第77回テーマ館「音楽」



ミスアンサンブル 1 夢水龍乃空 [2010/07/11 00:13:32]


 ライヴは成功だ。極度の興奮による浮遊感に酔いながら、これが自分のバンドだったら
もっと感動できるんだろうかと、宇納紀利矢(うのうきりや)は思っていた。そんな凄い感
覚を味わえる日は来るんだろうか。宇納には分からなかった。
「良かったよ」
「ありがとうございます」
「またよろしく」
「はい。お願いします」
 ドラムの宇納とギターの森重(もりしげ)は、こうして誰かのバックバンドの一員として
活動している。今日のグループは彼らとしても常連で、とても可愛がられていた。
「良かったな」
「ああ」
「キックが上達したんじゃないか?」
「お、分かる?」
「やっぱな」
「俊軌(としき)だって、前よりミュートが効いてた気がするぞ」
「おお、聞いてるねえ」
 宇納の叩いたドラムはライヴハウスの持ち物だ。自前のドラムを持ち込みたいところだ
が、一式揃えるほどの出費は借金でもしない限り無理だった。会場のスタッフと解体すれ
ば、片付けはすぐに終わる。ギターの方はアンプまで自前だから、丁寧に片付ければむし
ろ時間がかかる。それを宇納も手伝いながら、興奮の余韻を味わっていた。
「イエーイ! ノッてるかーい!」
「アキ、もうライヴは終わったぞ」
「分かってるよぉ」
 望野亜輝子(もちのあきこ)は、自分では音楽をやっていないがバンドを追いかけるのが
好きで、宇納たちの存在にはすぐに気づいた。抜群のリズム感で完璧なテンポを刻むドラ
ムに魅せられて、望野の方から彼らに声をかけた。今は宇納の恋人だ。
「よし、行こう」
 荷物を積み込むともうドライバーしか乗れないところに、無理矢理あと二人詰め込んで
車を走らせた。来る時は別々なのに、宇納と森重の演奏を必ず見に来る望野が合流して、
最近はこのスタイルが普通になっていた。車を変える余裕は、もちろん無い。
「やっぱドラムはキリちゃんよねえ」
 最近の望野の口癖だった。垢抜けた性格で裏表のない人だと分かっているだけに、本心
からそう言われていると考えたら、宇納はいつも照れてしまう。
「そんなことないよ。俺なんか全然」
「何よもお。他のヤツらの演奏も聞くけどさあ、どっかリズムがボケてるっていうか、ブ
レてるっていうか」
「ヤツらとか言うなよ。顔に合わねえぞ」
 そうやって茶化すのは、だいたい森重の方だった。宇納は望野が何を言っていてもただ
楽しくて、どんな言い方でもまるで気にならないのだ。確かに望野は、二十歳過ぎにして
は幼く見えるような人懐っこい顔立ちをしていた。その笑顔が宇納の活力になっていた。
「いいの。アタシは自由なんだから」
「まあね、こんな風に好き勝手遊んでられるんだから、亜輝子は自由だよな」
「遊んでばっかりみたいな言い方しないでほしいわね。ちゃんと将来のことも考えてるん
だから」
「へえ、どんな?」
 意地悪く掘り下げようとするのも、森重の方だ。三人でいると、森重と望野の方がよっ
ぽど会話が弾む。それでも宇納がそれを不満に思うことなど、ずっと無かったのだった。
「東京でOLになって、いい人のお嫁さんになって、幸せな老後を過ごすの」
「すげえ適当なプランじゃね?」
「このくらいがいいのよ。人生何があるか分からないんだし」
「お、真面目なこと言ってるよ」
「でしょ? アタシだってやる時はやるのよ」
「普段から発揮してもらいたいもんだね」
「だってそれじゃ、いざって時に普通じゃん。驚かさないと意味ないし」
「なんでそうなる」
「意外と真面目、って思われた方が得じゃない?」
「分からん」
「え〜。紀利矢は分かるよね?」
「いや、分からないこともないような気がするかもしれない」
「サイアク」
 むくれてそっぽを向く望野の横顔を見詰めるのも、宇納の楽しみだった。
「紀利矢、やっぱスタジオ練習しないか?」
 唐突に、森重が言った。
「今はなあ」
 宇納の返事はいつもこうだ。
「最近仕事も増えてきた。頼まれる演奏のレベルも前より高い。正直キツいんだよ。ギ
ターだけで練習して、リハで調整するのはもう限界だ」
「そっか。俺も他の音があった方がやりやすいとは思うんだよ。けど金が続かないって」
「よく知らんけど、デジタルドラムってのもあるらしいじゃん? 値段だけなら良さそう
だったぞ」
「店で試してみたよ。なんだか、どう叩いても同じ音がするっていうか、十年経てば良く
なるのかもしれないけど、すぐ使える物じゃない」
「そうなのか」
「けど、リズムの練習にはなるからさ、それもいいかなって、最近思い始めてる」
「お、おう、いいじゃん。まあ買ったらしばらく金無いかもしんねえけど、ちょっと我慢
すりゃ、スタジオで本物叩けるんだからさ」
「うん、そうだよな」
 宇納は音大生が入るような防音設備のある部屋に住んで、半月に一度ドラムセットをレ
ンタルして部屋に組み立てては、毎日何時間もの練習を続けていた。設備のために家賃が
相場よりも高く、レンタル料も決して安いものではない。セミプロとして音楽活動をして
はいても、アルバイトを入れないと生活できないほどの状況だった。練習熱心だからこそ
の苦労を森重もよく分かっているため、何とかしてやりたいと常々思っていた。
「俺もさ、ギター仲間に声かけて、スタジオ使う時は付き合わせてもらってんだけど、肩
身狭くてな。あんま大きい音出すと悪いし、けど遠慮もしてらんねえし、苦労してんだ
よ」
「ヘッドホンだけの練習じゃ無理あるよな」
「ああ。そもそも音が違うし、プロ用途のヘッドホンは手が出ないしな」
「音響系ってなんで高いのかなあ」
「そんだけ真剣に作ってくれてんだろ。高いとか言っちゃ悪い。そうは思っても、現実高
いんだよ。参るな」
「参る」
 宇納とスタジオで練習できるのがよほど嬉しいと見えて、森重の口調はいつもより軽
く、楽しげだった。
 そんな風に音楽のこと、今後の活動のことを話し合う時は、望野はじっと黙っている。
話に入れないということもあるのだが、そうやって音楽にしっかりと向き合っている二人
の姿を見守るのが好きだった。苦労しながらも、自分の目指す音楽を仲間と一緒に追いか
ける宇納の姿が好きだった。
「それじゃ、俺は手が届きそうなデジドラ探すから、俊軌は手が届きそうなスタジオを探
してもらおうか」
「おっし任せろと言いたいけど、実際難しいよな。スタジオって高いぜ。仲間とは人数分
の割り勘で勘弁してもらってるけど、俺たち二人だもんな」
「問題は料金よりドラムセットだよ」
「来たなドラマーの憂鬱」
「そりゃ分かるさ。ドラムなんて裏方みたいなもんだし、ステージじゃ誰も見てないし、
ソロの時だけ注目されても、結局ギターかキーボードでもいなきゃ、ろくに伴奏もできゃ
しない。逆はいくらでもできるのにさ」
「お前はいつもそれだ。ドラムがリズム切らなくて、バンドが持つと思うか? 確かにド
ラムが無いバンドもいくらかある。けど、どっかで低音のリズムパートを作ってくる。そ
れだけ演奏が制限されてんだよ。ドラムがあるから、他のパートが自由になんだろ」
「分かってるよ」
「ドラムは日陰の楽器なんかじゃないぞ」
「分かってるって」
 宇納のトーンが変わった。
「けど、どこのスタジオ行っても、だいたいシンバルは打ち込まれまくって薄くなった
り、ヘロヘロに歪んでたり、割れたのが平気で放置されてる。ネジもいくら回したって外
れてくるし、よく見たらスタンドの足が一本曲がってて、怖くて叩けなくなることもあっ
た。バスタムが倒れて怪我したことなんて数え切れない。どうせそんな扱いなんだよ。ド
ラムなんて」
「ドラムは消耗品が多いからな。毎日力一杯叩かれれば、金属はすぐ傷む。スタジオもあ
んだけ金取るんだから、しっかりメンテしてほしいよな」
「ギターはいいよな。消耗品なんて基本的に弦とピックくらいだろ。ボディーはだいたい
持参だから、スタジオはアンプだけ持ってればいい。なのになんで窓口で弦は売ってても
スティックが無いんだ? そりゃギターはどこ行っても目立つよ。人気あるさ。ドラムと
は比べもんになんねえ」
「そうでもないさ」
「いや。プロのバンドだって、ギターの方がドラムよりファンが多い。みんなギターを上
に見てる。そういうもんなんだよ」
「……ま、探してみるよ」
 森重はそれ以上何も言えなかった。
 宇納がどれほどドラムを愛しているか、素人の望野にもよく分かっていた。ひたむきで
誠実な宇納の性格が、メトロノームのような厳格さで時を刻むドラムというパートによく
似合うと感じていた。だから花形ではないとしても、例えスポットライトは当たらないと
しても、自分のドラムを低く見るような言葉を、宇納にだけは言ってほしくなかった。
「あ、でもさ、そういうドラムをバカにしたヤツらとは違うスタジオを作るって、前に
言ってたよね?」
 宇納がちらっと漏らした呟きのようなものを、望野は覚えていた。そんな夢があること
を知ったのが嬉しくて、いつかちゃんと聞きたいと思っていたのだった。
「あ、まあな」
「お、何だよそれ。俺も聞いたことないな」
「え、いや、たいした話じゃないから」
「ヤダヤダ、教えて」
「おう、言えよ」
「ん……」
 渋々、宇納は話し始めた。
「ほんとにたいしたことじゃないんだよ。ただ、ドラムを叩きたい人が、いつでも叩ける
ような、ちゃんと整った設備がいつ来てもあるような、そんなスタジオができたらいい
なって。そういうのが無いんなら、自分で作ってみたもいいかなって思っただけで」
「すごいじゃん! ねえやろうよそれ」
「そんな簡単に言うなよ」
「今すぐなんて言ってないでしょ? いつか、もっと二人が売れて、お金持ちになったら
さ」
「おいおい、そんな売れっ子じゃ忙しくてスタジオ経営どころじゃないぞ」
「あ、そっか」
 笑っている内に、三人が住む町に到着した。こんな風に音楽や自分の夢について語る時
の、照れたような、恥ずかしがるような、それだけに偽りのないまっすぐな宇納が、望野
は大好きだった。

2に続く

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