第56回テーマ館「星」



お菊と播磨4 GO [2005/01/24 09:08:14]


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「これほどの良縁はまたとあろうか」と左衛門は締め切った襖の外から大声で呼び立て
た。その声を播磨は頭だけ回して、じろりと見返したが、父親は無論のこと、まして主君
からの言上とあらば月姫様を断るわけにもいかず、ただ息が詰まって言い返す言葉も見つ
からなかった。

 日々催促されればそれるほどに菊の姿が浮かび、叫ぶ気力も叶わず、「菊……」と名を
呼ぶほどに、五体の生気はしずめがたく、菊の面影に睡魔も寄り付かなかった。
 次席家老が訪れてきて、勝手に日取りを決めて帰ったあと、青山左衛門は突然の僥倖に
われを忘れて喜悦を満面に浮かべて着々と婚儀の準備に追われながら、いつもより酒を過
ごしてから、部屋にとじこもった播磨を無理やり引きずりだして座敷に座らせた。

「播磨よ、喜べ。やっと月姫様との婚儀の日取りが決まったぞ」
 その酒の入った左衛門の赤ら顔は狂喜に咳き込み、むせ返り、高笑いが喉に詰まった。
 それを播磨は侮蔑と嘲笑のように感じ取りながらも、父上を咎める言葉さえ見いだせな
かった。が、しばらくの沈黙を置いて、ようやく口を開いた。「父上……」と播磨は生唾
を飲み、やっと悲嘆の声を上げた。「お待ちください。わたくしはまだ婚儀を承諾したわ
けではござりませぬ」

「何を申すか。これで青山家は末代まで上席の座に座れるというものじゃ。これもそちが
宝蔵院流の鎌十文字槍の阿吽を倒したからじゃぞ。お陰で李朝十枚皿を殿より拝領し、こ
の青山家も家中では格別に誇れる家柄と相なった。運が開けたというものじゃ。よいか。
何事も万事この父に任せておけばよいのじゃ」

「ご無体な」と震える声で播磨は父上に反駁した。ひたむきに恋情を寄せてくれている菊
との約束を反故にはできぬ。それは嘘偽りなき播磨の一途な心境であり、菊との運命に心
を傾けていたのである。
「わかったぞ。お前は菊のことを思うて殿からのご返事を引き延ばしているのであろう。
それほど執心ならば妾にすればよいではないか?」

「何を申されます、父上!」と播磨は憤然として応えたので、左衛門は当惑し、思わず言
葉を失い、化生じみた険しい播磨の視線を顔面に蒙って目を見張った。「菊は播磨にとっ
て神仏にも代えがたき女子でござりますぞ」と、いまにも情緒障害を起こしそうなほどの
声で答えた。

「たわけ! 菊は親兄弟もない身分卑しき極貧の村娘ではないか!」と苦味顔で断固として
叫び、蔑んだ面持ちで身体を揺すると、奥の方へ大声で呼ばわった。「菊を呼べ! それ
に拝領の李朝十枚皿もな!」

 あの拝領の李朝十枚皿を見れば菊も諦めざるを得ないであろう。その李朝十枚皿を菊自
身の手で数えさせれば、いかに青山家に取って誉れ高い拝領の皿であるかは菊とてわから
ぬほどの童女ではあるまい。皿を数えながら、池田家にあって高禄の武士と貧しい村娘と
の身分の歴然たる差を思い知らされ、播磨もそれを見届けて、自分の立場をゆるゆる悟る
出あろう。引き離せさえすれば、青山家は今後益々磐石の栄華を保障されたようなもので
ある。

 襖が開き、李朝十枚皿の桐箱を目の高さに捧げて、菊が入ってきた。下人が襖を閉める
と、さらさらと着物の裾引く絹ずれの音が左衛門の前で止まり、厳かに李朝十枚皿の桐箱
を置き、三つ指を付いて身を伏せたとき、その目がちらりと播磨の凛々しい顔を窺って唇
で笑んだのを左衛門は見逃さなかった。それにしても日々匂い立つ菊の艶やかさは、愛で
る桜の花をも迷わすほどで、さすがの左衛門も息を止めて、その魅惑的な容姿を凝視する
ばかりであった。

「ご苦労じゃ。ところで菊、もう一度、播磨と李朝十枚皿をゆっくり見たい。菊は数えな
がら横に重ねてほしいのじゃ」
「はい」と菊は答えて、池田家の家紋が染め抜かれている紫の服紗を脇へ慎んで置き、背
の高い桐箱の紐を解いた。左衛門も播磨も固唾を飲んで李朝十枚皿が桐箱から現れるのを
待った。だが、その菊の細い手が宙で震えて動かない。

「いかがいたした?」と左衛門は不審に思って菊に膝を寄せ、「早くせえ」と止まってい
る手に左衛門は酔いの眼光を菊の顔に射込ませた。
 菊の手がゆっくりと動いて、霧箱から最初の大皿が現れた。だが、記憶の最後に収めら
れているはずの桐箱の底には十枚目の皿はなく、暗い深淵と虚無があるだけだ。
「一枚」と菊は意識を取り戻して、夢の中で呟くように澄んだ声で一枚目を呼んでから、
まず左衛門の顔を窺い、その目が播磨に向けられた。

 大皿は青味を帯びて、それはまるで天体でも見るように星がちりばめられている。なる
ほど池田輝政公が家宝にしていただけはあって、この星を帯びた者に災いなく、天命宮の
星々はまさに神力とも思えるほどの福運に輝いていた。左衛門は幻惑されたように目を奪
われてしまい、しばらくは声も出なかった。

「何度見ても見事な皿じゃ。さて、次の皿を出してくれ」
 一枚一枚が違う大皿の星を眺めたくて目の眩む逸品に、左衛門は次の皿が待ち遠しかっ
た。二枚、三枚、四枚、と菊は声を出して呼びながら、昨夜の暗い台所の再現のように大
皿を一枚一枚脇に積み上げていった。

 どれ一つ同じ星の模様の皿はない。一枚取ってみても日輪もあれば月輪もある。寿、
福、運の命が看わけられて、海を隔てた遥かな神の光とも思えるような光彩に目が沁みる
ようであった。さいごの皿は如何なる福運が待ち受けているであろうかと感嘆の声を上げ
ながら、その十枚目の皿が早く見たくて左衛門の目は青山家の栄誉を称えるように輝く九
枚目の皿から、次の十枚目の皿へと思いが移り、気が狂うほどに高鳴る胸は想像をいやが
うえにも増して頂点まで押し上げた。

「菊、早よう十枚目の皿を出せ」と左衛門は息堰切って叫んだが、なぜか菊は石のように
応えなかった。「どうしたのじゃ? なぜ十枚目の皿を出さん。勿体ぶるでないぞ」
 左衛門はたまらず桐箱に手を伸ばして引き寄せた途端、十枚目の皿はなく、桐箱だけが
畳の上に倒れて転がった。播磨は息を呑み、言葉にならず、理屈では解釈できない衝撃に
圧倒されて、まさか菊が割ったのでは、と口ごもりながら、その目に霧が、虚無が、失神
が……。左衛門は発作で胸を掻き毟り、巨大な暗黒の波に押し流されて、その場に昏倒し
た。

ーつづく戻る