしては躍りかかったが、
容赦なく斬り斃されて、猛吹雪生臭くなるほどほど御用提灯の燃える炎に屍体の山を虚し
く照らすばかりだった。

「おのれ、お上を恐れざる不届き者めが!」と島崎次郎兵は怒鳴ったが、黒頭巾は冷笑を
返答に代えかえるように刀の切っ先を一歩縮めてみせた。
 島崎次郎兵もまた心中憤激し、凄まじい鋭気をほとばしらせて、猛気を刀の柄に込め
た。刀が触れ合う地点まで進む。猛吹雪の中で互いの刀が噛み合って火花を散らし、退
き、また進んだ。

 島崎次郎兵は赤鬼の権化のように憤怒の色を込めて、黒頭巾が大上段に構えた刹那、吼
えるように身を沈めて懐に飛び込んだ。得意の疾業で胴を薙いだ。手応えがなかった。
 黒頭巾は紙一重ですっと後退し、大上段から島崎次郎兵の頭蓋を唐竹割りに眉間深く断
ち割って、たっぷり吸った脳髄の血潮の酒が囲む捕り方に蒸れるような臭いで飛来した。

 島崎次郎兵が討たれて斃れると、御用提灯の波はたちまち怖気づいて、我先に算を乱し
て逃げ惑った。
 周囲の御用提灯が逃げて行くのを見て、黒頭巾は刀を下げると、その一瞬を狙って銀次
は十手を投げた。するすると紐が伸びて、黒頭巾に迫った。それを黒頭巾は振り向きざ
ま、銀次の投げた十手を軽く払うと、伸びた紐を断ち斬り、尻餅をついた銀次の肩先に刀
の峰が振り下ろされていた。

 銀次は肩の激痛をこらえて起き上がろうとしたが、どうしても起き上がれず、ただ消耗
のどん底からぷーんと香の匂いを嗅いだだけで、あの常磐津の師匠宅に入っていった深編
笠の着流しの武士と同じだと思いながら、猛吹雪の闇に霞の源兵衛を抱えて溶けてゆく黒
頭巾の後ろ姿を玉の汗を滴らせて眺めるばかりだった。

(6)
 銀次は刀の峰で打たれた肩を小平の肩をかりて帰ってきた。その傷が癒えるまで十日ば
かりかかった。起き上がってからも肩の疼痛が残っていた。
「あの黒頭巾は紀州様の下屋敷に入っちまいましたぜ」と、あとをつけた小平が銀次に伝
えたとき、「そうか。やっぱりな」と膏薬を張り替えてくれるお袖の手が背中の疼痛に響
いて顔しかめては、小平の報告を腹ばいになって聞いていた。

 銀次の予測は的中しているように思えたからだ。しきりに浮かぶのは昨年の由比正雪の
乱のことである。
 それは三代将軍徳川家光が没した慶安四年、関が原、大坂の陣によって全国の浪人たち
があふれ、戦乱の気風の残る夢のまだ覚めやらぬ浪人たちへの過酷な処置に対してであっ
た。

 何しろ大坂の陣からまだ三十六年しかたっていない、いまだ猛気あふれる浪人たちを松
平信綱、安部忠秋、井伊直孝ら文官派が徹底的に弾圧したからだった。
 そんな折り、江戸連雀町に住む兵法指南由比正雪が、幕府転覆を企んでいるという密偵
によって次々にの報告が舞い込んだ。
 松平信綱が謀反人捕縛の総指揮をとった。

 銀次も狩り出されて、探索に努めたところ、由比正雪の門人は数千人にものぼり、しか
も紀伊大納言徳川頼宣を筆頭に、板倉重矩などの大名や、直参旗本、あるいは大名の家臣
などが多く集まっていたので、驀進が仰天したのはいうまでもない。その由比正雪が謀反
を企てたのは、幕府の浪人弾圧に我慢がならなかったからである。

 槍の名人、丸橋忠弥が火薬庫に火を放って江戸を火の海にする。正雪は駿府に行き、家
康が残した軍資金を奪い、久能山に立てこもって、全国の浪人たちに檄を飛ばす、という
壮大な計画だった。だが、事は事前に露見し、正雪は駿府の梅屋で寄せ手に先立って、
「天下の御法、無道なり。上下困窮し、悲嘆に暮れざる者一人とてなし。よって幕政の誤
りを天下に知らしめ申し上げる」と書置きを残して自害して果てたという。丸橋忠弥も銀
次らの捕り方に囲まれて観念し、刑場の露と消えて、幕府転覆計画は夢のまま潰え去っ
た。

 何とか事なきを得たものの、この衝撃は幕府にとって大いに震撼させた。すぐに尾張の
光友、水戸の頼房、紀伊の頼宣らの御三家が寄り合ったが、猜疑心はもっぱら紀伊の頼宣
に集中した。
 そのときの紀伊頼宣は二家を侮辱し尊厳を奪うかのように阿々と高笑いを飛ばし、「そ
れならば、わが手で由比正雪の残党を捕らえてご覧に入れる」と戦国の気風の残っている
顔で言い放ち、あとは誰もが知っているようにその目は赤裸々に威嚇の色があったとい
う。

 それから間もなく紀伊頼宣の言ったように青木伊右衛門が南町奉行に着任してきた。
 その頃から商家の土蔵を荒らす大盗人がはびこるようになった。その盗人どもが、よも
や由比正雪の残党の仕業であろうなどとは誰も気づく者などいなかった。

「お袖、ちっと出てくらあ」と煙管の火を煙草盆に叩くと、身を起こして立ち上がったの
で、お袖はまじまじと銀次を見つめてから、言いにくそうに口を開いた。
「もう肩の傷は大丈夫なのかい?」と邪気のない口調で訊ねた。
「こうして寝てばかりじゃ気が腐るってもんよ。ちょっと外の風にあたってくらあな」
「外は雪だよ」とお袖はほほ笑むと銀次の身体に身を寄せて、やさしく半纏を肩にかけて
やった。

「かけそばでも食ってくらあな」と愛想笑いをつくって戸を開けた。
 目を刺すばかりの強い雪の反射で、瞼の裏が激しく痛んだ。戸を閉めて一歩踏み出す
と、足許から冷気が這い上がり、身体中が凍えつきそうだったが、気持ちよい大気を胸一
杯吸い込んで、久し振りの外出に頬を上気させた。

 長屋を出ると、通りの家並みもすっかり雪で、日本橋界隈の風景は、まるで墨絵のよう
である。せわしない商家にとっては、たとえ雪が降っても槍がふっても、いつもどおりの
かわることのない商いぶりだった。
「やあ、親分さん、大丈夫でございますか?」と暖簾を割って主人が顔を出す。それから
身じろぎもせずにじっと銀次を見つめる。十日前の捕物はもう江戸中に知れわたっている
らしかった。

「なに、かすり傷でごさんすよ」と、ごまかしたが、腕の達者な捕物名人である銀次をか
いかぶっていたのか、と見つめる目はどれも厳しかった。
 自分でも捕物で取り逃がすへまなどしたことがないので、下手人を取り逃がした銀次に
対して人なつっこさはなく、張り詰めた商家の主人の目や声は意外なまでに冷たかった。

 吹きすさぶ永代橋を渡る。商家の主人の威嚇とも思える目の冷たさに驚きながら、この
雪では風雅どころか白い波頭だけがひろがっていて、無数の鴎が群れ飛んでいるだけでも
侮辱されているようで、やれやれと銀次は手で自分の顔をつるりと拭った。

 この深川で知り合いといえば剣術道場の主である篝陣十郎で、この老朽化した道場に子
分の小平を通わせたことがあったが、ついにものにはならなかったことだけは覚えてい
る。篝陣十郎は人のいい元紀州藩の浪人で、もっぱら気の荒い魚河岸の連中を門弟にして
いる。お侍を取らないのが惜しいほど、剣の腕だけは確かな冴えをもっているので、銀次
には不思議でならなかった。

 いつものように戸を開けて入っていき、中を透かし見ると、黒い影が道場の真ん中で掛
け布団をかぶって徳利の酒を無言で飲んでいる。銀次が来たのて顔を上げてちらりと見た
だけで何も言わない。
「旦那、暇なようでござんすね」と冷たい板の間を踏んで近づき、陣十郎のそばまで来
て、腰を落とした。

「何でも下手人を取り逃がしたそうじゃないか」と陣十郎はぼそりとその場に冷気のよう
な余韻を漂わせた。
「江戸中が知ってやがるんで、面目ねえ始末でござんすよ」と銀次は頭を掻いた。
「銀次が取り逃がすようじゃ、よほどの下手人のようだの」
「野郎は使い手ですぜ。歯が立ちっこありゃしませんや」と不満そうな面持ちで篝の旦那
を睨むと、あの十日前の夜の捕物が敵意となって蘇ってきた。

「それほどの使い手か」と陣十郎の笑いは止まない。
「まあ、見てやっておくんなさいよ」と銀次は肩をもろに脱いで見せた。膏薬は取れた
が、刀の峰の跡がみみず腫れのように赤く這っている。
「なるほど」と陣十郎は肩を這う刀の峰の打ち身を見つめる。しばらく沈黙があたりを支
配し、聞こえるのは陣十郎の息づかいだけだ。「見事な手際だの。腕は一流と見える」
と、一瞬、酔いが覚めたように、眉間に縦皺を刻んだ。心中の激情を押し殺しているよう
な顔つきだ。

「感心している場合じゃありませんぜ」むっとして肩を覆い隠すと、陣十郎にほほ笑みが
ひろがり、いつもの人なつっこい顔になった。
「お前も飲んで、機嫌を直せ」
 篝陣十郎の性格は明るく、人づきあいも悪くなかったが、とても控えめな浪人で、いっ
さい武士の門弟を取らない。紀州藩で何かあったことは銀次にも察しがつくが、そのこと
については、黙り込んで口を開こうとはしなかった。

「ところで旦那。ちょっと付き合ってもらいてえんですがね。ほれ、常磐津の師匠のお栄
ですよ。この近くなら顔ぐらい見なすったことがおありでござんしょう?」
「いや、見たことはない」と視線を宙に泳がす。
「じゃあ、これからご一緒に常磐津の師匠宅に乗り込んでみやせんかね」

 篝陣十郎はどうすべきか、顎鬚を撫でながら、無意識のうちに格子窓に視線を転じた。
その顔には苦悩があるにもかかわらず、穏かな表情をしている。そんな憂鬱な悲しみな
ど、感情に直結する安易な表情など篝の旦那には似合わなかった。
「うん、ひとりで飲んでいてもつまらん。とびっきりの美人の顔を見に行くのも悪くない
な」
 篝陣十郎は立ち上がり、ずれ落ちた掛け布団を足で蹴飛ばしてから、腰に大小を差し
た。

(7)
「そのお栄を疑っているのか?」と篝陣十郎は雪道を雪下駄で歩きながら訊く。
「そりゃそうでやんしょう。霞の源兵衛の女ですぜ。それをお上が引っぱらねえってのが
腑に落ちねえんですがね」
「霞の源兵衛の女か」と言ったきり、篝の旦那は銀次を無視するように肩を揺らして、何
も言おうとしない。しばらくの間、凍りついた雪道を並んで足を運んでいるだけである。

 ようやく常磐津の師匠宅が見えてきた。その宅を陣十郎は顔を上げて見つめてから、長
い沈黙があったあと、何かを振り切るように、自分から踏み石を踏んで、常磐津の師匠宅
に近づいていった。内から三味線の旋律が流れている。
 格子戸を開けると、「ごめん」と篝陣十郎は大声で呼ばわってから空咳を一つした。
 奥から小娘が足音を立てて玄関口に現れた。いつも表の植木に水をやる小娘だ。その娘
がひざまづいて篝陣十郎と銀次を交互に見上げる。

「なにか?」
「師匠はご在宅かな」
「何か御用でございましょうか?」と警戒した顔で二人を見比べては、しばらく黙り込ん
だ。
「なに、ちょっと立ち寄っただけでござんすよ」と銀次は腰の十手を手で撫でた。「ただ
師匠に挨拶してえだけなんで、懸念にゃいりやせん」
 小娘が奥に引っ込んだ。

 よく磨かれた上がり框には履物がなく、活花と飾り扇が掛かっている。雪のせいか、ま
だ若旦那衆の姿はないと見える。奥から香の臭いが漂ってきて、あの香の匂いだな、と思
いつつ、どこか京風な雅を感じさせた。品よく置かれた塗り下駄も色傘も高価そうであ
る。

 三味線の旋律が止み、やがて足音を消すような足袋のしのびやかな気配が聞こえてき
た。伏せ目がちに現れたのは艶麗な三十前後の女だった。
「ご苦労様でございます」と入り口の框まで近寄り、白鮎のような手で三つ指をついて、
それからゆっくりと顔を上げた。銀次は息をのんだ。まるで錦絵から抜け出してきたよう
な絶世の美人だ。若旦那衆が通ってくるのも無理はなかった。

 そのお栄が篝陣十郎を見て、ふと眉を寄せ、瞬きをし、ふたたび怪訝そうな表情を見せ
て眺めた。陣十郎はゆっくりと頷いたので、お栄はしばしその風体を呆然と眺めてから、
その顔の色が変わり、「篝陣十郎様」と苦痛の狭間から生まれ出るように涙粒が盛り上が
った。が、すぐに揺らめく愛憐の涙に変わった。それを袖で押さえた。

「お達者か?」と呟いた陣十郎の息づかいは荒く、見つめるお栄の目に愛惜の光が宿っ
て、ゆがんだ顔がおののいた。
「陣十郎様こそ、よくもご無事で……」と不意の出会いに目が交錯したように結びついて
離れなかった。

 銀次はたまらず、「旦那、ごゆっくりなさっておくんなせえ。あっしは通りの茶屋で待
っておりやす」と言って、格子戸を開けて表に飛び出した。あれは長い間、捜し求めてい
た女にめぐり合えたときのそれだ。篝の旦那にも恋しい女がいたのだ。銀次は雪晴れの青
空のように無性にいい気分になって、団子を注文してからも笑顔が止まらず、「親分さ
ん、いいことがございましたね」と言う婆さんの声に頷きながら、嬉しげに串の団子をほ
うばった。

 篝陣十郎はお栄の立ててくれたお茶を手に添えて飲み干すと、有田焼の茶碗の縁を指で
引いて畳の上に置いた。
「この近くにおられたのなら、なぜ訊ねてきてはくださらなかったのです?」
「いや、藩を出奔した者が近寄っては、そなたに迷惑がかかると思うてな。事情はご存知
でござろう」と陣十郎の面に一穂のかげろうがうつろった。
 お栄の顔には、もう涙ない。代わりに深々とした艶麗な表情が目に表れていた。

「はい、あの由比正雪のかかわるのをご反対なされて、青木意右衛門の兄である青木高右
衛門と果し合いをなされたことは聞いております」
 お栄は篝陣十郎を真正面から見据えている。
「つまらぬ果し合いであった」と恥入るように目を伏せる。「殿も由比正雪などに肩入れ
なさるなど信じられなかった」
「あれからわたしは根来の忍びに出されました……」と胸をぎゅっと締めつけられたよう
に顔を歪めて言った。

 お栄の不幸の身の上話を聞くまでももなく、この陣十郎とて同情や哀れみの一つや二つ
は持っている。いや、上下を問わず、人間ならばみなそうであろう。
「噂では聞き申した。由比正雪の残党の一味に加わられたのか?」と激しい胸騒ぎに襲わ
れる。
「殿様のご命令でございますので、止む終えずに……」とお栄は殿の厳命であると割り切
っていたので、臆することなく従ってきた。その思いは篝陣十郎が現れたことで、今は心
の中に疑いの炎が生まれていた。

「そこもとは剣の使い手であったからな」
 篝陣十郎は言う。吐息のように。
 お栄は自らを責められるようなことは一度もなかった。だが、今はその現実に狼狽し
た。これはばかげたことだ。殿の厳命によって動く一寸先は闇という何の喜びもない萎え
るような己れがそこにいる。不審な面持ちで見つめる篝陣十郎の目が怖かった。

「霞の源兵衛と一緒に土蔵破りをなされたのか?」
「まさか、霞の源兵衛は青木伊右衛門様の手の者で、わたしはよく存じませぬ」とわずか
な笑みを浮かべて首を左右に振ったが、心の中では暗い追憶の中をさまよっている。「女
だてらに剣に手を染めたばかりに、このようにな境遇になり果てました。悪い女でござい
ます」
「すまぬことを聞いた。許してくだされい。いまさら悔やんでもしかたがないが、あのと
き何事もなければ、そなたを嫁にできたものを……」

「陣十郎様」とお栄は陣十郎の胸に身をあずけた。気が狂いそうなほど悲しい。これまで
の自分が似ても似つかぬ女であったからだ。「これも陣十郎様が藩をお抜けになられたか
らです。だからわたしは進んで根来衆の一人になったのです。この常磐津のの宅は隠れ蓑
で、じつは不知火の蜘蛛はこのわたしです」と陣十郎の膝頭からじっと動かぬ愛しい想い
を込めて見上げる。浮世を離れた眼差しで愛撫を待ち焦がれる飢餓感がお栄の身体を駆け
巡る。……

 この重荷から開放されて安堵感が欲しい。恋慕の炎が冷たい灰になる前に、どうしても
思いを遂げたい。……

「もう、何も申されるな。そのことは陣十郎とて承知でござる。しかし、今や江戸幕府も
磐石となっては、騒乱を起こしたところで無駄なこと。殿も青木伊右衛門もわからぬはず
があるまいに」
 その陣十郎の口をお栄は指で閉ざして頭を振った。かつての陣十郎様の感触、かっての
陣十郎様の体臭をお栄はまだ覚えていた。そこにお栄は帰ることができたのだ。ついに!
悲しい旅路の果てに、やっと心のふるさとに帰れたのだ。

「ああ、陣十郎様!」と何も失うものがなくなったように胸があらわになり、頭を思うさ
まのけぞらせて、その艶美な肌が桜色の恍惚感に身悶えた。

「もしや……」と一瞬、お栄は息をのみ、ふたたび篝陣十郎を目を見開いて見つめる。


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