第56回テーマ館「星」



お菊と播磨 GO [2005/01/21 03:09:47]


1
 青山左衛門は今宵も老いの身で障子を半分ほど開き、すでに戌の刻を過ぎても心の寂寥
は慰めきれず、身に沁みるままに盃を重ねては、はらはらと桜の花びらの散り落ちる模様
を眺めていた。
 早いもので、播磨が菊と自害してから三回忌を迎える。桜の花びらはこの世を彷徨うふ
たりの魂なのか、その仄かな明かりとも見える炎を模した桜吹雪が、小刻みに揺れ動き、
脈動するのを見て、左衛門は思わず息を呑み、盃を取り落としそうになった。

 菊が汚れた姿で青山家にやってきたのは十三歳のときである。あの日も桜の花びらが舞
っていた。
 その菊もすでに十九歳になり、このまま青山家で奉公を続けさすには脅威を覚えるほど
に美しすぎた。
 妻が死んでからは、左衛門は寂しさと侘しさの宿った目で、四季の推移を眺めては、唯
一の頼りである清き男盛りの播磨に早く家督を譲り、これまでの戦の日々から身を引い
て、あとは好きな俳諧にでも興じながら、四季の麗景を愛でて過ごそうと考えていた。

 その頃の菊は身の回りの世話をするようになっていたので、播磨と菊の仲を知っている
左衛門には口にしがたい懸念をに惑乱された。どこぞの家中から早く嫁を迎え、青山家の
礎を不動のものにしなければならぬという思いが常に頭から離れなかったのだ。
 何しろ関が原の役が終わった間もない時期で、池田輝政は徳川家康の命を受けて豊臣恩
顧の西国大名を食い止めるために姫路城の構えをいちだんと大きな規模にすべく構築中で
あったから、左衛門にとっては二十三歳になった一人息子の播磨に賭ける期待もまた並々
ならぬものがあったのである。

 関が原の役が終わったとはいえ、難攻不落の大阪城には故太閤の遺児、秀頼が厳然とし
て鎮座しており、諸国から主を失った浪人者が功名手柄を槍一本に託して大挙押し寄せて
いたので、いつ新たな合戦の火種に変わるとも知れぬ不安定な時勢であったからである。
 青山左衛門は池田家の上級武士で、その備えは常に怠りないつもりであったが、息子の
播磨のことになると、さすがに左衛門も寡黙で自尊心の強い、しかも癇癖のある激しい気
性に苦慮した。

 一日も早く菊を実家に帰さなければならぬと思いながらも、何分、十三歳の時から家族
同様に扱ってきただけに、どこか手放し難い魅惑的なところがあって、左衛門にとっては
もとより、当の播磨には耐え難い苦痛であろうことは、よういに察しがついていた。また
菊も愛しい播磨を残して貧しい実家に帰るなど死ぬほどの辛さがあったに相違ない。それ
ほどふたりは仲睦ましいものがあったから、これには左衛門も非情に苦悩した。

 菊は鼻筋の通った、細面の、肩の線のほっそりした優しい、いかにも情熱を内に秘めた
艶やかな娘で、その官能的な唇で微笑されると、左衛門までが目が眩むほどで、当の播磨
にとっては尚更のことであったろう。
 その播磨と菊に思わぬ悲劇が襲ったのは拝領の李朝十枚皿であった。この惨事に対して
播磨と菊は異常なまでの情愛にこだわり、想像を絶する意地を抱いて自害した。三回忌を
迎えた今でも左衛門は涙の源泉となる播磨と菊を煩悶として呼び起こすのである。

「播磨よ、菊よ」と左衛悶は春の宵の妄想を誘う桜の舞い散る宵の白さの凄まじさを眺め
ては、あのふたりの姿が冥界の境越えて脳裏を駆けめぐり、いつしかふたりの面影を見る
ようになった。
 舟島で佐々木小次郎を打ち倒して訪ねてきた宮本武蔵は愛弟子の播磨の自害に初めて涙
を浮かべ、『いずれの道にも、わかれをかなします』と自らに言い聞かせながらも、この
ときばかりは蓬髪の垢染みた顔を伏せて、絶えずはかなく散ってゆく桜の花びらを炯々と
見つめて立ち尽くした。その姿は見るからにわが子でも失ったかのような悲しみようであ
った。

 左衛悶は三回忌を迎えた今年も桜の花びらに呼びかけては、吹き込むニ、三片を盃で受
けようととしたが、盃をかすめるばかりで、月の光の中をとどまることなく降りそそぎ、
やがて記憶と忘却の間でたゆたう左衛悶の耳底に、あの庭隅にある古井戸から皿を数える
菊の澄んだ鈴のような声音が響いてきた。一枚、二枚、三枚、四枚……。

2
 播磨は十五歳まで宮本武蔵から剣の手ほどきを受けてきた使い手で、闘えば対手方に多
勢の傷を負わせるほどの腕前であったから、反抗しても五体が不随になるだけで、誰しも
近寄ることを拒むように道を避けた。むろん家中には叶う対手は一人もいなかった。
 この頃はそれぞれがみな独自の修行をしていて、剣ばかりでなく、槍、鉄砲、馬術と、
姫路城の周囲には絵巻物を広げたような雅な人馬の列が眺められた。

 播磨はこの華麗すぎる武者の陣立てに加わることを好まず、ひとり群れから離れて山中
にこもり、剣の真髄を、新たな剣の深さを、剣の持つ決定的な全存在を、五体に浸透させ
るべく剣の魅惑を魂におよぼしていたのである。
 この増位山の山中で、かって師宮本武蔵に鍛えられた激しくも闘争心に満ちた山林と滝
のある修行場で、水が石ころだらけの底を見せて流れる浅い川に手造りの朽ちた橋が架か
り、その橋を渡ると、播磨にとっては師宮本武蔵との一分の隙も許さぬ張り詰めた真剣の
聖域であった。

 播磨は肌着を脱ぐと、滝に身を浸し、師宮本武蔵の口伝の境地が四肢の血をに熟しきる
まで瞑目した。これは瞬時に技を繰り出す境地を学ぶ勢法を指し、「一拍子」「ニ乃越」
「流水」「紅葉」の奥義四本からなっていた。その境地に至るまで耐えてから、播磨は心
眼を開いて二刀を抜いた。

 やがて樹間を敵と見立てて、獣のように駆け抜けては樹皮を剥ぎ、六感で識別する感覚
を研ぎ澄ませて、頬をかすめる枝葉を払ってはあらゆる敵が消え失せるまで縦横無尽に千
変万化の剣を奮った。樹々は身じろぎもせずおのれの枝が切り落とされてゆくのを眺めて
いた。
 それは夕方まで続いた。やがて師宮本武蔵の幻影に滴る汗の身で一礼すると、やおら二
刀を収めて肌着を脱いだ。逞しい身体を滝に沈めて、高ぶる血の鎮まりを待った。

 深奥から神経と血管がふたたび収縮して寂然不動の肌から蒸気が立ち上ると、滝から出
て、肌着を身につけた。それから斜面に寝そべり、空に浮かぶ春の月を眺めはじめた。す
ぐ下に播州平野が見下ろされ、月に照らされた姫路城の白く優雅な本丸、二の丸、三の
丸、新しく増築された外曲輪の楼閣の甍の群れが雲母のように輝いて眺められた。

 播磨は修行のあとの朦朧とした意識に、清らな月を得て菊との交流をもたよすように甘
美な匂いを放つ幻影を生み出していた。
 あれは菊が十三歳の無邪気な少女であった頃、飾磨の浜辺で、「菊、わしはそなたを娶
るつもりだ」と語った言葉が寄せる小波のように胴で鳴っていた。

 その菊もすでに十九歳で、若葉の濃密な香りに変えたかのような魅惑で包んだ。貧しい
農家の娘である菊を娶るには幾多の困難を越えなければならなかったので、不意に木々の
弾けるような音を聞いたときには、一瞬かすかな運命の軋みでも聞くような漠とした胸騒
ぎを覚えた。貧しい村娘の菊を娶ることに大きな障害を伝える響きではあるまいか、と菊
の面影を長い間、春の月に重ね合わせて眺めては、もしも菊との仲を引き裂く兆候なら
ば、如何なる手立てを持って対すればよいか、取り巻く静寂の中で思いめぐらせていたの
である。

                   ж

 その男が現れたのは白普請の慌しい時期で、宝蔵院流鎌十文字槍の名人と誰もが認める
阿吽である。さの槍の冴えを池田輝政も噂では聞いていた。槍尖はみじんの狂いもなく、
的を射抜く疾業は無双と称され、この姫路の地に現れた姿を見た家臣たちは、その噂以上
の怪異に肝をつぶした。

 阿吽の言によると、諸国流浪中、宝蔵院に宮本武蔵という浪人が現れて、殷俊の鎌十文
字槍をすくい上げて投げ飛ばしたという。それを吐いた阿吽は急ぎ取って返し、京の洛中
洛外を隈なく探したが、このときすでに宮本武蔵は何処かへ去っていた。殷俊は宝蔵院の
院主であったが、宮本武蔵に敗れたことで阿吽より生唾を顔面に蒙った。そして闘志を猛
然とわきたたせて宝蔵院を出てゆく大きな背中をなす術もなく見送ったのだという。

 その宮本武蔵を求めて放浪しているということを京で聞きつけた池田輝政は、かって沢
庵和尚と親しかっただけに、暴れ者の宮本武蔵を天守閣に幽閉したという経過から、多少
の縁を感じて、姫路に誘った。阿吽の対手は常に手合わせできなかった宮本武蔵への恨み
骨髄だけで、西にいるらしいという噂を聞いた途端、異様な喘ぎを込めて嬌笑すると、池
田輝政の誘いに進んで乗り、はるばる姫路の地にやってきたという次第である。

2
 姫路城の三の丸は二万坪はあり、春たけなわで、今を盛りと満開の桜がはらはらと散っ
ていた。
 その丑寅の方角に長壁神社が祀られていて、主君が見物なさるときは決まって池田家の
家紋の染め抜かれた幔幕が張り巡らされた。奉納試合は大抵ひの場所で行われ、多くの剣
客が撃ち殺され、あるい不具者になったのもこの長壁神社の前での事で、宝蔵院の阿吽が
現れたことで、にわかに長壁神社の前は悲惨な予感から生じる恐怖の霊気が波となって立
ち昇った。

 誰もが尻込みする家中で青山播磨に殿からの直々のお声がかかったのは、しばらくの
間、宮本武蔵の愛弟子として十五歳まで剣の修行をさせていたので、池田輝政は播磨の剣
が宝蔵院流の鎌十文字槍を対手にして、どのように二天一流の秘技を揮うか、その蓄積し
た修練の成果に胸を膨らませていたのである。

 それを知らない家中では、日頃の色白の面に他人を冷笑するような播磨を家臣たちは薄
ら笑いで返し、険悪な空気の混じったざわめきは遠く城外まで鳴り響いた。
 青褪めたのは父親の青山左衛悶で、主君の命であれば止む終えないとはいえ、「殿もむ
ごいことをなさるものよ」と愕然と腰を落とした。播磨の命もこれまでかと観念したが、
それにしてもこの恐怖の眼差しをどこへ貼り付けておけばわいのか皆目わからなかった。
十五歳まで宮本武蔵を師に剣の修行してきたとはいえ、所詮は田舎剣法、あの高名な宝蔵
院流の阿吽の鎌十文字槍を前にしては、闘うまえから勝負は決まっているようなものであ
る。
 それだけに左衛悶の落胆ぶりはは周囲の見る目にも同情を禁じ得ないほど哀れな姿に映
った。

                   ж

 その朝、御前試合に向かう玄関口で草履を履いている播磨の背中に物陰から影のように
忍び寄った菊が播磨の手に握らせたのは男山八幡宮のお守りであった。
「播磨様、これを……」と息がかかるほど身を寄せて温かい手に包んで握らせた菊からの
お守りを見て、播磨は目を見張った。

「これは男山八幡宮のお守りとは、どうしたことだ?」と怪訝な表情で菊を見返した。
「はい、昨夜、男山へ上がってご祈願をお願い申し上げたお守りでございます」と菊は頬
を赤らめて秀麗な瞼をそっと伏せた。
「女子の身で、よう男山に上がれたな」と、その大胆さに、さすがの播磨も動顚させるに
足る驚きを示した。

「はい。髪を切って童子に扮したのでございます」
 髪を切ったとは女の身を断ったということではないか……。あれほど豊かで、なめらか
だった髪を愛しむように丸髷が崩れて、童女のように束ねた髪を哀れに見つめた。それで
も無垢の美しさは天女のように少しも損なわれてはいなかった。

 仔細を知って播磨は言葉に詰まり、武運長久のお守りをぐっと握り締めた。そして宝蔵
院流の阿吽の鎌十文字槍に勝つ予兆のような感触を襟深くに仕舞ったのである。
「相わかった。菊の気持ちを決しておろそかには致さぬ」と菊の愛情が生み出した切実な
願いに触れて播磨の闘志はいっそう激しく燃え立たせた。「必ず勝って戻る。安心致せ」
と薄く笑って手を強く握った。

 菊はこれまで重くのしかかっていた宝蔵院の鎌十文字槍の名人と称される阿吽に恐れを
なして眠れぬ幾夜を過ごしてきた心が不意に軽くなり、濃密な香りが唇に微笑となって浮
き上がった。男山八幡宮のお守りを手渡したことで、朝の春の日を浴びた菊の瞬きのな
い、夢幻に長い熱情が、微動だもせずに播磨を魅了した。
 この試合が終われば己の愛情をはっきりと示そうと播磨は自らに誓って菊の手を引き寄
せた。菊は逆らわずに播磨の胸に身を寄せて、その白い貞潔の手をまわしたのである。

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