第77回テーマ館「音楽」
ミスアンサンブル 4 夢水龍乃空 [2010/07/11 00:11:54]
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その日の朝は、珍しく予約の無い暇な時間帯だった。それでも駆け込みの客への対応や
電話番のために、宇納はいつも通りスタジオの窓口に座っていた。
pppは一時間単位で貸し出している。ある物はすべて利用可能で、何人でも2000円
均一。当然ながら機材の購入資金を回収できる見込みなど無い、超低価格だ。会社が休み
の土日祝祭日限定。だから学生の利用客が大多数を占める。朝から元気な子どもたちが、
オープンの9時から既に予約を入れていることも珍しくない。この日のように午前中の予
約がまったく無いという日は、本当に珍しかった。
電話の音が聞こえるようにと、小さめにCDをかけていた宇納が、ついうとうとし始め
た11時過ぎ、窓口に来客があった。
「すみません、こちら、見学ってできますか?」
「あ、いいですよ。今は誰もいないんで、ご自由に」
「中入ってもいいですか?」
「ええ。別に、触ってっても構いませんよ」
「そうなんですか。じゃ、ちょっとお邪魔します」
「どうぞ」
20代後半だろうか。宇納よりは年下に見える、まだ若い感じの大人の女性だった。ど
うやら一人のようだ。涼しげなワンピースを着て、ミュージシャンっぽくは見えなかっ
た。手を見ても楽器をやっている風ではない。それに、どこかで見たような気もする。気
にはなったが、興味本位の見物客もたまにはいる。好意のバンドが通うスタジオを一度見
てみたいというファンもいたりする。特別に深く考えはしなかった。
女性はそのまま中へ入ったらしく、しばらく奥で物音がしていた。またうとうとしてい
たら、コンコンと音がして目が覚めた。
「あ、いらっしゃい」
「もう、なにサボってるんですか」
「ごめんごめん。HAMAブラスさんね」
「よろしく〜」
常連であれば、宇納が勝手に台帳を記入して通してしまう。それが分かっているから、
水柿が挨拶だけすると、みんな宇納に手を振ってさっさとスタジオへ向かった。
気になると言えば、宇納にはこのバンドのチュービストが気になっていた。大人しい子
だとは思っていたが、最近は妙に元気がないような気がしていた。利用客のプライヴェー
トには介入しない主義の宇納だが、どうもあの子だけは放っておけない気がした。なぜな
のかは分からなかったが。
突然、そのチューバの子がものすごい勢いで走り出て行った。すぐ後を、これも負けな
いくらいの勢いで、朝の女性が追って行った。あの人まだいたんだ、などと思ったりもし
たが、ただ事ではないと思い直して、スタジオに向かった。
ドアをノックして中を覗くと、見るからに戸惑っている三人の姿があった。
「何かあったの? チューバの子が飛び出して行ったけど」
三人は顔を見合わせて、水柿が答えた。
「よく分かりません。入ったら女の人がいて、バンドの話をしてたら今度の秋祭りの話に
なって」
「秋祭り?」
「今度演奏するんです」
「あぁ、そう」
「その話になったら、急にその人が果純に変なこと言い出して」
「変なこと?」
「何か思い詰めてることあるでしょ、とか」
「……」
それはいきなりだな、と宇納も思った。しかし、何か理由はあるはずだ。
「思い当たることは、ないの?」
「ありません」
宇納の目をしっかり見返して、水柿が答えた。
「そうか……」
「知ってる人ですか? なんだか、宇納さんのこと知ってるっぽかったですけど」
「え? いや、誰かな」
「そうですか」
フルートの子がおろおろするのに対し、他の二人は硬い表情で俯いている。
「その人は、他に何か言ってなかった?」
思い切って、宇納は切り込んでみた。あのチューバの子が放っておけない気持ちもあっ
たが、今の話であの女性に見覚えがあるという感覚がさらに強くなってきたこともあっ
た。
「別に……」
そう言うトランペットの子を、トロンボーンの子が不安げに見詰めていた。何かあると
思い、宇納は珍しく食い下がった。
「小さな事でもいいんだ。覚えてたら教えてほしい」
「別に、関係ないし」
「いや、まあ、そうなんだけど、うちの中で起きたトラブルだから、あんまり大げさなこ
とになると困るんだよ。うちの問題があるかもしれないしね」
「違うと思います」
「どうして、そう思う?」
トランペットの子が苛立っていることが宇納にも分かった。だからこそ、絶対に何か隠
していると思われた。宇納がさらに言いかけた時、フルートの子が思い出したように言っ
た。
「そういえば、わたしたちにも質問していました」
「どんな?」
ここで流れを作らなければと、宇納はすかさず聞いた。
「何かこの子に隠してない、って」
「それは、どういう意味だろうね」
「分かりません。でも、それを聞いた途端に果純ちゃんが飛び出しちゃって」
その質問が決定的だったということか。宇納は水柿にもう一度聞いてみた。
「本当に、心当たりは無いんだね?」
「……」
ふてくされたようにして答えない水柿に、宇納はそれ以上何も言わなかった。
結局、その日の練習はお預けになり、奥戸が置いていった楽譜をみんなで読み合わせ
て、音を出すこともなく解散となった。
暗い空気をまとってスタジオを出て行く三人の姿に、宇納は心が痛んだ。なぜか、とて
も嫌な感じがした。その日は夜まで予約が入っていたが、窓口の対応も上の空で、帰って
からは一睡もできないまま朝を迎えた。
耐えきれず、宇納は会社を休んで街へ出た。思い出すのは、つい最近スタジオの常連の
間で起きたトラブルだった。あわやバンド解散かという危機を乗り越え、全面解決の立役
者となったのは、どう見ても中高生にしか見えない自称警察官だった。交通部を名乗って
いたから、どこかにいるかもしれない。そんな期待を持って、宇納は歩き回った。
だが、広い街でたった一人の女性を捜し当てることなど、個人の努力でできるものでも
なく、昼を過ぎてもまだ見当さえつかずにいた。取り締まっているらしい婦警の姿は見か
けたが、声をかける勇気など無い。第一、相手の名前も覚えていなかった。背の低い子ど
ものような、と言えば通じる気もしたが、ちゃんと話せる自信が無かった。
当てもなく歩く内に、すっかり見慣れない路地へ入り込み、物騒な感じも漂ってきた。
早足で過ぎ去ろうとした宇納の目に、一枚の看板が飛び込んできた。探偵事務所とだけ書
かれて、それ以外は連絡先も道案内も無い看板だった。周りを見れば、ビルの窓にも同じ
く探偵事務所とだけ書いた場所がある。その部屋のようだ。もう頼れる場所も無いと思
い、宇納は決意してその部屋を訪ねた。
5に続く
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