第77回テーマ館「音楽」



悪魔と音楽と不幸せな男 〜パチモン・一塁手(ファウスト)の物語〜(前編) ひふみしごろう [2010/06/05 17:18:29]



悪魔とは音楽である

かつて、人が言葉を手にする前に
音楽はすでにそこにあり
人と共にあった悪魔もまた
その妙なる調べを心より愛した
「良いも悪いも紙一重」と嘯いて
人間達を誘惑し
ただひとつの願いと引き換えに
その魂を地獄へといざなう

    *

一人の男がいた
幼少時より曲を作ることに才能を発揮し
歌を唄うことに喜びを見出した
当然のように男は音楽家となるが
彼自身はそんな自分の選択に
いつもなにかの違和感を感じてもいた
それは己の才能に疑問を感じていたせいかもしれないし
ひょっとしたら、自分では気づいていない
何か他にやりたいことがあったせいなのかもしれない
それなりの評判をもって受け入れられた周りからの賞賛も
男の心には響かない
なぜなら、彼には自分の作品は
いまひとつ自身の望むものからはズレているという思いが常にあった為であり
また、作り出すものに対して、小賢しいだけの小手先の粗製品という
できそこないの印象が拭いきれない為でもあった

男は音楽を愛しはしたが
それが全てだとは思ってはいなかった
ただ、それでも音楽家としてあり続けていたのは
心の中に、確固たる己だけの音楽の胎動をはっきりと確信していたからである
しかし、今の自分にその確信を形にするだけの力もなく
結局のところ、それは男の根拠のない自惚れであったかもしれないし
現実から目を背けているだけであったのかもしれない

悪魔は男に目を付けた
たいした理由はない
音楽家という点が好みにあっただけだ
霧の立ち込める真夜中の交差点
悪魔は艶然たる女の姿をもって男の前に現れる
そして、魂と引き換えに願いをひとつかなえるという悪魔の提案に
しばらくの間を置いたその男の答えは
「幸せになりたい」という
曰く言い難い
なんともありふれた言葉だった

悪魔はあきれた
どんなに大きな力を持とうとあくまで悪魔である
幸せなんてポジティブベクトルは趣味じゃない
音楽に関することならばどんな悪魔的な提案にも乗って上げようと思ってたのに
目の前の男は悪魔のそんな予想をあっさりと裏切った
しかし、どうこういったところで決まりは決まり
契約は成されなければならない
悪魔的な微笑みをたたえた女は男の願いににこやかに答える
「幸せなんてどうすりゃいいかはわからんが
この世の最高の音楽をくれてやる」

    *

こうして男は悪魔と手を組んだ
元々そこそこの才能を示していた彼である
悪魔の与える悪魔的なインスピレーションによって
発表する作品どれもこれもがこれまでにない絶賛をもって迎えられた
名声も一気にはね上がり
それに伴い、財産もたんまりと転がり込む
「どうだ、今こそ幸せだろう?」
悪魔はそう言って微笑みかけるが
なぜか男はいま一つ煮え切らない苦笑いを返すのみ

周りからちやほやされて
贅沢三昧の日々
そんな夢のような生活だったが
男の心の中にあるのはいつもの違和感
幸せなのは間違いないが
満足できないもどかしさ
なにかどこかが欠けてるような
中途半端なやるせなさ
それはやはり、その幸せが、悪魔の力という
桁外れのズルで成し遂げられた為なのかもしれないし
そもそもの、この男にとっての幸せが
そういう形をしたものではなかったせいなのかもしれない

すっきりしない男の態度であったが
意外と悪魔に焦るそぶりは無かった
なぜなら彼の作るそれら作品の数々は
なかなかに彼女のお眼鏡にかなうものだったからである
その嗜好の幅は、悪魔だけに悪食ともいえそうなまでの懐の広さを示し
どんなに瑣末なものも心ゆくまで堪能した
頽廃的な満面の笑みを浮かべながら
うっとりと幸せそうに音楽に聞きほれるその姿
もはや契約などとはお構いなしに
自分のしたい事してるだけのようにしか見えない

「お前が幸せになってどうすんだ」
その頃、男がよく悪魔に対して言った皮肉であり
「そこはかとない陰鬱な、怨念の萌芽を感じる」
その頃、悪魔が男の作品に対して言った言葉である

    *

ある時、男のもとにその国の王からの知らせが届いた
宮廷の音楽家達との歌合せ(歌の優劣を競う演奏会)に参加しろというものである
男はそんなもの正直興味は無かったが
悪魔はこれを吉兆と捉えた
なにより、権力との結びつきは
幸せの形としては定番のものである
悪魔の助力をもってすれば
宮廷音楽家の頂点にたつこともたやすいだろう
もし男が望むのであれば
音楽だけとは言わず、一国一城の主として名を残すことでもよい

いくら望むことをやっても幸せと感じられない男ならば
おそらくこの男にとって、幸せとは男の埒外にあるということで
男が興味を示さない事柄にこそ
幸せの糸口となるものがあるに違いないのだから
悪魔はそう確信し、男を説得し
男は不承不承ながらも
悪魔の意を汲んだ

そうしてやってきた歌合せの当日
初めてのお城の荘厳華麗な在りようといったら
それまでけっこうな贅沢に慣れた男にとっても
有無をいわせぬ程の豪華絢爛
そしてそこにおわします宮廷音楽家達もまた
下々の音楽家とは比べるべくもない格調高さに包まれている
あまりもの場違いな雰囲気に
男はほとほと呆れ返り、居心地の悪い思いにため息をつくばかり
隣に並ぶ悪魔は
その外づらだけを着飾った城内の虚飾騒然とした佇まいに
舌なめずりせんばかりに見目麗しい相貌をほころばす
面白くないのは、宮廷音楽家達も等しく同じである
高尚で格式高い歌合せに、王の余興とはいえ下民の浅薄な男が招かれたのである
いかに有名だろうとも、ここは宮廷音楽家の威信にかけて
目の前の男を完膚なきまでに叩き潰さねばならない
そんな人々の思惑を芬々とはらませて
王の御前の歌合せは盛大な幕を上げる

しかし、いざ歌合せが始まってみると
悪魔に憑かれた男の奏でる音楽は、宮廷音楽家達などものともせずに蹂躙した
古臭いカビの生えた格式などに
悪魔的なほとばしりを振り払うことなどどうしてできようか
そんな小賢しい小細工など
溢れ出る生の魂の奔流の前ではただの児戯でしかない
あわてた宮廷音楽家達は必死になって男の音楽をなじるが
結果はその場にひかえる誰の目にも明らか
むしろ、そんな言葉を重ねるだけ
不様さに一層の華を添えるのみである

結局、一年で十分であった
男がその国の音楽家の頂点に上り詰めるまでの時間である
音楽そのものの実力の話だけではない
それまでその国の音楽界にはびこっていた旧態依然とした不文律を排除する
政治的な根回しも伴う、内実も外ヅラも含めた話だ
そういった方面には本来後塵を拝しがちな男ではあったが
悪魔にとってはむしろ面目躍如
水を得た魚のような大活躍をもってして男の立身出世に貢献する
こうしてついに音楽家として大成した男

幸せを求める物語も次の段階へと場面を移す────

    *

十年の時が過ぎた
男の名は今となっては一つの国に留まらず近隣諸国にも鳴り響く
前代未聞の天分
類稀なる鬼才
音楽家としての男はこれ以上ないほどのもてはやされよう
富
名声
権力
そういった多くの快楽を手に入れた男ではあったが
いまだ心の鬱屈は晴れることなく
あいも変わらず己自身の幸せを見出せずにいた

この十年間、悪魔は何度となく男を音楽にとどまらない政治の世界にも目を向けさせよ
うと試みたが
さすがの男もそれにだけは反対した
そもそもの宮廷音楽家の長という立場さえもそれほど望んではいないのである
十年も王宮の世界ででいろいろなものを見てきた男にとっては
正直、現状すらも食傷気味の様相を呈していた
あわないのである
生き馬の目を抜くような世知辛さが
窮屈すぎて
息が詰まる
これなら、のんべんだらりと好き勝手やってた時のがまだマシというものだ
悪魔の説得に応じてなんとかここまでやってきたが
なんともボタンを掛け違えてむしろ上下すらあべこべに着てしまったかというほどの違
和感に男自身も戸惑っていた
本来ただの人間にはどんなに望むとも与えられないような百花繚乱な幸せづくし
「これだけやってもまだ足りないか」
悪魔は呆れたように口にするがその顔に不満はない
むしろ男の一国に留まらない強欲ぶりに悪魔冥利に尽きるとも云わんばかりである
男としては、いかなることも可能としてしまう悪魔の神秘霊妙たる献身こそが
これだけの絢爛に水を差している原因のような気がしないでもなかったが
さすがにそれは悪い気がしたのでいわないことにしておいた

そんな時王宮に一人の青年が現れた
若者らしい傲岸不遜
まっすぐに上げられたそのかんばせは見事なまでに傍若無人
自信に満ち溢れ才走ったその若者は、宮廷音楽家の長たる男の元にやってくると
弟子にして欲しいとなんの衒いもなく申し出た
しかして、その実力はそんな不遜な態度に出るのも頷けるほどの脱俗超凡
そしてその見据える先は悪魔に憑かれた男をも凌駕するほどの遥かな高み

瑞々しいまでの才能は百年に一人と称えられた男をすら翻弄する
若者の天分は悪魔憑きとも比肩しうるほどまでに強大無比
その事実には悪魔も舌を巻く
あっというまにその資質は衆目の認知するところとなった

己がインチキをしているという自覚があるからこそ
男はその若者の底なしの才能に心底愕然とした
男に与しているのは悪魔の魔力である
神にもタメを張れるほどの神通力だ
ただの人間にそんな領域まで到達されては嫉妬という言葉では勘定にあまる
しかし、真に羨ましきは青年のその若さゆえの天真爛漫さ
「音楽さえあれば他には何も要らない」
自信満々に言い放てるその器量は
かつての男にはなかったものだ
己の幸せすら決めかねている男にとって
目的のためにわき目もふらずに邁進できるその姿はなんとも単純明快で眩いばかり

「つくづくお前はとり憑く相手を間違えたな」
その頃、男がよく悪魔に対して言った皮肉であり
「あぁ、なんとも心地よい怨念の躍動感」
男の傍らで、紡がれる音楽にうっとりとしながら悪魔が口にした言葉である

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[管理者より 申し訳ありませんが長いので前後編に分けさせてもらいました。]


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