第77回テーマ館「音楽」



ミスアンサンブル 2 夢水龍乃空 [2010/07/11 00:13:01]


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 同じ市内だったのも、望野が宇納と付き合い始めたきっかけの一つだった。とはいって
も駅にして二桁離れた場所は近いうちにも入らず、二人は狭い宇納の部屋で半同棲生活を
していた。
「じゃあな」
「ああ。ありがと」
「またねー」
 宇納と望野を降ろして、森重は自宅へ車を向かわせた。ちょっと寄り道になるが、そう
するのが習慣になっていた。
「お疲れ様でした」
 玄関前で望野が恭しく一礼するのも、ライヴ上がりの恒例行事だ。
「今日はちょっと疲れたかな」
「直前にバイト入れすぎるから」
「分かってるけど、デジドラの資金、早く作りたいから」
「なんだ、あの話かなり本気なんだ」
「まあね。やっぱり、叩かない日があるのはよくないから」
「ふうん」
 宇納の部屋なのだが、愛用のスティックと各種のチューニングキーを入れた袋を大事に
抱えた宇納の代わりに、望野がさっさと鍵を開ける。
「ただいまー」
 誰もいない部屋に元気よく挨拶して入っていく望野の後を、のんびりと宇納がついてい
く。二人で行動する時は、望野が先頭を切って宇納が追いかけるという形が普通だった。
「太鼓がなくなったら、ここも少しは広くなるかな?」
 レンタルのドラムセットを撫でながら、望野が言った。
「太鼓って言うなよ。ドラムってのは、ドラム缶と同じで、円筒って意味なんだ。だから
それはドラムを集めたものだから、ドラムセットって言うだろ。まあ、日本の太鼓も英語
ではドラムになっちゃうけどな」
 ドラムのこと、音楽のことになると、宇納はちょっとしたことですぐムキになる。そう
やってからかうのが、望野は趣味のようになってきていた。
「はいはい。でも場所取ってるのは確かよね」
「それはしょうがない。サイズも音の内だからね」
「電子ドラムって薄っぺらいじゃない? お店で見たことあるけど、だいぶ雰囲気違うよ
ね」
「ああ。でもきっと慣れるさ」
「うん。そうだね」
 ドラムセットを見詰めながら、いつになく望野が黙ってしまったので、宇納は不思議
がって声をかけた。
「どうかした?」
「うん」
 大人しい声で、何かをためらうような様子で、望野は答えた。
「何だよ?」
「うん。あのさ、なんか、最近変じゃない?」
「変って?」
「紀利矢のこと」
「俺が?」
「うん」
 宇納には、特に思い当たることがなかった。何が気に入らないのかと考えてみたが、何
も思いつかない。
「分からないけど」
 こんな時に強がったり苛立たないことが、宇納の人柄だ。
「大丈夫?」
「何が?」
「なんかね、最近のステージ、あんまり元気ないかな、とか思って」
「え、そんなことないと思うけど」
「そう?」
「ああ」
「今までと違わない?」
 やけにこだわる望野に、宇納は不安を覚え始めた。それまで望野がステージについて何
か言うことなど無かった。いつも楽しそうに聞いては、しばらくはしゃいでいるのが普通
だった。ライヴがハネた日にこんな落ち着いた話をしたことは一度も無い。
「叩き方は変わってきたかもしれない。この方が速い動きに対応しやすいっていうポジ
ション覚えたから」
「ううん。そういうんじゃないの。巧くなったよ。でも、なんか、後ろで叩いてる感じっ
ていうか、他のみんなより、一歩引いてるっていうか」
「そんなの、ドラムが前に出てどうすんだよ」
「違う。前はみんなと同じところで叩いてた。なんで? どうしちゃったの?」
「どうもしない」
「嘘。シゲにまであんな言い方して。あれじゃドラムはギターを目立たせるためのものっ
て言ってるようなもんじゃない。シゲはそんなこと思ってないよ?」
「分かってる」
「分かってない!」
「なにムキになってんだよ」
「キリちゃん、どうしちゃったのよ?」
 宇納には分からなかった。望野がなぜそんなことを言い出したのか、自分に何と言って
ほしいのか、さっぱり分からない。だからこう答えるしかなかった。
「ドラムっていうものが分かってきただけだよ」
 望野のすねたような顔が一瞬悲しそうに沈んだことに、宇納は気づかなかった。望野は
笑顔を作って、明るく言った。
「あ、でもね、デジドラの資金作りしてるって聞いて、アタシちょっと嬉しかったんだ
よ。やっぱりドラムが好きなんだなって」
「当たり前だろ」
 それからは、いつもの望野に戻ったように、とりとめもない世間話が続いた。きっと何
かの気まぐれだったんだと、宇納は思うことにした。この話はこれで終わった。宇納はそ
う思っていた。
 ある日。
 行き付けの楽器店を出て、珍しく街中を散歩していた宇納の目に、オシャレなカフェで
何やら楽しそうに笑っている望野の姿が見えた。
 高校を出てすぐ音楽活動に専念している宇納や森重と違い、望野はこれでも大学生だ。
意外と堅い学科だったのは知っているが、どんな学生生活を送っているのか、宇納は聞い
たことがなかった。暇さえあれば宇納の部屋に入り浸り、ライヴは必ず顔を出すから、大
学で話題にするようなことなど、試験の日程くらいしかなかったのだ。
 どんな友達と付き合っているのか確かめるチャンスだと思い、宇納はもう少し見えやす
い場所に移動した。
「え……」
 望野が笑ってしゃべっている相手は、宇納もよく知っている男だった。
 二人の仲がいいことは知っている。けれど、二人だけで会っていることは知らなかっ
た。そんな話を聞いたことは無い。どうして黙っていたのか。言うほどのことではないと
いうことか。今日はたまたま会って、時間があるからお茶でも、というシーンを目撃した
だけかもしれない。
 自分でも理解できないほど、宇納にはあの光景が焼き付いて離れなかった。なぜこんな
に気になるのか。とにかく、今日も彼女は部屋に来るだろう。その時に聞いてみればい
い。きっと何でもないことだと分かるはずだ。宇納はそう考えてバイト先へ向かった。
「ただいまー」
 夕方、望野はいつものように宇納の部屋へ来た。ただいまの言い方も、楽しそうな顔
も、靴を脱ぐ動作も、いつもと変わらないように見えた。だから宇納の方も、いつもと同
じように話し出すことができた。
「お帰り。今日はどうしてた?」
「え? なに珍しい」
 確かに、自分から望野のことを聞こうとしたことは、今まで無かったかもしれない。そ
んなことを思ったりしたが、何だろうという風に宇納の顔を覗き込む仕草に安心して、宇
納は昼間のことを聞いた。
「俊軌とカフェで会ってたろ? 何話してたのかと思って」
 一瞬、望野が返事に詰まったことが、宇納には分かった。人一倍テンポに厳しい打楽器
の人間として、自分と望野の会話のテンポは体に染み込んでいた。ほんのわずかな返事の
遅れが、宇納の胸を刺した。その返事もまた、宇納の予想しないものだった。
「知らないよ? もお、誰と間違えたの」
 やだなあ、と笑いながら、望野は台所で料理を始めた。材料の取り合わせが新しい。ま
た何か覚えてきたようだ。だが、そんなことより、なぜ隠すのか、何を隠しているのか、
そればかりが気になって、宇納はほとんどしゃべることもできず、夜になって望野は自分
の家に帰った。時々望野の顔を覗いてみたが、二人の視線が重なることは無かった。
 戸惑いを感じながらも、宇納はバイトと練習を地道に続け、あれから二日後にはライヴ
のステージもしっかりとこなし、その会場には望野のはしゃぐ姿もあった。
「今日も最高だったぜーぃ!」
 Vサインと共に楽屋に現れた望野は、やっぱりいつも通りだった。
「あれ、シゲちゃんは?」
 いつもなら何でもないはずの望野の言葉に、宇納の胸は奇妙に反応した。
「俺たちの前に演奏したグループのギターが知り合いだったとかで、話し込んでるよ。裏
口の方にいるはずだけど」
「そっか。これ持つよ」
「あ、ああ」
 片付け終えた荷物を持って、二人で車に向かった。望野に変わりは無いんだろう。宇納
の頭では冷静にそんな言葉を繰り返していた。反面、心の中はざわついていた。
「アタシ呼んでくる」
 車の前に荷物を置くと、望野は弾むような足取りでライヴハウスへ戻っていった。
 待っている間も、宇納の心は落ち着かなかった。いつもと違う。何かが違う。今日のラ
イヴに対して、宇納より森重を気にする理由が何かある。そう思うと、宇納は黙っていら
れなかった。望野を追って、楽屋口を入っていった。
 廊下の向こうで話し声がしていた。森重と望野の声だ。良く通る望野の声が、この距離
でも聞き取れない。声を落として話さなければいけない理由でもあるのか。宇納の不安が
膨らんだ。
「なあ」
 角を曲がりながらいきなり声をかけた。わざと不意を突いた。そういうテンポの取り方
は得意だった。
 振り返った望野の顔には、誰の目にも分かる驚きが見て取れた。マズいところを見られ
た。顔にそう書いてあった。何か言おうとして、すぐに目を逸らした森重の態度が、宇納
にとっては決定的だった。
 帰りの車の中は、信じられないほど静まり返っていた。
 二人で部屋に入っても、無言は続いた。気まずい空気に押されるように、口を開いたの
は望野の方だった。
「あのね、さっきのは、別に、あの」
「もういいよ」
「あ、いいって? じゃあ……」
「お前も結局同じなんだろ」
「え?」
 何を言われたのか分からないという風の望野に、宇納の怒りは爆発した。
「お前もギターなんだろ? やっぱカッコイイよな。そりゃそうだよ。じゃ最初から俊軌
でよかったじゃねえか。なんで俺なんか……。もう、勘弁してくれよ」
「あ、もしかして、アタシとシゲのこと疑ってるの?」
「疑う? さっき見たじゃねえかよ! こないだも、会ってることごまかしてよお!」
 望野の目に涙が滲んだ。震える声で、望野は言った。
「ごめんなさい。欺すつもりじゃなくて。ただ、傷つけないようにと思って。それで」
「ふざけんな」
「でも違うの。ちゃんと聞いて」
「もういいっつってんだよ!」
「お願い。そうじゃないの」
「うるせぇ!」
「おねがい……」
 すっかり泣いている望野に対して、宇納はただ怒りをぶつけることしかできなかった。
裏切られた悔しさと悲しみを、怒りとして放出することしか、できなかった。
「出てけ」
「え……」
 望野は、次の言葉を待つように、じっと宇納を見詰めていた。だが、何も言おうとしな
い宇納の態度に負けるようにして、静かに部屋を出て行った。二人が会ったのは、それが
最後だった。


3に続く

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