第77回テーマ館「音楽」
悪魔と音楽と不幸せな男 〜パチモン・一塁手(ファウスト)の物語〜(後編) ひふみしごろう [2010/06/05 17:18:29]
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「音楽長の音楽は古臭い」
ある時から宮廷内でこんな言葉が囁かれるようになった
噂の元は件の若者である
事実、彼の生み出す音楽は男とはまた違った魅力を持っていた
周りの者のなかにもちらほらとその噂に同調するものが現れる
類稀なる鬼才と誉めそやされた男の天下にも翳りが見え始めた
あっさりと手のひらを返す者たちに悪魔は怒りを見せたが
男はむしろ、その若者の、政治すらこなす清々しいまでの姿勢に感心した
「音楽長などもののかずではない、俺がこの世で一番の音楽家になってみせる」
若者が陰でそう豪語しているのは知っている
しかし、彼の才能を持ってすればそれはあながちただの自惚れとはいえない
男も内心思っているのだ
本来、音楽長などという立場につくのは明確な力と意思を持っている若者のような者で
あるべきで
音楽に対する情熱すらもあやふやな、自分のような人間がなってる事実の不条理を
男と若者の確執が王の耳にも入るのにそれほどの時間は必要としなかった
面白がった王は二人の歌合せを企画する
古い体制と新しい息吹の対図
その立場は全く逆のものとなってしまったが
奇しくも11年前の再現である
様々な佞臣達が男の下を訪れる
それはかつての男の側にはなかったものだ
曰く「あんなポッと出の若造に負けるわけにはいかない」
曰く「間諜を立てて若者の邪魔をしましょう」
色々な画策を持ち込んできたが男は悪魔を窓口に据えることで
一切自分には雑音が入ってこないようにした
どうやら、若者の方にも何らかの動きがあるようではあったが
それもまた取り立てて気にすることはなかった
男には一つの考えがあった
かつて、悪魔と出会う前、自分の中にあったあの音楽の胎動
今ならばそれを形にすることができるのではないかと考えたのである
「今回に関しては手出しは無用」
男は悪魔にはっきりと申し付けた
男を幸せにするという立場上
悪魔は、彼女抜きで男がかの天才と対峙することを危ぶんだが
男としては、悪魔に頼り切る自分の在りようこそが
幸せを達成できないすべての原因だと確信していた
それになにより、己の中にある自分だけの音楽である
自分の力だけで生み出さないことには意味がない
悪魔は男の真意を読み取ろうとするかのように男の眼差しを覗き込んでくるが
しばらくそうした後あきらめたように首を振り
「了解しましたご主人様」と茶目っ気たっぷりに揶揄するだけだった
「まずい」
歌合せの当日、会場に到着した途端悪魔からそんな言葉がこぼれ出た
不審に思った男がどういうことかと問いただそうとすると
一人の長身の男がにこやかに二人のもとに近づいてくる
「よ、嬢ちゃん」
まるで旧知の仲のように悪魔に向かって語りかけるが
対する悪魔はそれまで見せた事もないような不快感を露わにして男の事を睨みつける
「おいおい、久しぶりに会ったのにおっかねぇ顔すんなよ」
男は軽薄な笑顔をこそ貼り付けてはいるが
身に纏う雰囲気は、なにかこう見てるものを不安にさせる
「同業者よ」
しばらくして二人きりになったとき悪魔は長身の男の事をそう説明した
男は先ほどのことを思い出し、さもありなんと得心する
「手を出すなということだったけど、そういうわけにもいかなそうね」
悪魔はつまらなそうにそう呟くが
男はそのあたりに関しては悪魔の判断に任せることにする
そして、先日、若者に近づいていた者たちのことについて思い至る
───くだらない
要するにそういうことなんだろうが
男は、つくづく宮廷のそういうありように心の底からうんざりとした
「無粋だわ」
別れ際、悪魔がポツリとこぼした言葉は男自身の実感でもある
それは異様な対決だった
その場に居合わせた全ての人々は、単純にこの戦いを11年前の再来と見ていた
古いものと新しいものの対立
持たざるものによる持つものに対する反乱
11年前に為されたことが時が流れてもう一度行なわれるだけのことであろうと
だが、人々のその認識はあまりにも不足に過ぎた
11年前を知るものはその場において初めてのものを目にして戸惑うこととなる
新しいもない
古いもない
持つも持たざるも意味はない
そこにあるのは、ただ、瑞々しくも荒々しい魂のほとばしりと
陰鬱でありながもすべてを抉り取る轟くばかりの魂のせめぎあい
それは11年前にはなかったものだ
そして、今ここでしか有り得ないものだ
正直なところ、男は自分の音楽というものを形とするにはまだ至っていなかった
今できる最善をもってしても、完全に納得できるものは完成しなかったのである
それでも、男はそのことに対する憂いはなかった
全力を尽くしたからである
これで敵わないのであれば目の前の若者に全てを託して何の悔いもない
男の中に確固とした思いが根を下ろしていた
そして、そんな男を横目に見ながら悪魔もまた男のサポートだけに徹していた
時折、若者に憑いた悪魔から隙をつく形で攻撃が為されるが
演奏には関係ないそんな悪魔的な横槍に対してだけ防ぐことに専念する
今回の件に関して、悪魔は、男と若者どちらに対しても
音楽そのものには手を出さないことを心に決めていた
なんらかの算段があったからではない
男の勝利を確信しているからでもない
ただ、なんとなく
男から手を出すなといわれたあの時
悪魔の中にポツンと一つ
「あぁ、もったいないな」
という小さな思いが生まれたのだ
だから、もう悪魔は今後男のやることに一切余計な茶々は入れない
たとえ、どんな結果になったとしても
男が自分の力で幸せを手に入れるその時を気長に待つだけだ
悪魔の中に確固とした思いが根を下ろしていた
お互いの意地と意地が濁流となってぶつかり合う中
若者の隣に立つ長身の悪魔がニヤニヤと笑いかけてくるのを見て
男は忸怩たる思いを味わう
「音楽さえあれば他には何も要らない」
かつて若者が男に対して投げかけた言葉である
音楽というものにそこまでの情熱を注ぎ込めない不幸せな男は
その一途過ぎる真っ直ぐな心を
心底羨ましいと思いもしたが
事ここに至っては、それもまた哀れな話だ
若者が悪魔とどんな契約を結んだかということまでは知らない
だが普段の彼を見ていた男にはいわれずとも想像はつく
猪突猛進で性急なあの若さのことだ
音楽に関することで間違いない
いや、もっと近視眼的に今回の歌合せのことついてであっても不思議はない
悪魔憑きに匹敵する力を持ち、目指す処もはっきりとしていたあれだけの才能である
悪魔などに頼らずとも、男に勝利する程度のことなど、できない話ではなかった
悪魔などに頼らずとも、自分の夢は自分の力だけで成し遂げられたはずだった
音楽について何を願ったかは知らないが
それは命と天秤にかけていいほどの願いではない
誰の入れ知恵かは知らないが
あれほどの資質が悪魔の契約を求めるほどに自分自身を追いこんだ
愚かに過ぎる
短慮に過ぎる
───ほんとうにくだらない
男は若者の浅はかさに対し
つくづく心の底からそう呟いた
悪魔も男の隣にありながらその呟きを聞いていた
しかし、彼女はまた、こうも思うのだ
男には若者をなじる資格はない
愚かさも
下らなさも
もとはといえば男もまた同じであるのだから
幸せなんて大事なものを他人任せにして命をさしだしたのも
類稀なる才能に悪魔の契約を決心させるほどの畏怖をもたらしたのも
全ては男自身がやったことだ
そして、それはまた男に憑いた自分も同じ
男の傍らで、紡がれてくる音楽を聴きながら
悪魔は最後の最後に
そういった諸々のことを
ひとりポツリと理解した
その会場全てを飲み込んだ魂と魂のせめぎあいは
その場にいるもの全てを翻弄しつくして────
終わりの訪れは突然だった
人々は固唾を呑んでその結果を見守った
勝者は?
敗者は?
静まり返った会場にコソコソと細波のような囁きだけが飛び交う
しかし彼らは知らなかった
勝者も敗者もない
そこにあるのはただ
願いをかなえて命を奪われたものと
願いかなわず、いまだ不幸せなものだけが────
*
男はすぐにその国を出た
旅の理由なんてものは今更言うまでもない
「もうお前の手助けは必要ないよ」
街を出るとき男は悪魔に向かいそう言ったが
「知ってるよ」
悪魔はそう答えると男と共に歩き始める
*
また、何年かの時が流れる────
時に、男はもういいんじゃないかと思うことがあった
いつまでたっても、男には幸せというものは掴めない
しかしそれは、何か一つを決めきれることができない自分の責任
かつてのあの歌合せの若者の中にあったひたむきさは、自分の中には存在しない
音楽だけは違うと思いたい部分はあるが、結局それも漫然としたものでしかない
ひょっとすると幸せを求めているこの渇望すらもまた、漫然としたものではなかったか
ここまでやってまだ満足できない自分は
ただ死ぬのを恐がってるだけではないのか
「お前の強欲は底抜けなのさ」
そんなことを考える男を悪魔はいつもそう言ってからかったが
男はそれでも考えこんでしまう
もはや、人生は十分に楽しんだ
人の何倍もの幸せを独り占めにしたといっても過言ではないこの俺こそは────
「なぁ、契約解除のおまじないとかないのか?」
ここでおわらせたとしても、それはそれでいいんじゃないか
男の中のそんな思いが悪魔に質問を投げかける
しかし、妖艶なまなざしをまっすぐと男に向けた悪魔は
「そんなものはない」
そういってゆっくりと首を振る
「───あっても教えない」
「つくづくお前ははずれ籤を引いたな」
その頃、男がよく悪魔に対して言った言葉であり
「あぁ、魂ごと揺さぶるかのような怨念の重厚感」
男の傍らで、紡がれる音楽に恍惚とした表情を浮かべながら悪魔が口にした言葉である
長い旅だった
北に行き
南に行き
西に行き
東にも行った
鬱蒼と生い茂る森の中だったこともあったし
抜けるような青空の、透き通るような海だったこともあった
空気の薄い、雲よりも尚高い山の上
雲海よりも、頭上に広がる迫るような空の青さに陶然とさせられたこともあり
あたり一面砂に覆われた、山すらも砂の色をした砂漠の地では
照りつける太陽の、あまりもの強烈さにうんざりさせられることもあった
時にその旅路は、悪魔や神々の世界にも及び
艱難辛苦
喜怒哀楽
ふんだりけったり
男と悪魔は旅を続けた
*
長い長い時が流れた
男は病を患った
おそらく自分の命はもう長くない
はっきりとした最後を感じとりながら
男はゆっくりと人生の心残りを思う────
一つだけあった
自分の中にある自分だけの音楽
男はまだ
それを作り上げていない
ついに訪れた最後のとき
男はただ一つのことだけを思った
まだ死ねない
まだ大事なものを生み出していない
体の中に針をねじ込んで掻き回されるような激痛の中
思わず男は叫んでいた
「もう少しなんだ、待ってくれ!!」
最後の力を振り絞り
男は自分の中のすべてを奏で上げる
「時よ止まれ!!俺はまだ死ねない!!」
悪魔は男の命がついに終わりを告げたことを知る
小さな光が男から抜け落ちていく
しかし、哀しげな表情を浮かべた女はその光を掴まえることはしない
契約内容は幸せと引き換えに命を貰うこと
彼女にはその契約は成し得なかった
ゆっくりと、悪魔の知らない場所に向けて上ってゆく男の魂を
一人佇んでただじっと眺め続ける
小さな光は空を流れ
その光が通った後にやわらかな音色が溢れ出る
その旋律はあたたかくやさしげで
時に荒々しくも清冽であり
見渡す限りの地平に向けて余すことなく広がっていく
空を見上げる女はその調べを全身で浴びながら
最上級の満面の笑みをもってその小さな光を見届ける
「お見事」
万感の思いを込めた
悪魔の最後の賞賛であった
(おしまい)
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