『テーマ館』 第19回テーマ「ワールドカップ」



 「ソファの上のある一幕 −ワールドカップ・其の壱−」   by MoonCat


くたびれた風采の中年男が、膝の上に置かれたトレイから、気がなさそうな様子でトーストを摘み上げて口へ放り込んでいた。彼が座っている色のあせたソファーとテレビのセットだけが、その灰色の居間を飾る家具であった。かつて彼がこのテラスハウスで家族と生活を共にしていた頃にはあったコーヒーテーブルすらも、彼らが男を見限って彼の人生から退場した時に姿を消していた。くびになった会社の台所からかつて持ち出したマグカップは彼の足元に置かれ、それには半分程石のように冷たくなった紅茶が入っていた。


無精ひげ、濁った目、だらりとした頬の肉は、彼が怠惰な生活を始めて久しい事を示していた。目は画面を眺めているようだが、その中で繰り広げられているサッカーの試合の光景は、彼の思考とは連結されていないかのようである。その証拠に、観客がどっと沸くような好プレーが映されても、この男の動作、表情には何の変化も現れはしなかった。彼はただ黙々とその食物を皿から口へと運び、時折身を屈めてマグカップを取ると水分補給をしていた。


試合がスタートしてどの位たった頃だろうか。三時間の内の終わりの方である事には違いない。緩慢極まる速度で口に運ばれていたパンの切れ端も、その頃には皿から消え去っていたのがそれを示している。突然大音量が部屋を満たした。観客の歓喜の叫び声であった。画面の中では、イングランドチームの白いユニフォームを着た体格は良いが人相の悪い選手が、ユニフォームの前身ごろを引っ張りあげて頭にかぶせたまま、気が狂ったように駆けずり回っていた。顔面を白塗りにし、赤で十字を描いてイギリスの旗と化した観衆が、獣のような大声を上
げながら客席で踊りまわっている。どうやらユニフォームで目隠しをして走りまわっている選手がゴールを決めたらしい。


それが彼の何かに触れたのだろうか?その音声を耳にして、男は初めて画面に視点と思考を合わせた。カメラは観客の顔を大写しにしている。裂けんばかりに大口を開いて叫んでいる者。旗を振り回している者。誰彼構わず抱き合って喜んでいる者。様々であった。男の目は彼らの姿を確かに捉えていた。


唐突に、涙が一筋、彼の頬を伝って顎で一時休止してから、パン屑の散らばる皿の上にぽとりと落ちた。涙はそれ以上流れる事はなかった。男の目はまだ画面を凝視している。試合は既にゴールの狂喜を離れ、再びボールは足から足へと蹴り転がされていたが、彼の思考はあの瞬間から、更に正確にはあの瞬間から蘇った記憶の中の光景から離れようとはしなかった。


前回のワールドカップが開かれていた頃である。四年前のあの日も、男は居間のソファにテレビを前にして座り込んでいた。小学生くらいの子供二人に挟まれた細君が、彼の後ろから居間の入り口に立たずんで叫んでいた。男は背を向けたままである。
「出て行くなら勝手にしろ。俺の知った事か」

そう言い捨てた彼は、何本目かの缶ビールをあおった。それでもまだ暫く続いた細君の罵りの声もその内途切れ、玄関のドアが乱暴に閉まる音で彼の結婚生活に幕切れがおとずれた。
「知った事か」

男は再びビールをあおった。と、同時に、目は純白のユニフォームを身にまとった母国のチームがゴールを仕留めるのを捕らえた。拳を振り上げ、男は弾かれたように立ち上がると、画面の中の観客と共に狂喜の叫び声を上げた。


その時の自分の姿を思い出した彼の心に、後悔の念が横切った。サッカーと酒に明け暮れる事で失業した自分を慰めようとして、家族の事を省みなかった自分自身の過去が恨めしかった。
「…もう遅いんだろうなぁ…」

思わずそんな呟きが、男の干からびた唇から漏れた。彼はリモコンをソファの後ろから探り出すとテレビを消した。沈黙が居間を支配した。やがて彼は、やはり緩慢な動きで立ち上がると、マグカップを摘み上げてトレイにのせ、台所へと立ち去った。

今には空のソファが残された。

「ソファの上のある一幕 −ワールドカップ・其の弐−」

(投稿日:26.05.98)