第56回テーマ館「星」



お菊と播磨2 GO [2005/01/23 00:40:12]


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 池田輝政が重臣を引き連れて池田家の揚羽蝶紋の家紋をうしろに着座すると、途端に天
守閣の威圧感を伴う長壁神社の前は異様な冷気を浴びたかのように重い空気が絡みつい
て、息を吸い込むのも難しかった。

 阿吽が幔幕から出てきて、根来塗の朱漆の鎌十文字槍を大きく振り回すと、そこに無数
の死者の影が桜の花びらを散しているかのように唸る槍穂先が天空を光できらめかせた。
 まさしく天下無双の宝蔵院流の鎌十文字槍であると池田家の家臣たちは阿吽を肝を冷や
しては恐怖を隠そうともせずに生唾を飲み込んで見入った。

 阿吽の眼光はまばたきもなく、池田輝政に一礼するでもなしに、どっかと床机の上に腰
を下ろし、焦燥感を剥き出しにして池田輝政の重臣たちを炬眼でねめつけると、恐ろしい
までの悪鬼に満ちた面だましいに重臣たちは一様に震え上がった。

 阿吽は諸国流浪中、ことごとく鎌十文字槍の餌食になった剣客たちを睥睨して、「われ
こそは鬼神の生まれ変わりなり」と無敵を誇る鎌十文字槍を魔気を発するように地に立て
て、呵々と高笑いして自らをひけらかしたことは京、大坂はおろか、遠く江戸まできこえ
たほどである。

「天下無双の阿吽に勝負を挑むとは池田公も家臣を粗末になさることよ」と池田輝政に向
かって聞こえよがしに不遜な言葉を吐きかけたのは宮本武蔵が愁眉の急であったからであ
る。
 こんな田舎の青侍にかまっている暇はなく、九州を経巡っている宮本武蔵が気掛かり
で、早々に馬関を渡り、九州に足を伸ばしたかったのは、佐々木小次郎という剣客との試
合を耳にしたからで、つい愚痴となって出たまでであった。

 阿吽の猛気と執念はすでに九州の博多に向いていた。ただ世話になった手前、一応、池
田輝政に宝蔵院流の鎌十文字槍を見せて顔だけは立てておきたかったまでである。
 一方、指名された青山播磨は襷をかけ、額に鉢巻をして厳かに現れた姿には品格があっ
た。その鉢巻の内側には菊が男山八幡宮から祈祷してもらった武運長久のお守りが挟まれ
ていた。

 播磨の脳裏で菊の独語があった。「播磨様、必ず勝って、この菊を嫁にしてくださりま
せ」
 播磨は独り、「わかっている!」と言うなり、腰の大小を抜き放った。
 どちらも真剣での勝負であることは、すでに家中に知れ渡っていたので、多くの剣客が
鎌十文字槍の餌食にされた噂はこの姫路の地にも地鳴りのように伝わっていたから、家臣
にとっては、「お家の一大事じゃ!」と言いながらも、進んで金一貫目を阿吽に賭けても
いいとまで言い張った。

「おお、二天一流ではないか? さては宮本武蔵の流派か。これも何かの因縁じゃ。宮本
武蔵と勝負する前に、うぬから宝蔵院流の鎌十文字槍にて血祭りに上げてくれようぞ!」
 池田輝政は腕組みをし、阿吽の宝蔵院流の鎌十文字槍と宮本武蔵直伝の播磨の二天一流
とを交互に御蔵へては、この大いなる真剣勝負に身を乗り出して血を増幅させて見入っ
た。

 鎌十文字槍と二天一流の双方は汗ばむほどの春の日の真っ只中で対峙した。阿吽は笑み
を漂わせ、二刀を中段に構えて合掌の姿勢をとっている播磨に向かって、喉の奥底から奔
流のような凄まじい雄叫びが大口から発せられた。鎌十文字槍が次々に繰り出されて空を
走ったが、播磨はことごとく火花を散して弾き返していた。

 これはただならぬ剣であることを知った阿吽は奇妙なためらいに心の動揺抑えつけてか
ら、すっと鎌十文字槍を引き、後退した。槍先の圏内に誘い入れて一突きにかへく気を見
計らって満を持して待つ戦法に出たのである。睨み合い続き、傾いた日の影が長く伸びて
も、見つめる家臣たちは誰ひとり咳く者はなく、息を奪うばかりの張り詰めた静寂の気が
おそろしいまでに辺りを支配しているだけであった。

 やがてその鎌十文字槍の圏内に播磨の影が足を入れ、身を低くして構えた刹那、雄叫び
を上げて鎌十文字槍が播磨めがけて唸った。影が長く伸びただけで、まだ鎌十文字槍の圏
内には播磨はいなかった。その槍先を播磨は小刀で払うと、鎌十文字槍は虚しく地を突き
刺していた。

「しまった!」と阿吽は叫んで鎌十文字槍を地から引き抜き、身動きの不自由な長い釜十
文字槍を辛うじて回転させたとき、播磨は踵を折って地を転がり、鎌十文字槍の柄を大刀
で両断すると、肌が触れ合わんばかりに肉薄し、小刀で阿吽の腹を刺して動きを止め、さ
らに大きく跳躍して、大上段から阿吽の脳天めがけて斬り下ろした。刃は眉間に深く食い
込んで真っ二つに分れ、血しぶきを渦巻きまように虚空に撒き散らしながら、それでも阿
吽は割れた石の人頭柱と化したように動かずにいた。が、やがて巨魁がゆっくりと緩慢に
傾いて、どっと砂煙の中に仰向けに倒れると、みるみる地面に大量の血溜まりをつくった
のである。

「見事!」と池田輝政が立ち上がって叫び、見つめていた見物の家臣たちは一様に詰めて
いた泥のような重い息を吐いた。
 播磨は主君から声をかけられて我に返り、輝政を見た。その播磨は阿修羅の形相を崩さ
ずに朱に染まっていたが、それを承知で輝政は血糊の播磨の手を握った。家臣はその光景
を驚愕の面持ちで眺め、身体中の水滴を蒸発させたように立つことも侭ならぬほど震えて
は、いまだに幻影を見ているような魂の抜け落ちた目に鎌十文字槍の阿吽と播磨の二天一
流が残像となって生きていた。

「そちの功績は末代まで伝えるであろう。さて、わが池田家には李朝の十枚皿がある。家
宝じゃ。その家宝をそちに進ぜよう。末代まで青山家の家宝とせよ。よいか」
 小姓が紫の服紗に覆われた三方をもって現れた。その池田家の家紋の入った服紗を輝政
が取ると、細長い桐箱の蓋を引き上げた。そこには青味を帯びた見事な大皿が幾重にも区
分けされて重なっていた。

「これは先の朝鮮の役の折に持ち帰った珍奇な皿じゃ。李朝を繁栄させたという目出度い
十枚皿での、この十枚で一組になっておるという。そちのような剣の使い手なら、池田家
も世も家中も万々歳である。よいか、縁起のよい皿ゆえ、決して割ってはならぬ。一枚も
失うてはならぬぞ。よき家中の誇りとして末代までの誉れとせよ」

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 天下無双の宝蔵院流鎌十文字槍の阿吽を倒したことで、家中の者はむろん、近隣の大名
諸家からも嫁の申し出が殺到した。戦国の世だけに剣の手練れを必要としていたので、使
い番は連日のように青山家の門前に押し寄せてきた。
 また日ごろ疎遠な池田家の家臣たちまでが媚態を寄せて近づき、青山家は度肝を抜かれ
るほどの大騒ぎに一変した。家臣たちは李朝十枚皿に胸を締め付けられるような狼狽した
目つきで神秘の青を帯びた大皿に釘付けになった。その李朝十枚皿を見せては喜ぶ左衛門
をよそに播磨の表情は冴えなかった。

 それを具体的な形で示してきたのは他家の嫁を娶ることを嫌った池田輝政からの申し出
であった。その申し出というのは宍粟郡山崎宿の館に池田家の遠縁にあたる器量のよい十
八歳の月姫がいて、その姫と婚儀を結んで欲しいとの言上であった。播磨は暴君めいた池
田輝政のたくらみに愕然となった。菊の姿が脳裏に浮かび上がり、体内を駆け巡って、池
田輝政に憤然と言葉を失った。

 その日以来、播磨にとっても菊にとっても悲嘆で暗鬱な日々のはじまりとなった。菊は
播磨に近寄ることもままならぬままに何もする気が起こらず、じっと台所の陰に身をひそ
めて固くした。その月姫という女性への恐ろしいほどの嫉妬と播磨への疑いを抱きなが
ら、女の本性の推積する澱が次第に増幅されていった。

                   ж

 その夜、襖の向うで着物の裾を引きずるひさやかな音をとかすかな呼ぶ声を聞いた。そ
れが菊であることは播磨にはわかったが、菊自らが訪ねてくるなど初めてのことで、返事
をする前に瞼をきつく閉ざし、返事を返してよいものかどうか内面の責め苦に苛まれて、
じっと夜具の中で耳を押さえていた。

「播磨様……」
 月姫様との婚儀を進められた主君に対して苦悩に押しひしがれていた播磨は暗鬱な想念
の中でたゆたっていた泥のように息を吐き出すと、憤然として、こんな夜更けに忍びを弄
する菊に思わず夜具を蹴った。棟に勃然と憤りが湧き上がってきたのである。

「菊か? わが許に忍んでくるとは如何なる料簡か? 女子の身で慎みなきこととは思わぬ
か?」と大仰に声を荒げた。
「お話がございます」どうやら菊は感情を抑えることができずに朦朧と忍んできた無意識
の行動にも気づいていない様子であった。

 播磨は襖を少しだけ開けて覗くと、菊の顔は蒼白で、これが菊かと疑いたくなるほどや
つれているのに驚き、容易に判別するまで薄闇の中で時を要した。
「ぜひ播磨様のお部屋に入れてくださりませ」と菊は切迫した表情で底に沈んだ澱が浮き
上がるのと同じ血色が顔に現れた。

「それはならん」と菊の憐憫が大仰で嫌らしい感情に映って播磨には不快であった。
「ぜひお願い致します」と涙声で言って襖に手をかけたので、熱に浮かされた頬のこけ
た、目の落ち窪んだ菊の表情に、ある苦しみが浮かんでいるのを見ながら、それでも播磨
は菊の吐露する感情には応じず、襖が開かないように発散する甘く麻痺させて漂う菊の刺
激的な匂いを渾身の力で防いだ。

「部屋に入ってはならんと言っているではないか」と播磨は情容赦もなしに叱責し、「菊
を入れれば不義になることは、そちもよく存じているであろう」と深い渇望を胸に、あえ
て残酷な言葉を発し、群がり寄る菊への誘惑を振り払った。
「では播磨様にお聞き致します」と悲痛な予感から生じる不安が、菊の目をかすめたあ
と、身体の力が抜け落ちたように膝から崩れて廊下に身を沈めた。「播磨様は月姫様とご
婚儀なさるのでございますか?」

 播磨は遠い日、あれは十五歳の穏かな春の日で、菊を馬に乗せて飾磨の浜まで釣りに誘
った日の面影が残照のように心をよぎった。「菊よ、わしはそなたを娶るつもりだ」と言
ったときの満ち足りた記憶が播磨の心をさまよわせた。それは一時も忘れることなく今も
心にともっていて、あの愛らしい菊の幻影が新たな幻影となって清らな愛情を息づかせ
た。

 それは播磨の偽りなき本心であり、いまさら菊に約束を違える気もないことを言う必要
も、再度言い聞かす必要も感じなかった。それまでは清き心と身体でいようと固く決心し
た播磨は菊も暗黙のうちにその証を守って心をゆだねてくれていることを疑う余地のない
愛情として信じていたのである。

 それでも廊下にじっと蹲ったままの悩み苦しむ嘆きの息遣いは襖を隔てた播磨の耳にも
聞こえた。菊の絶望的な心情が播磨の心に伝わっていながらも、それを播磨はあえて菊に
いたわりの言葉を添えなかったのは、月姫様との婚儀に苦悩していたときであり、その苦
悩の中へ不意に忍びを弄して近づいてきた菊への反感が怒りとなって渦巻いたのである。

「貞淑な女子ならば夜更けに忍びを弄するなど、まるで女郎のようではないか?」と播磨
は女郎という意味もわからず、いまだ解決の見込みのない月姫様との葛藤を投影するかの
ように、無謀なまでに悪意のこもった理不尽な言葉を浴びせかけた。
 菊は播磨の棘のある言葉が肌に絡みついて泡立ち、息をすることさえ難しかった。とて
も播磨様のお言葉とは思われず、まるで人がお変わりになったかのようにその態度に不信
感を呼び起こした。

 それは遠い日と重なって、いかにも言い訳めいたように聞こえたので、菊は疑惑の情と
混ざり合った歪んだ懊悩が深く根を下ろした。
「播磨様を失うては菊は生きてはいけませぬ。どうか月姫様をお断りくださりませ」と唇
を引き攣らせて消え入るように言った途端、槌で打つように響いていた胸の鼓動が不意に
硬直した。自分の口から出た言葉に血を凍らせてしまったのである。

「月姫様は池田家の遠縁にあたるお方だ。菊のように貧しい農家の娘と違うて、女郎のよ
うにやすやすとお断りできるものか!」
 女子の身で忍んできた自分が女郎という身を売る女たちを連想させて、菊は激しい播磨
のくつ侮辱めいた言葉に打撃を受けた。不意に播磨に対して虐げられ、辱められた残酷な
言葉に、播磨様はこの菊を見捨てなされようとしているように聞こえた。

「これまで何度、夜更けにこの部屋の前に忍んできたのか!」と播磨はさらに異常なほど
の声音を強めて訊いた。
「これが初めてでこざいます」と心が引き裂かれる思いで顔を袂で覆い、苛む内面の暗鬱
な亀裂にたゆたいながら、毒よりも苦い屈辱の涙を流した。

「まことにそうか? 貞淑な女子ならば、このような真似などせぬものぞ」と容赦せぬま
まに怒りを何倍にも膨れ上がらせて播磨はさらに声を荒げた。
「菊が悪うございました。お許しくださいませ」と菊は疲弊して、それまで涙を流してい
た声が発作的な激しい嗚咽へと駆り立てた。

「女郎とは如何なる女子かは知らぬが、おそらくこのようにこのように夜中に忍びを弄す
る女子のことを言うのであろう」と播磨は喉が鳴るような息とともに残忍なまでに皮肉を
込めて決めつけたとき、思いがけぬ魂を震撼させる侮辱の言葉を口にした自分に、おそろ
しい悲しみが、慰めようのない菊への想いとなって播磨の心に重くのしかかってた。

 おれは本当に菊に言っていたのだろうか? それとも月姫様に対してではなかったのか?
それはいかなる言葉を尽くしても説明できない錯乱した心境であった。涙だけが癒えぬ傷
痕のように筋肉をひきつらせた顔面を滑り落ちてゆくばかりで、突然、降って湧いた信じ
難い出来事に出来事に惑乱させられた播磨は、襖を隔てて、これまでの日々を途方に暮れ
て思い出すしかなかった。

 それでも菊は播磨様は本当に菊を娶ってくださるのだろうか? それとも月姫様を? 長
い時間、じっと項垂れたままで菊は臆面もなく交わされた卑しい屈辱的な播磨の言葉に発
狂寸前まで駆り立てた。何度も自問自答したが、十三歳の浜辺での約束は、いまとなって
は単調な甘い潮風のように頭上を通過してゆくはかりで、月姫様との婚儀の話が持ち上が
ってからは、一種呆然とした心地になり、すべてが疑わしく、よそよそしい印象で、自分
には貧しいあばら家のほかは何一つ残っていない抜け殻の身を嘆いた。

 この菊は月姫様と違って播磨様にとっては女郎なのか? その言葉が否応なく立ち戻っ
てくる。感覚の研ぎ澄まされた思いの中で次第に募ってくる得体の知れない呪いのような
ものが浮き上がってきて、やがて盲目的な本能が雷明のように閃いて身を貫いた。

 それはご拝領の李朝十枚皿で、そのお皿こそ播磨様と月姫様を迎える証なのだと思えた
とき、凄まじい熱気が皮膚を蒸発させてしまったかのように身を焦がした。あのお皿の一
枚を割れば播磨様のお心が変わるのだ、と常ならぬ激しくも官能的な甘美な鼓動に菊は揺
れ動いた。たとえこの世で結ばれなくても、あの世で結ばれたいと願う憧れの気持ちが血
の衝動となって向けられていた。

 菊は癒し難い恨みの生霊となって、ようやく身を起こすと、ゆるゆると立ち上がり、廊
下を這う絹擦れの音が響かせた。そりれを播磨は襖の内側で聞いた。その音が遠去かって
ゆくと、呼吸を熱くして湧き出欲望の血を噴き上げながら、脈打つ錯乱状態の高ぶりを抑
えきれずに菊の姿を思い描いては憑き物に憑かれたように強く夜具を抱き締めた。なぜ菊
を部屋に引き入れなかったのか、と己の無力さを責めるようにふたりを隔ててしまった溝
をいまさらのように感じながら、愛しい菊の幻に悲愴なまでの獣的な欲望にひたりそうに
なる己をかろうじて思いととまった。

ーつづく戻る