『テーマ館』 第19回テーマ「ワールドカップ」



 「ソファの上のある一幕 −ワールドカップ・其の弐−」   by MoonCat

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その市営住宅はロンドン市北部に位置していた。閑静な住宅地の殆どは、中流家族の持ち家であったが、それに混じるようにして時折大きな団地のような建物がある。煉瓦造りの外壁の中身は、市営住宅に入居を許される位の低賃金労働者の家庭か、そうでなければ毎週郵便局へ失業手当を拾いに通う人々の住まいである。そしてこの物語の女主人公等二人は、そんな市営住宅の一画に居を構えていた。


イギリスの夏は乾いている。彼女らの子供たちが学校から帰るまでには少し時間があった。失業中の旦那たちは外出中である。茶色の髪を頭のてっぺん近くでひっつめた女は、退屈しのぎに同じ階に住む友人の家を訪ねる事にした。ノックの音に応えてドアを開いた友人も退屈していたらしく、快くこのポニーテールの友人を迎え入れた。友達の家を訪れるのは日常の事らしく、彼女は招かれてもいないのにさっさと居間へ入り込んだ。白い壁で囲まれたそこには、L字型に置かれた黒の皮張りのソファ、それに合わせたのか、つやつやとした黒いコーヒー
テーブル、そして24インチのテレビだけが家具であった。壁の一面は大きな窓になっており、昼下がりの日差しを避ける様に、ブラインドカーテンが降りている。窓際の部屋の片隅には、手入れされていないせいで生気の失せてしまった、やしの木紛いの観葉植物がぽつねんとしていた。

「ねえ、もう殆ど終わりみたいよ」

黒いソファの上に立て膝をして座っているポニーテールは、数分前に台所へ姿を消した友人に声をかけた。それに対する応えの代わりに、台所からは、カチャカチャとスプーンがマグカップにぶつかる音がした。
「砂糖は?」
「いらないわ。ダイエット中なの」

ソファの女は、前にある巨大なコーヒーテーブルの上の灰皿を引き寄せると、埃っぽい藍色のジーンズの尻ポケットから、潰れたシルクカットの箱を取り出した。居間と台所は、絵すらかけていない白い壁に長方形に穿たれた「穴」でつながっている。ネッスルのロゴの入った赤いマグカップを二つ手にした友人が姿を見せると、彼女は既に紫煙を吹き始めていた。来客の前にそれが一つ置かれた。
「ありがと」

「紅茶に入れる砂糖の一匙や二匙で、何も変わんないでしょう?大体あんたって昔から痩せの大食いって呼ばれてるぐらい痩せてるのに。今更何をダイエットしたいわけ?」
「三十過ぎると余計な所に付いてくるのよ、余計なものが」
「うそばっか」

そう言って笑いながら、市営アパートの住人は友人の隣りに腰を下ろした。テレビからは観客の声援と、あらゆるスポーツ番組の解説を勤めるアナウンサーの声が溢れ出していた。
「この男って、何にでも出てるじゃん」
「そうね。テニス、ゴルフ、サッカーは勿論、この間のオリンピックでも、声張り上げてたじゃない」
「……どんな顔してるのかしら」
「さあ」
顔のないアナウンサーは、声を張り上げ続けていた。

しばらく無言で二人は紅茶をすすっていた。
「何が面白いのかしら?」
短く切ったブロンドの前髪を掻きあげると、家主は何年も言い続けている疑問を口にした。
「さあ」
「二人ともパブでしょう?なんでわざわざ友達大勢引き連れて、パブなんかでサッカーの試合を見たいのかしら?」
「ビールがあるからでしょ」
「ビールなんて家でも飲めるじゃない」
「そっか。テレビがあるからじゃん?」
「あのパブのテレビより家の方が画面大きいわよ」
「そう言えばそうね。ダチがいるからじゃない?」
「呼んでくればいいじゃない」
「子供がいないから」
「学校に行ってる間に試合は始まって終わるのよ」
ポニーテールは無言で煙草を揉み消した。
「男」
「え?」
「男だからよ。パブでたむろして、サッカーの試合に拳振り上げて、妻子残して馬鹿やりたい……男だからに決まってんじゃん」
「そっか」
その利口とも阿呆ともつかぬ答を聞くと、ブロンドは妙に納得して沈黙した。
「と言うわけで、本日の試合は―――」

と、顔のないはずのスポーツ・アナウンサーが画面に映って、試合の総ざらい解説をしていた。のっぺりとして、これと言った特徴のない中年男の顔である。顔に似合わぬ渋味のある特徴のある彼の声が、二人には外国映画の吹き替えのように感じられた。
「試合、終わったわね」
ポニーテールが空になったマグカップをテーブルに置いた。
「そうね。今何時?」
リモコンでテレビを消しながらブロンドが尋ねる。
「四時」
「もう学校も終わる時間か」
「行こか?」
「うん」
二人は無造作に立ち上がると、子供を迎えにブロンドのアパートを後にした。

「ソファの上のある一幕 −ワールドカップ・其の参−」

(投稿日:27.05.98)