第88回テーマ館「天然」



癖の助け 2 夢水龍乃空 [2016/06/30 20:31:48]

癖の助け 1

「被害者の狸沼(りぬま)は、女にだらしがなく、方々から借金もしていて、恨まれる筋は多い
ようです。最近は落ち着いていた様子ですが。現場である狸沼の自宅は、普通のアパートで、
鍵以外のセキュリティーはありませんが、最後に会ったとされる恋人の猪戸によれば、帰る時
に鍵はかけたことになっています。本人が鍵を開けたであろうことと、派手に争った形跡もな
いことから、顔見知りの犯行と考えられています。無断欠勤が続いたために、職場の上司と同
僚でもある猪戸が狸沼の部屋を訪れ、鍵が開いていたため中を覗くと、狸沼が包丁で刺されて
死んでいたということです」
 言葉にすると、実に簡単な事件だ。被疑者もすぐに浮かんだ。
「猪戸によると、狸沼は人と会う約束があると言っていました。狸沼の携帯の発信履歴から、
相手は職場の後輩の熊井だということが分かり、事情を聞きましたが、熊井はメールは受け取
ったが会っていないと主張しています。しかし、現場から採取された毛髪のDNAが熊井のも
のだと分かり、嘘がバレました。熊井を連行して取り調べましたが、決定打がありません。そ
れどころから、町内会で設置していた防犯カメラの映像から、現場のアパートへの一本道を熊
井が通っていないことが分かり、暗礁に乗り上げました。捜査本部でも、毛髪は偶然あったも
ので、熊井は無関係とする意見が増えました。毛髪以外の指紋や唾液などが出ていないこと
も、熊井犯人説を否定的にしています」
「で、本部が結論を絞りきれない理由は?」
「毛髪です。熊井は犯行の前日に美容室へ行き、パーマとカットをしたと証言しています。確
かに、毛髪は微妙に縮れていて、先端が鋭い断面になっていました。偶然にしてはタイミング
が合いすぎていますし、他の証拠が出ていないのは慎重に行動したからで、毛髪も一本しか出
ていないため、見落としたとも考えられます」
「美容室が犯行の前日と言い切れるのか?」
「あ、厳密な証拠はありません。ただ、猪戸が会ったという日曜日に、狸沼が他にもメールで
やりとりした記録があることと、無断欠勤が月曜日から始まっていることから、日曜日が犯行
日であろうと推定されています。発見が水曜日で、死後2〜3日という推定からも裏付けられ
ます」
「日曜より前ではなさそうだが、発見当日ということはないわけだな」
「はい」
 ぼんやりした風貌に似合わず、議論には厳格なようだ。刑事なんだから、当たり前か。
「概要は把握できてるようだな。それで、おまえの答えは?」
「はい、やはり、毛髪という物証がありますし、狸沼が会う予定だったのは熊井と考えてよさ
そうですので、熊井が犯人であると考えます」
「証拠は?」
「え?」
「証拠は見つけたのか?」
 あるわけがない。無いから本部が困っているんじゃないのか。
「いいえ」
「だったら、自分の説を証明できる何かをどうすれば発見できるか考えろ。それが俺たちの仕
事だ」
 そうなのか。俺は何も説明されていないんだってこと、覚えてないのか。
「防犯カメラの問題があります。熊井の姿が映っていないのは、アリバイを主張するための工
作だと考えられます」
「具体的には?」
「現場周辺の写真がありましたが、普通の住宅地でした。現場は行き止まりの路地に面してい
て、一見すると防犯カメラに映らずに行くことはできなそうですが、強引に民家の壁伝いに移
動すれば不可能ではありません」
「かなり目立ちそうだがな」
「見つかれば即通報されると思われます」
「熊井はそんな危険を冒したのか?」
「分かりません」
「分かる必要は無い。可能性があるのかと聞いている」
「は?」
「ここの仕事は、事実を確認することじゃない。何が事実なのか明らかにすることでもない。
どんな仮説が残されていて、それをどうすれば証明できるのか、考えることだ」
「……それは通常の捜査と何が違うのですか?」
「全然違うな。本部の仕事は事件を解決することだが、ここの仕事は事件が解決できるのかど
うか考えることだ」
「あ、だから迷宮認定課なのですね」
「その呼び方も間違いではないが、もちろん迷宮入りを確定させることより、迷宮入りさせな
いことが優先される。今回も熊井犯人説を主張するなら、その仮説を証明する具体的な手段を
提案するのがおまえの責任だ」
 捜査本部がよってたかって無理だったことを俺に一人でやれと言うのか。
「付近の聞き込みは既に終わっています。民家を突っ切るのは明らかに不自然な行為ですが、
不審者の目撃情報はありません。通りそうな壁の上の足跡を調べるくらいでしょうか」
「うん、壁の上の足跡な。物理的に可能な提案だ。いいんじゃないか」
 よかった。そういうことでいいようだ。
「で、勝算は?」
 そうくるか。確かに言いっ放しでは話にならない。とはいえ、勝算など無い。
「ありません。かなり非現実的ですので」
「まあな。だったらさらに現実的な仮説を立ててみろ」
「……と言いますと?」
「熊井犯人説は、毛髪という物証とメールの履歴という傍証が根拠になっている。毛髪がある
からそこにいただろうという推定、メールがあるから狸沼と会う約束をしたのだろうという推
定、どちらも実は推定に過ぎない。その推定を指示する根拠は何だ?」
「猪戸の証言ですか。猪戸の証言で、人と会う約束があったことになり、狸沼が自分で鍵を開
けて犯人を招き入れたことになっています」
「ということは、それが猪戸による工作であったとすれば、全てが逆転する」
「なるほど」
「俺の答えは、猪戸犯人説だ」
 
癖の助け 3

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