第77回テーマ館「音楽」



ミスアンサンブル 3 夢水龍乃空 [2010/07/11 00:12:24]


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 森重と気まずくなって以来、宇納がステージで叩く機会はほとんどなくなり、そのうち
音楽活動自体が自然消滅していた。
 それでもドラムを見ると叩きたくなり、リズムを刻むと気分が良くなった。だからすっ
かり社会人となった今でも、宇納のワンルームには電子ドラムが居座り、スティックを持
たない日は無いという生活が続いていた。
 音楽から離れた人生が考えられない宇納としては、音楽誌の編集社に就職したことは
まったく自然な流れだった。主に打楽器を扱うというマイナーなコーナーをもらい、地味
ながら根強いファンを持つことになったのも、当然と言えば当然のことだった。
 ある日、酒の席でふと漏らしたことがきっかけで、予想もしない方面から物件が紹介さ
れたのは、まだ二年ほど前のことだった。
 酔った勢いで昔の演奏活動については話すことになり、ドラマーが泣いて喜ぶようなス
タジオを作るのが夢だったと話した。相手もただ何気なく聞いていただけだったが、不動
産業をしている友人から何年も空いているボロマンションの一室が、かつて音楽スタジオ
だったために大規模なリフォームをしないと買い手がつかないという愚痴を聞き、それな
らばと宇納を紹介した。
 確かに、そこはボロかった。それでも友人からの紹介という経緯と、とにかく売れなく
て困っている事情から、信じられないほど格安な値段が提示された。まだ社会人として年
数の経っていない立場では、それでも決して安心できる金額ではなかったが、これも運命
と、宇納はテナントを申し出た。
 箱は手に入れたのだが、他に何をすればいいのか、正直よく分からなかった。ドラムの
ことなら死ぬほど勉強した宇納だが、他の楽器のことが意外なほどに分からない。恥を忍
んで職場の同僚に話を聞いたり、自社の雑誌のバックナンバーを読み漁り、情報を集める
だけ集めた。
 リストは何とか作ったのだが、思っていた通り機材の値段にため息が出た。何ヶ月もか
かって計算し続けた結果、レンタルで揃えた方が総合的にコストが低いと分かり、業者向
けのレンタル会社を探した。どうにかしてリストの中身を網羅する目途が立った時、そも
そもの目的を思い出した。
 半年我慢して、ボーナスのすべてをはたいてドラムセットを購入した。これだけは、レ
ンタルでは間に合わない。何もかも揃っていると言えるために何が必要なのか、宇納は誰
よりもよく知っていた。だいぶ足が出たものの、こうして必要な道具はすべて手に入れ
た。
 いざオープンという段になって、スタジオの名前も料金プランも、一切考えていないこ
とに気がついた。そこで、最小限度の場所で、最低限度の機材を提供し、どんな人でも
ちょっとした時間に利用できるスタジオというコンセプトから、ppp(ピアニシッシモ)と
いう名前を考えた。大げさなことを好まない、地味で物静かな宇納の性格が出ていた。ス
タジオの値段の高さに苦労した時代を思い出して、利益など度外視した料金設定にもし
た。無料でも良かったくらいだが、お金を払ってでも音楽をやりたい人に来てほしいとい
うささやかな思いがあった。
 噂が噂を呼び、スタジオpppは付近の若者に人気の場所となった。オープンからたった
一年で、常連が既に何組もいる。中にはメジャー間近とまで噂されるバンドまで現れてき
た。いつか自分のスタジオからプロが巣立っていく日が来るかと思うと、宇納の胸は高鳴
るのだった。
 そして最近、ドラムなら何でも揃うスタジオpppに、打楽器とはまったく縁の無いグ
ループが通うようになっていた。
 彼女たちの誰一人、横浜にゆかりのあるメンバーはない。しかし思い切ってみんなで遊
びに行った横浜の街で、『ハマガール』という言葉を耳にした。もちろん意味は分からな
い。でもなんだかとてもステキな言葉に思えて、妙に憧れてしまった。そこで付けた名前
が『HAMAブラス』。今は違う高校でも、小学校では一緒にブラスバンドをやっていた
仲間だ。それにメンバーの一人が高校で知り合った仲間も加えて、四人で活動している。
 始めは休日に学校の部室でこっそり集まっていたが、先生にバレて中止。困っていたと
ころへ、pppの噂が聞こえた。ボロくてびっくりしたが、音を出せる場所があることは嬉
しかったし、何よりお小遣いで十分通える距離と値段が良かった。毎週予約している常連
もいるそうだが、なかなか空きが無く、月に二回がせいぜいだったが、部活でもブラスを
やっているので、不満は無かった。
 HAMAブラスとしては、町内会の祭りや近所の大学の学園祭という舞台で演奏する活
動があった。女の子たちが元気よく鳴らす個性的な演奏は、地元でかなりの人気があっ
た。部屋で練習するとうるさいと怒鳴っていた親たちも、今や笑顔で応援する始末だ。
 今日も、秋のお月見会なる地元商店街のイベントで演奏を頼まれて、決めた曲目を練習
するためにpppへ向かっていた。
「ねーえ、やっぱこっちがいいかなあ」
 ファッション誌を片手に衣装選びに余念がないのが、トロンボーンの羽間菜穂(はまな
お)。羽間がスライドをいじるたびに、仲間たちは彼女の間延びした性格を思うのだっ
た。偶然とはいえ、羽間がバンド名を一番気に入っている。
「その前に練習よ。服だけ良くてもしょうがないでしょ」
「うーん、そうだけどー」
 先頭を歩きながら、振り返りもせずに羽間をたしなめるのは、リーダーの水柿凪沙(み
ずがきなぎさ)。トランペットという快活な楽器がよく似合う、底抜けに明るいムード
メーカーだ。羽間は水柿に誘われたから参加したようなものだった。
「演奏もそうだけど、演出も大事よねぇ。わたしたちも女なんだし」
 おっとりと独り言のように話すのは、いかにも清楚なお嬢様にしか見えない伊ヶ崎彩世
(いがさきあやよ)。その風貌とフルートの雅やかな演奏に欺される男性ファンは多いが、
普段の外しっぷりを知っている周囲の人間は、熱狂を冷めた目で見ている。
「うん。けど、やっぱりお客さんは演奏を聴きに来るわけだし、一応、バンドなわけだか
ら、音はちゃんとしてないと」
 物静かに正論を言うのは、目立つことがあまり好きではない割に、チューバという嫌で
も目立つ楽器を持つ奥戸果純(おくどかすみ)。純情を絵に描いたような性格がそのまま表
れた低音の響きには、派手好きな水柿でさえ時に聞き入ってしまうことがある。
「それよりスコアは? またギリギリとかヤだよ〜」
「ゴメン。来週にはできると思う」
「え〜〜」
「とりあえず一曲分持ってきたから」
「あ、なんだ」
 演目や段取りを決めるのはリーダーの仕事だ。主催者との打ち合わせはできるだけ全員
参加だが、しゃべるのは主に水柿である。けれども音楽面に関して、楽譜の制作や演奏の
指示などは、奥戸が担当している。たった四人、それも個性的な四つの楽器を組み合わせ
てジャズやマーチングバンドのレパートリーを演奏できるのも、奥戸のセンスあってこそ
だった。
 ところが真面目すぎる性格が災いして、楽譜作りがなかなか捗らない。前回の演奏会で
は当日の朝まで完成せず、リハーサルに苦労した。飲み込みのいい方ではない羽間は特に
大変な思いをしたので、次も心配していた。
「じゃ、今日はその楽譜の練習と、できるだけ他の曲のアンサンブルも見ときましょう」
「楽しみね」
 気分が良くなると、伊ヶ崎はケースのままのフルートをバトンのようにくるくる回す癖
がある。巧いからまだいいが、落としたらどうするのかと、周りはヒヤヒヤする。細かい
ことは考えず、やりたくなったらやるのが伊ヶ崎である。
「秋祭りって、意外と有名らしいよ」
 突然羽間がそんなことを言い出した。頭の中に浮かんだことはとりあえず口にしないと
落ち着かないのだ。
「え、お年寄りが輪になって踊ってるイメージしかないわ。お月見が目当てなんだし」
 伊ヶ崎が想像だけでもっともらしくものを言うのも、メンバーとしては慣れっこだ。
「なんかね、森とか川とかライトアップして、鈴虫とかホーリューするんだって」
「鈴虫を放流とは、残酷な祭りね」
「え?」
「溺れ死ぬわ」
「あれ、そう言わない?」
「言わない」
 水柿の冷静なツッコミも毎度のことである。
「とにかく、そういうのは最近始めたらしいんだけど、若い人にも人気なんだって」
「そう、なら今年はわたしたちも参加するわけだし、いつもよりお客さんが増えるわね」
「鈴虫とかいるなら、ブラスの音で逃げちゃうかも」
「どうかなあ。大丈夫じゃない?」
「そうかな」
 奥戸が本気で心配し始めたところで、水柿は話題を変えた。
「若い人も来るなら、彼も来るんじゃない?」
「彼って?」
「ほら、果純んとこの万行(まんぎょう)くん」
「え、どういう人?」
「果純、説明してやんなよ」
「そんな、仲いいわけでもないし……」
「何言ってんのよ、ほら」
「うーんと……」
 三人の視線を集めて、戸惑いながらも奥戸は答えた。
「あんまり目立たないんだけど、明るくて、頭良くて、みんなに頼りにされてる人、か
な」
「へえ、いい人そうね」
「果純と合いそうじゃない?」
「うんうん」
「もおっ、やめてよ」
 赤くなる奥戸を見ながら、水柿と羽間は軽く目配せした。
 水柿が奥戸に目線を戻すと、表情が沈んでいた。このところ、こんな顔を見せることが
増えていることが水柿は気になっていた。
「果純、どうかした?」
「ううん。なに?」
「別に、なんか嫌なことでも思い出したのかなって」
「そんなことないよ。平気」
「そっか」
 そんな様子も目に入らず何やら浮かれている伊ヶ崎と、水柿について行くばかりで水柿
が戸惑うとどうしていいか分からない羽間と、表情の冴えない奥戸、奥戸を心配する水
柿。一行は、pppに到着した。


4に続く

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