第88回テーマ館「天然」



癖の助け 1 夢水龍乃空 [2016/06/30 20:32:30]


  今日は研修じゃなかったのか? 俺の頭の中には、不安と混乱しかなかった。そんな部署が
あるという都市伝説は何度か聞いていたが、まさか実在すると思わないし、自分が配属になる
とは想像もしなかった。
 四年で念願の刑事になれたかと思ったら、いきなり警視正に呼び出された。特命と言われた
時は胸が躍った。それがどういうことだ。小難しい正式名称はとっくに忘れたが、あの迷宮認
定課なんていう怪しい組織に配属されるなんて。
 警視正からは、ただ行ってこいとだけ言われた。行けば分かると。今日は事前に研修を受け
て、正式には後日配属だという。だから何かしら説明があるものと信じていた。ところが、現
れた課長は小さな会議室を指さして、ここで実際の捜査を体験してくれと言う。部屋の中で待
っていた―というか既に書類の山に顔を突っ込んでいた―のが、田村巡査長だった。
「早乙女巡査です。よろしくお願いします」
「おう」
 人が挨拶しているのに、書類から顔を上げようともしない。
「座れ」
「はい」
 中年太りの体型。手が毛深い。無精髭にムラがあるのは、ちゃんと剃らない状態から全体的
に伸びたためか。頭が刈り上げなのは、手入れが面倒だからだろうか。
「何見てる」
「いえ、すみません。あの、これは何をしているのでしょうか」
 俺は全く説明を受けていないのだ。この部署の仕事を何も知らない。ただ、面倒な要素があ
って迷宮入りが囁かれ始めると、密かに独立した捜査を行い、本当に迷宮入りさせるべきか否
かを認定する、特殊な部署があるという噂は知っていた。あくまでも噂だから、そういう認識
でいいという確信はあるわけもない。
「何してるように見える?」
「……書類を読んでいるように見えます」
「そうだ。今回の事案の概要をつかんでる。おまえもやってみろ」
「はい」
 そうは言っても、段ボールで十箱以上はある書類の山だ。壁際の小机には、箱から出したら
しい証拠品の数々が並んでいる。全部見るだけでも何日かかることか。それに田村は猛スピー
ドで目を通している。速読マスターか。
「全部頭に入れているのですか?」
 素朴な疑問を口にしてみた。
「馬鹿か。そんなことができる天才はフィクションの世界にしかいない」
 だろうな。
「ここの仕事は、やって覚えるしかない。教わってできるもんじゃないからな。まずはやって
みろ」
「分かりました」
 いや、分からないんだが。
 とりあえず箱の中身をざっと調べて、どこに何があるのか把握するだけで、一時間使った。
その間に田村はあらかたの書類に目を通してしまった。俺の目がようやく活字に向かった頃に
は、証拠品の何かを持って田村は部屋を出て行った。何時から来ていたのか分からないが、既
に何かしらの考えに至っているのなら、速すぎる。ここの人間はみんなそうなんだろうか。
 体を動かす方が得意ではあるが、情報処理能力にも自信はある方だ。だんだん調書の文体に
も慣れてきて、事件の概要、証拠品の意味が分かってきた。田村が持ち出したのがどうやら被
疑者の毛髪らしいということも分かった。毛髪をどうするつもりなのかは、まだ分からない。
 時計を見ると、もう二時半を回っている。そこへ、相変わらず無表情のまま、田村が戻って
きた。
「分かったか?」
 いきなりそう言われても、何を答えればいいのか。
「概要はつかみました」
「そうか。おまえの見解は?」
「いえ、まだ自分の意見をまとめるまでは」
「そうか」
 椅子に座った田村が、ふぅっと、一仕事終えたような息をついた。
「あの毛髪を調べていたのですか?」
「ああ」
「どういうことを調べたのでしょうか?」
「自分で考えろ。二人で調べて、それぞれ考えて、最後に答え合わせをする。それがここのや
り方だ」
 そうなのか。
「時間制限はないんだ。何でもいいから、自分で答えを出してみろ」
「はい」
 細かい情報を書類で確認しながら考えてはみたものの、決定的な結論は出せなかった。プロ
の刑事が束になって捜査したが解決できずにここへ回された事件、のはずだ。会議室で考えた
だけでどうにかできる方がおかしくないか。
「あのう、考えはまとめました」
「よし、言ってみろ」
「はい」
 新米医師のカンファレンスはこんな感じだろうかと、ふと思ってしまうほど、意外なまでに
緊張していた。
 
癖の助け 2

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