第72回テーマ館「見えない」



見えない盗品(上) 夢水 龍乃空 [2009/01/12 16:53:49]


 広い屋敷だ。雲田はまずそう思った。
 例の盗賊が予告上を送った先が、この邸宅である。横浜も郊外となれば、村の地主から
続く権力者というものが残っている。最初から持っていた力を利用して政治家となり、そ
の財力でさらにのびていった連中だ。だからこんな広い土地と大きな建物を、一個人が所
有できるのだった。
「で、そろそろ教えてもらえませんか? 伊勢さん」
「何度言わせる気だ。自分で考えろ」
「・・・」
 出水警部補が、この現場の指揮を執っている。雲田はその部下だ。
 神奈川県警のみならず、近頃関東一円の警察は、この盗賊に頭を悩ませていた。あまり
の見事さというか、具体的な手口すら明らかにできない事件もあるほどの不可解さに警戒
し、警察は事件の詳細に関する報道を控えていた。だが何のきっかけかマスコミが嗅ぎ付
け、瞬く間に盗賊は有名人となり、警察は非難の的となった。
「まあしかし」
 出水が雲田に小声で言った。
「透明人間が狙うには、恰好の獲物だわな」
「まあ、相性良さそうですよね」
「不謹慎だがな」
「確かに」
 県警の捜査本部は、現場を所轄に任せて、取り逃がしたら人のせいにするつもりだ。そ
れくらい、雲田にも分かっていた。分かってはいるが、相手は姿の無い怪盗だ。自信は無
かった。
「伊勢さん、相手は透明人間とまで言われる盗賊です。我々としても、中途半端なことで
は守り切れません」
「奴のことは知っておる。日本のルパンとか、現代の二十面相とか、若い連中は怪盗スケ
ルトンなどという巫山戯た名前で呼んでおるそうだな。警察がだらしないからこういうこ
とになる。今回にしても、儂は警察を呼んだ覚えなど無いのに、お前たちが勝手にやって
来たのではないか。協力する義理など無いわ」
 出水は小さくため息をついた。
 雲田は怪盗スケルトンと聞くたびに、おかしくなってしまう。透明という意味で使って
いるようだが、正しくは骨組みのことだ。盗賊は人間だろうから、怪盗スケルトンとは、
さながら理科室の標本のようなガイコツが、夜な夜な金持ちの家に盗みに入っては、まん
まと獲物を掠っていくイメージになる。その様子がおかしいやら気味悪いやらで、結局
笑ってしまうのだ。
 盗賊が盗みを働いた現場では、今のところ不審人物の目撃例が無い。事件の前後におい
ても同じだった。それでも予告された時刻を過ぎれば獲物はかき消え、現場のどこかで
「参上」とだけ書かれたカードが見つかるのである。確実に誰かがいて何かをしたはずな
のに、誰もその姿を見ていない。まさに怪盗と呼ぶにふさわしい相手なのだ。
 その透明人間が今回、よりによって「見えないアート」の盗みを予告してきた。
「でも何なんでしょうね。来れば分かるとか言ってましたけど」
「そうだな。来てはみたが、分からんな」
「中に入らないと駄目なんでしょうか?」
「誰にでも分かるってことは、招待客にしか分からんという意味ではないはずだが」
「ああそうか」
 伊勢の芸術館、またの名を「見えないアート」という建物は、別に変わったところなど
無かった。雲田はもっと奇抜なものを想像していたのだが、正直拍子抜けだった。
「入りたまえ」
「は。お邪魔します」
「お邪魔します」
 伊勢は出水と雲田を玄関に招き入れた。盗賊を警戒する気配など無い様子だ。
 雲田は靴を脱ぎながらも、屋敷の内部に目を走らせた。一応は警察に身を置く人間とし
て、観察力には自信のある方だったが、気になる点は無い。見えないというからには、ど
こかに隠してあるのか、紛れ込ませているに違いない。そう思いながら、前を行く伊勢を
追いつつ、廊下から見える全ての空間に目を凝らした。
「ここにいなさい。念のため言っておくが、ただの居間だ。ここに何か特別なものがある
ということではない」
 伊勢が言った。
「いや、むしろその特別なものがある場所へご案内いただきたいのですが」
「無理だな。所詮、気付いたものにしか見えんのだ。芸術とは限りなく平等であるべきだ
が、それに触れようと努力する者だけが、真実に辿り着けるのだよ」
「はあ・・・」
 苦虫を噛み潰したような出水の顔を見ながら、雲田は途方に暮れていた。これでは何を
しに来たのか分からない。
 伊勢屋敷は初めから注目されていた。代議士で美術界にも顔の利く伊勢が、究極の芸術
作品のために自宅兼展示場として建てさせたのがこの屋敷である。伊勢は芸術館と呼んで
いる。過去に何人もが訪れたが、誰も「作品」に触れた者は無い。気付いた者にだけ分か
る、という伊勢の言葉からマスコミが作り出した呼び名が、「見えないアート」というこ
とである。
 雲田は考えた。目に見えないなら、耳で聞くのではないか、あるいは鼻で嗅ぐのではな
いかと。
 舌で味わうのは、相手がモノであるだけに無理がある。手に触れられるなら、目にも見
えるだろう。そういうことだ。
「あのう」
「何だね」
「館内を見て回っても構いませんか?」
「ふん、いいだろう。勝手にしたまえ」
「はっ、ありがとうございます」
 じっとしていられず、雲田はそれを探すことにした。出水は目配せしただけで、黙って
いた。
 特に耳と鼻に注意を集めて、警察の特権とばかりに、歩ける場所は全て歩き、開ける扉
は全て開き、動きそうなものは全て動かして、あらゆる場所を調べて回った。それでも、
雲田の感覚に訴えるモノは何一つ無かった。妙な事実は、いくつか発見したが。
 念のため、建物の外側からも見ることにした。時間が迫っている。猶予は無い。
 外壁の隅々まで、装飾の端々まで、雲田は目を配った。正確には、そこから何か特別な
音や臭いがしないか注意していた。庭も例外ではない。可能な限り歩き回り、芝生の下に
何かが隠れていないか、踏みしめる足に集中した。
「どうだったかな?」
 居間に戻った雲田に、伊勢が聞いた。
「いえ。何も」
「そうだろうな。警察のような無粋な輩に、分かるはずもない。心を澄まさねばな」
 腹立たしかったが、返す言葉がない。
「まあ、廊下の構造に錯視が使われている様子でしたし、カーペットの踏み心地が所々違
うことくらいなら、分かりましたけどね。おかげで、少し目眩がしました」
 何となくそんな気がした程度だが、苦し紛れに言ってみた。
「ほほお。感覚だけはあるようだな。まあ感覚の良さと感性の良さには、大きな隔たりが
あるものだ」
 小さく舌打ちすると、出水に睨まれた。
 そしてついに、予告された時刻が訪れた。
 だが、何事も起きない。何の報告も来ない。空気が静まりかえったままだった。
「おい、何か報告はないか!」
 出水が無線で叫ぶ。応答はどれも、異常なし、である。
「どういうことだ・・・」
 悩む出水がふと見ると、伊勢の顔色が変わっていた。明らかに動揺している。
「どうしました?」
「あ、ああ、あの、怪盗は、あ、現れたのかね?」
「いいえ。今のところ、その気配はありません。ただ、奴に失敗は無い。何度か、失敗と
思わせたことはありますが、実は予告状がフェイクで、別の品に警備を集中させ、本当の
獲物を盗んだというケースがあります。それでも本当の予告状は密かに届いていました
が。とにかく、成功率100%なんですよ、奴は」
「そ、そうなのか。なら、ならば、今回は何を? ここには、他に盗むべきものなど無い
はずだ!」
「分かりません。捜査中です」
「早く、早く調べてくれ!」
 雲田には分からなかった。盗賊は何もしなかった。何も盗まれなかったことがそんなに
おかしいか? 何に怯えている? 最初から理解を超えた事件だったが、時間が来て事件
は終わるどころか、謎を深めている。
 警官隊の捜索により、「参上」というカードが玄関先に堂々と置かれていることは発見
された。その場所は雲田も見ていたはずだが、気付かなかったのか、まだ無かったのか、
記憶に無い。またしても透明人間の暗躍かと思われたのだが、カードの裏には不可解な文
句があった。
 ――我、盗まず。我、得たり。
 その報告を受けた伊勢は、完全に取り乱し、警官隊を追い払うと門扉を閉じ、屋敷に
戻って行った。それから何度か訪問したのだが、門を開くどころか、電話にもインターホ
ンにも、応じることは無かった。
 警察としては、盗まず、という言葉を信じる形で、被害無しとして事件を閉じた。だ
が、雲田は納得できなかった。そして、友人に聞いた奇妙な探偵の話を思い出した。
 横浜にいるその探偵は、詳しい事情に長けた人間が相手なら、どんな事件でも話を聞く
だけで解決してしまうという。この不可解な謎も、その探偵ならば解けるだろうか?
 一縷の望みを託して、雲田は噂を頼りに、その事務所を訪ねた。

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