第56回テーマ館「星」



お菊と播磨5 GO [2005/01/25 03:02:49]


9
「この菊が十枚目のお皿を割ってしまったのでございます」と見つめる播磨の視線に追い
詰められるように、言いようのないためらいの口調で菊はゆっくりと、苦しげに、動揺を
押し隠すかのように答えたのだ。

 播磨は菊を愛して自分を意識しながら、しばらく言葉の出ぬままに眦を上げて胸の怒り
を疼かせた。
「菊が割ったのか?」と、やっと衝撃から覚めて生唾を飲み込んでから呻くように訊い
た。
「はい、確かにこの菊が割りましてございます」と心に秘めた思いの重大さに息を詰まら
せながら、涙の盛り上がった気持ちを鎮めるかのように春の宵の気をそっと吐いて面を伏
せた。

「いちばん底にある皿を割るとは器用な真似をする」と播磨は信じられぬままに、ある疑
惑が頭の中をよぎった。
「いえ一枚一枚、桐箱から出して拭いていたのでございます」と鈍い心の痛みを伴う虚し
さを抱いたまま、不審の態度を隠さずに答えたので、播磨は菊の覚悟のほどを凝視しつつ
も、次第に顔が歪み、眉が曇った。

「形あるものが壊れるのに何の不思議もない。不注意なら仕方あるまい」と播磨は鎮め難
い怒りを込めた曖昧な笑みを浮かべて菊と目を合わせた。その菊の必死に何か求めるよう
な形相にただらぬ気配を感じて、播磨は漠とした不信感のこもった想像を抑えきれぬまま
に生み出した。「だが、もし菊がこの播磨が月姫様を娶ると疑うて李朝十枚皿の一枚を割
ったのなら、このままでは捨て置かぬぞ」と顔色の変わるのを隠せぬままに怒りを抑えて
物静かに告げた。「菊、答えよ!」

「播磨様は月姫様とご婚儀なさいます。それが播磨様のご本心かどうか確かめたくて、そ
れで菊は心を乱してお皿を割ったのでございます」と播磨の物静かな言葉に、つい菊の本
音が昨夜の情景を思い浮かべるように、ゆっくりと苦痛の口から漏れた。「あの十三歳の
砌、飾磨の浜でおっしゃった播磨様のお心が疑わしくて、大切なお皿を割ったのでござい
ます」と菊は涙で潤む目ですがりつくように播磨を見つめ、哀れな姿を露呈させて、こみ
あげる嗚咽に喉を詰まらせては、涙の粒を手の甲に散らした。

「疑うたと? この播磨が心底を疑うたと申すか?」と愕然とし、血が心臓に逆流して、
己の顔が蒼白になるのがわかった。菊の心を狂わした苦悩の日々を思いやるには播磨もま
だ若すぎた。この播磨の心を疑うたとと言った菊の言葉に自らの意志で菊を娶ると決めて
いただけに、偶然の些細な過ちで皿を割ったではすまされなかった。

 その菊が皿を割ってまでして播磨の心を疑ったことこそ、信じていたものを失った衝撃
の大きさを初めて知らされた瞬間でもあった。完全にわれを忘れて胸を引き裂くばかりの
怒りが渦巻いて湧き上がった。菊と知り合うたのは偶然ではなく、めぐり合うべくして逢
ったかけがえのない絆として信じていただけに、空漠としたひとつの世界が内部で揺れ動
いた。

「これまでも、これからも菊と一緒であると思うてきた。その菊に播磨が心を疑われよう
とは思わなかったぞ」と播磨は混乱し、心を乱して、不意の深淵の前に立たされた思いで
呟いた。その深淵の底を深々と覗き込むように菊を眺めたが、その深淵は意外にも深かっ
た。もはや深刻な結果をもたらす運命の流れを断ち切ることはおろか、破局を前にして、
いかなる手立てをもってしても平静に立ち返ることは不可能であった。

 その播磨の声が魂の奥深くから直接語りかけられたように響いたので、菊は瞳を開き、
涙の粒を払って一瞬、魂そのものを注ぎ込むように播磨を見つめ、悪寒のように膝を崩し
て身を震わせると、わっと泣き伏した。「菊にとって大切なのは播磨様おひとりでござい
ます。その播磨様が月姫とご婚儀あぞはされたら、どうしよう、と菊は不安でならなかっ
たのでございます」と播磨の心の中に隠された問いを悟ったかのようにおののきを隠しき
れずに喉を詰まらせてすすり泣いた。

「この播磨は菊のほかに娶る女子など知らぬ。殿から頂戴した李朝十枚皿なと些細なのも
だ。これまで菊は播磨にとって唯一無二の女子であった。その菊に疑われて、おめおめと
日を過ごしてゆけようか。わが額を刃で傷つけたのと同じことぞ」と言うなり、刀を取
り、杖のようにして立ち上がって、鞘のまま積み上げられた九枚の皿の上に乗せて敵意を
込めた。「よいか菊、これが播磨の真心ぞ!」

 掛け声凄まじく鞘の先端を九枚の皿めがけて容赦なく打ち落とした。九枚の皿は微塵に
崩れ、畳の上に破片を散り撒かせた。
 左衛門は耳も裂けよとばかりの破壊音と倒壊音に、やっと失神から覚めると、そこには
この世のものとは思えぬほどの恐ろしい光景がひろがっていた。

「播磨、血迷うたか? 殿から拝領した李朝の皿を砕くとは、如何なる料簡じゃ! 切腹
ものじゃぞ」とわが目を疑う驚きで血相を変え、播磨に抱きつこうとしたが、もはや九枚
の皿は粉々に砕かれて、蝋燭の火に虚しく乱反射しているだけであった。

「父上、こんな皿を賜ったところで、迷惑至極にござります」と播磨は憤然と言い放ち、
凄まじい双眸の光を放って左衛門に憤怒の色を込めたので、左衛門はいまにも斬りかから
んばかりの刀の柄に手をかけたわが息子を見て、乱心したかと思い、その不意の狂気に茫
然自失の体で腰が引けた。

 播磨は乱れた心をやっと整えると、「この播磨が情けなく思うのは菊が皿を割ったから
ではない。この播磨を疑うて皿を割った菊の心が許せぬのだ。菊と誓いおうた飾磨の浜で
の約束は嘘偽りではないぞ。それすらも信じられずに、この播磨の心を疑うた限りは、も
はやこの世の縁は切れたものと思え!」と胸の疼痛に耐えながら、かろうじて悲しみの深
さを隠して言ったが、顔は朱で染め上げたようであった。

「この菊が浅はかでございました。この上は播磨様のお手でご成敗をお願いしとう存じま
す」と、むしろ播磨の手にかかることを思慕するかのような焦がれた目で見上げた。が、
さりとて、菊ひとりをあの世に送れば、ますます募る情念の深さは助長するばかりであ
る。

「あの宝蔵院流の阿吽という鎌十文字槍と対した御前試合の折、脳天をこの刀で割った。
その脳天から脳髄があふれ出たものだ。いまは播磨の方こそ脳天を割って、あの庭隅にあ
る井戸で穢れた脳髄を洗いながしたいと思うぞ」と、ふつふつ煮えたぎる怒気は消耗のど
ん底の中で身を焼き、これまでの思考とはまったく違った残酷さを心に植え付けた。それ
はやがてどす黒い絶望の色へと変えた。
 たった一つの疑惑に耐え忍ぶこともできぬままに身を崩壊させるに足る苦しみに絶望
し、もはや後悔しても無駄であることを知らせるように寂滅の鐘の音が魂の奥深い深淵の
底で播磨は聞いた。

 左衛門は揺れる部屋の中で息を切らし、播磨の刃のような峻厳な態度をまざまざと見せ
つけられた思いであった。
「のう播磨よ。菊だけは許してやれ」と左衛門は痛ましい菊を憐れんで、忍び泣いている
姿を庇うように、墓場のような異様な静まりの中で逃れられようもない自らの切腹の光景
を抱きながら、暗い響きを加えた。「お前を十五歳まで宮本武蔵殿に預けて修行させたせ
いか心が巌のように硬うなった。この李朝十枚皿は父ひとりが腹を斬ればすむことじゃ。
菊を許してやれ」

「これは播磨に賜った李朝十枚皿にござります」と播磨は渋面の父親に背を向け、「腹を
斬るのはこの播磨にござりますぞ」と悲劇的な結末を抱いて菊を見据え、今こそ菊と己は
死によって限りなき愛を貫こうと覚悟した心だけが、ゆっくりと立ち昇った。
「この父が頼んでいるのじゃぞ。殿の叱責を賜ってからでも遅くはあるまい。しばらく耐
えて我慢せよ」左衛門には播磨の執着がどこから生じるのか奇異の念にうたれて袖を掴ん
だ。

 この乱世にあって月姫様を娶るということは青山家にとって誉れであるばかりでなく、
出世はもとより高禄は思いのままであるという考えが自然に湧いていた。まはて身分卑し
き親兄弟もない極貧の菊など取るに足らぬ存在と定めていただけに、所詮は播磨の心も一
時の熱情に過ぎず、現実に池田家にあって優れた武士としての観念を取り戻すりに時を要
するはずもないと考えていた。だが、そのもっとも大切な池田家の家臣としての観念が剣
一筋の鋼のような播磨に通じぬのを左衛門は理解できなかったのだ。

「父上、この播磨が菊に心を疑われて皿を割ったからには、この世に残すものといえば菊
がわが心を疑うた苦しみ以外にござりませぬ」と播磨は父が掴んだ袖を払い、もはやすべ
ての希望が燃え尽きてしまったかのように深い吐息をついた。「菊が愛しければ愛しいほ
ど、疑うた菊の心が許せぬのです」

「菊が疑うたからとて、播磨には小さき思いやりも慈悲もなきと申すか? 菊は美しい女
子じゃぞ。たとえ親兄弟もない貧しい村娘とはいえ、これほどの美形ならば嫁の貰い手は
大勢いよう。ここは率直に実家に帰してはどうじゃ」と左衛門は酔いの覚めた目で満月を
仰ぎ、それから降りしきる桜の花びらを痛ましげに眺めては気の衰えた表情に責苦を込め
て言ったが、播磨の心には響かず、事態をはるかに上回る恐ろしい結果を想像そせるばか
りであった。

「菊は誰よりもこの播磨が愛しんだ女子にござります。その菊を実家に帰して月姫様を娶
るなどできるわけがございませぬ。その証拠にあの李朝十枚皿は些細な不慮の災難によっ
て割ったものではありませぬ。明らかにこの播磨を愛しんだ末に菊は魔がさしてこの播磨
を疑うて割ったのです。だからこそ現世を出てしまえば、無常の風に散り行ゆく桜ののよ
うにこの世の義理もなくなりましょう」と播磨もきらめく桜吹雪が風に舞って満月をかす
めるのを眺めてから、もっとも優しい菊を、繊細な菊を、その艶やかな菊を、どんなに尽
くして語っても足りぬ菊だからこそ疑われた屈辱には耐え難きものがあった。このままで
は不信感だけが皮膚から噴き上けるばかりである。

「そうか。じゃあ訊くがの、もしこの父が同じことをしでかしたなら如何が致す。この父
を斬るか?」と左衛門は播磨の頑なな態度や頑固な絶望に苛立って胸の奥から思慕したす
ような声で叫んだ。
 庭の青白い月の光が一種独特の広大な空虚感をもたらしながら、桜吹雪は少しも休むこ
とをしらずに風に舞い続けているのを播磨は己の深奥部に満たされてゆくかのように眺め
た。

「この播磨とて菊によせる情愛の気持ちに変わりはありませぬ。むろん月姫様を娶る気も
ありませぬ。しかしながら、また無理に生きて月姫様を娶らば菊との約束が嘘偽りになり
ましょう。それに生きている限りは口に出さずとも、その生涯にわったって菊の不義を疑
いながら生きていかなければなりませぬ。それよりも菊もわたしも冥土を望むでありまし
ょう」と菊への情愛が深ければ深いほど募る怒りへの妄執もまた耐え難きものがあった。

ーつづく戻る