第56回テーマ館「星」



お菊と播磨3 GO [2005/01/23 23:47:54]


6
 台所はしんとし静まり返った暗闇の中を菊は導かれるままに目指す戸棚に向かって歩
き、その戸棚の中に大切に仕舞われている李朝十枚皿の入った場所の戸をゆるゆると開け
た。その李朝十枚皿の入った桐箱を持ち上げると、触れ合う皿の音が耐え難いまでの得も
いえぬ魅惑の音に聴こえて、思わず抱き上げると、途端に優越感とも思える胸のときめき
で、菊はまさしく播磨への思いが熱く心に浮かび上がり、新たな月姫様への激しい嫉妬の
感情を生み出していた。

 そっと桐箱を板の間に下ろして蓋を引き上げると、暗闇の中でも整然と区画されて重な
った十枚の皿が耐え難いほどの青光を放って菊の魂に及ぼした。ああ、播磨様! と陶酔
に心を弾ませ、身を火照らせて、息を喘がせた。

 しばらく李朝十枚皿を残酷な感動の目で見とれていたが、やがて皿の一枚一枚を脇に積
み上げると、最後の十枚目を取り出し、この皿さえなければ播磨様は月姫様と婚儀なさる
ことはないのだ、と嫌悪の情の入り混じった一種苦い歓びを持って、頭の上まで皿を持ち
上げて瞼を閉じた。あの十三歳の忘れがたい浜辺での情景が絶えず走馬灯のように想い浮
かんだ。潮風の吹き寄せる海に向かって播磨様はおっしゃった。「菊よ、わしはそなたを
娶るつもりだ」

「わたくしも播磨様の妻になりとうございます」と浜辺での播磨の言葉に答えて、幻想の
中に身を浸していた菊はふたたび飾磨の浜辺を呼び覚ましては、燃えるような情熱と狂う
ばかりの思いを込めて、喉の奥悔恨の笑みを迸らせた。青山家の嫁になることが誇らし
く、自分の幸福のすべてがそこにあると信じてきたのだ。この幻想は今や嘆きと悔恨に変
わり果てて、ひとつの決心が菊を突き動かし、我が身を砕くように激しい愛憎を沸き立た
せて、板の間に十枚目の皿を打ちつけた。

 飛び散った衝撃で瑞々しい皿が飛沫のようにひろがり、板の間には破片がきらめいて、
もう皿に浮かんだ日輪も月輪もなく、わずかに彩る星だけがきらきらと光を放っているの
を魔に憑かれたような笑みで眺めた。
 その散らばった破片を長く見つめていた菊は、やがて自然に湧き出た歪んだ唇の端をつ
り上げて喉の奥から笑い声が生まれ、その光景に耽溺して、皿の破片を片付ける間も、何
度も喉の奥から嘲弄の声が湧き起こった。

 これが菊には、どんな雄弁な説得力よりも大きな効果を生む驚きと窮地に立たされた播
磨様の姿はないと思われた。播磨様と月姫様との婚儀が砕かれた無数の破片なのだと叫び
たいほど、何とも表しようのない歓びをもたらして、破片の光と影を集めては歓喜の渦の
中にひきこまれた。

 ご拝領の李朝十枚皿の一枚を割ったことで、これまで苦しんできた思いが一気に開放さ
れて、幻影の崩れ去った十三歳の飾磨の青い海が淡い冥土の景色のように脳裏を満たし
た。

 罪の意識は微塵も湧かず、これで青山家の女子として死ぬことができるのだという強烈
な魅惑を呼び起こした。親兄弟が流行病で死んでからは、もう死などは少しも怖くはなか
った。
 そう自分にに言い聞かせた途端、張り裂けるばかりの心が不意に和らぎ、集め終わった
皿の破片を布で包むと、皿の破片の微妙な音が菊の魂の奥深くに月姫様の嘆きの声となっ
て響いてくるかのようであった。それが菊には月姫様を排撃した歓びのように聴こえて、
無性に自分が誇らしかった。

7
 翌朝、早々に朝餉をすませた播磨は久し振りに厩に行き、手入れの行き届いた朝日に燃
える艶やかな赤毛の馬を引き出して、その背に跨った。馬は馴れた乗り手と知ってか前脚
を高く掻いては、喜びをあらわに嘶いた。驚いたのは家人や小者たちで、「後を追いまし
ょうや?」と叫ぶと、播磨は、「無用!」と一声返しただけで鞭を空になびかせた。左衛門
も慌てて庭に飛び出して遥かな地平を眺めたが、播磨の姿も馬蹄の轟きも聞こえず、意識
が遠退いたように陽炎一面に漂っているだけであった。

 播磨は馴染んだ飾磨の浜辺まで駆けながら、周囲の眺めをたどっては、菊との約束が自
然に湧いてくるままに、あの過ぎ去った十五歳のときの菊を馬に乗せて走った情景がめま
ぐるしく脳裏に浮かぶままに馬を走らせた。春の陽光に眩んだ目も少しづつ景色に溶け込
み、やがて潮風を浴びた精神の均衡を取り戻すにつれて、こんなにも生き生きと、こんな
にも執拗に菊を想い抱く抑制のきかぬ胸の血を強く波打たせては、あの十五歳の素朴な情
愛を誘う鼓動に合わせて身を春日に輝かせながら馬を疾駆させた。

 思えば昨夜の部屋に忍び寄った菊の顔がなぜか今朝は従順すぎるほど晴れやかで、いつ
もの苦悶に満ちた責めるような目つきはなく、かすかに浮かんだ唇は思いがけず笑みを含
み、ちらと播磨を見やる視線には苛烈な輝きがきらめいていた。解せぬままに菊のどこか
謎めいた微笑を探ったが、朝の光に溶け込んだ澄んだ笑顔は昨夜の菊とは見違えるほど清
らに変貌していて、やはり菊はこの播磨の真意がわかり、これからは侍の妻となるべく行
いを改め、妻の鑑となるよう自己を向上させようとしているのかも知れぬ。……

 それでも播磨は漠とした不安を募らせては馬を責め立て、菊がそうであることを望みな
がら、ひたすら飾磨の浜辺を目指して錯乱の叫びのように鞭を打ち続けた。
 地平がおもむろに開けてきて、汗ばんだ馬を止めると、飾磨の穏かな青い海がひろが
り、何処からともなく波頭が現れたり消えたりしながら、播磨の内面に池田輝政の言上が
絶え間ない白波のように脅かした。

 この数日間、ひとり部屋に閉じこもって苦悩してきたのは月姫様との婚儀であった。池
田家の遠縁に当たるとはいえ、主君のたっての命であらば、青山家にとっては名誉であ
り、家臣の誉れでもある。これを断れば主君対して謀反にも等しい不忠の徒にならざるを
得まい。それは当然のことながら青山家の断絶を意味した。あの宝蔵院流の鎌十文字槍の
阿吽を倒したことで、このような運命の皮肉な残酷さが待ち受けていようとはよもや思い
も寄らなかったから、播磨の精神は消耗し、神経は弛緩して腹立たしいまでに焦燥感を募
らせていたのである。

 播磨は馬から下り、松並木の一本に馬を繋いで、老人たちが網を繕っていた手を休めて
播磨を見つめる白砂の波打ち際まで歩いた。寄せる瀬戸内の小波は春日の渚を静かに洗っ
ていた。

 播磨は澄んだ水に身を浸して進むと、最初の波が押し寄せてきた刹那、他の如何なる感
情をも心の中から消し去ってしまう猛々しい敵意を抱きながら、池田輝政に向かって切迫
した腰の大小を抜き放っていた。「喝、拙、応」と勢法二刀合口の掛け声を放ち、二刀無
構から打太刀を一閃させ、途切れなく二乃越で斬り下ろし、切磋打留で構えを解いた。こ
の二天一流を五体のあらゆる層に浸透させると、激しい息遣いを吐いて宮本武蔵直伝の型
の二刀を収めた。

 途端、またも己を撹乱させる意識の曇りが、孤立無援の播磨に鈍く襲いかかってきた。
 池田輝政公から賜る月姫様を断れば主君への忠義はむろん、先祖伝来の恩義を仇で返す
ようになる。だが、際限なく募ってくる菊への想いは止めようがなく、不意に心の奥底か
ら、「菊!」と高い、だが、声にならない叫びが迸り出た。「そちを失うわけにはいか
ぬ!」

 今こそ月姫様と顔を合わす前に菊を連れて師宮本武蔵のあとを追って出奔したいという
願望があった。
 網を繕っう老人は近づいた播磨の影を見て四肢をこわばらせ、怖じ気づいたように後ろ
にいざった。
「今頃は何が取れるのでござろうか?」

 老人はしばらく播磨を見上げて、やがて物腰も視線もそのすべてが優しく穏かであった
から、老人は潮光する皺を緩めて安堵したように青い海の果てに目を細めた。
「ま、瀬戸内ですよってに何でも取れますわい」
「ほう、何でもか? で今頃はどんな魚な?」
「まず桜鯛、鰊、鰆、鮊子、魚島、子持ち鯊、細魚、公魚、飯蛸、花烏賊……等でしょう
かの。数えたら限がありませんでの」と穏かな表情を見せて、世情とは無縁の長閑な極致
ともいうべき飾磨の浜辺の白砂の中で、節くれた手で繕う網から手を離して、播磨を見上
げては歯のない口で屈託なく笑った。

「うん、それで、いま一番旨い魚は何であろうな」と播磨はわずかに顔を赤らめて、曖昧
な微笑を浮かべて訊ねた。
「さあ、人それぞれでですよってに、好みがありますでのう」と柔らかな潮風に揺れる網
のはためいに合わせるように柔らかな潮風が播磨を包んだ。
「なるほど、好みか。如何にもその通りだ」

 馬のたずなを解いて、背に跨ってからも、老人の言葉がまとわりついて離れなかった。
老人の言葉は真実を衝いていた。播磨は心底から喜悦を溢れさせて、池田輝政への離反の
思いを生じさせ、やがて一つの漠然とした渇望に心を衝き動かされた。忠義という侍の道
も望みも捨て去ればさぞこの身も軽かろう。師の宮本武蔵も主を持たずに剣の道を歩んで
いる。

 急に楔が取れたように播磨は一種特有の興奮状態に陥って嘲笑を浮かべた。
「菊を連れて姫路の地を出奔しょう」
 それは池田輝政公に対する皮肉と嘲りであり、宝蔵院流の鎌十文字槍を破って拝領した
李朝十枚皿への残酷な嘲笑が、猛々しいまでに悪意となって心の底から出し抜けに笑いを
生じさせたのである。

ーつづく戻る