『テーマ館』 第19回テーマ「ワールドカップ」



 「ソファの上のある一幕 −ワールドカップ・其の参−」   by MoonCat

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イギリス南部、ウェスト・サセックス州は、緑豊かな田舎である。一見牧場のような緑の芝生が限りなく続いているように見えるが、実はこれは羊の放牧にすら使われない「空き地」である事は、土地の者なら誰でも知っている。「空き地」を取り囲むのは、うっそうとした林である。そしてその広大なる空き地と林の中に時折見えるのは、それらの自然に取り囲まれて遠慮がちにぽつんと建っている大きな家である。地元の役所が一ヶ月に一度草を刈ってくれる空き地とは別に、念入りに手を入れた芝生が木の柵に囲まれて、人に所有されている旨を告げ
ている。柵の根元の内側には、桜草、忘れな草、矢車草、都忘れなど等の、色とりどりの繊細な草花が植えてあり、初夏の長い夜を賑やかに飾っている。東の空には夜の紺青が沈殿したように林の上を覆い、未だ昼間の名残が残るピンク色の西の空へかけて、紫色の美しいグラデーションで天は染められていた。翌日も晴れ渡るに違いない。


マデリンは、居間のソファーに座っていた。彼女が静かに目を通し続けているのは、彼女の指揮する治検薬の副作用のレポートであった。BGM代りにつけられっぱなしのテレビでは観客の存在の是非に関わらず、見慣れたBBCのアナウンサーが夜のニュースを淡々と読み上げていた。


美しくデコレーションされた居間は、真紅の地に金で模様の入ったヴィクトリア朝風の壁紙が張られている。使用されない夏の間は、暖炉の穴は良く磨かれた真鍮製のカバーで、人目に触れられぬよう塞がれていた。大理石製の暖炉の枠の上には、やはり良く磨かれたアンティーク調の写真立が幾つも所狭しと並んでおり、カラーも白黒の写真もあって時の幅を感じさせるが、中に写っているのは皆、東インド諸島を故郷とする家人の血縁ばかりと思われる。


ある白黒写真の一枚には、幼いマデリンを胸に抱いた彼女の父が写っている。黒い髪、黒い肌、そして黒い牧師の服に、彼の白く美しい歯とマデリンの着るレースのふんだんに付いた子供用ドレスの純白が眩しい。その隣りには置かれた写真立には、四隅の一つに二十センチ程の房を飾りの付いた四角い蓋をしたような帽子をちょっと傾げてかぶり、黒のローブをまとった二十一歳の彼女が、くるりと巻かれた大学の卒業証書を手に誇らしげに笑っている写真が納まっている。これはカラー写真である。


他にも幾つか写真立はあるが、次は現在のマデリンが座っているソファの背後の壁にかかっている写真に目を移してみよう。マホガニーの上品な飾り棚で塞がれていない壁にも、沢山の写真が大小様々ではあるが外観的には統一されたデザインの額に納まって、家人の歴史を披露している。その中で少々大き目の一枚は、若い男達の集合写真だった。クリケットの白いユニフォームを身にまとった誇らしげな彼らは、横長に前後二列に並んでいた。選手よりは明らかに年長の男二人が、彼らを挟むように左右に白衣とパナマ帽のような白い帽子を目深にかぶ
って立っている。前列の真ん中で、クリケットバットを右手に方膝をついているのが、若き日のデン、即ちマデリンの夫であった。彼は細君と同じく、東インド諸島の一つであるバルバドス島出身で、十八の歳迄故郷に住み、地元のクリケットチームのキャプテンを努めていた。イギリスへ移住したのは、医者であった彼の父が南東部の総合病院で職を得たためであった。元々はデンは幼なじみ等と共に地元の大学へ進学し、将来はウェスト・インディーズの代表クリケット・チームに入ろうと野望を抱いていたのだが、父親の職の事が決まると、意外にも
青年はあっさりと家族についてイギリスへ移住する事を同意した。彼の地の大学へ入学したのは、一年遅れての事である。元々育ちの良い彼は教育も十分に受けていたので、この遅れは単に移住に伴う諸々の手続きが原因であった。彼は大学で、情報処理学部の先駆けで三年間学ぶと、ロンドンのある名門上場企業に職を得た。


マデリンに出遭ったのは、彼が大学に在籍した時であり、就職後三年して何とか生活も落ち着いた時、二人は結婚した。クリケットの写真と同じ位のサイズの額は、他にはもう一つしかない。それは二人の結婚式の写真だった。幸せそうに満面に笑みを浮かべた彼らは当時二十五歳。既に二十三年も昔の事である。薬学部を首席で卒業し、製薬会社の若手エリートであったマデリンも、日に日に拡大するコンピューター事業にたずさわるデンも死ぬほど忙しかったが、子供は欲しくて仕方がなかった。しかし欲しい所には出来ぬもので、彼らがようやく念願
の子宝に恵まれたのは、結婚後十五年も経ってからの事であった。懐妊当時マデリンは四十歳。この高齢出産がダウン症など障害を起こす確率の高い事を、職業柄知っていた彼女は、それを思って二の足どころか一歩も決心への足を踏み出せずにいた。が、デンや年老いた両親等の喜びよう、そして何よりも、自分の胸の奥深くから沸きあがり不安を遥かに凌駕する喜びは、マデリンはこの小さな命を人として世に送り出す事を決心させた。幸にも、健やかな男の子が生まれ、彼は二家族共通の長年の友人である女性によりパトリックと名付けられた。父親
に似て人並外れて背が高く、母親からは陽気な性格を譲り受け、いつも満面に笑顔をたたえる愛想の良い子供は、先月八回目の誕生日を迎えた。


農家風に木目調でコーディネートされた台所の勝手口が開く音がしたかと思うと、突然賑やかな声がマデリンの耳に飛び込んできた。
「大分上手にドリブル出来るようになったじゃないか、パット」
「うん、でもまだ真っ直ぐ進めない」
「練習すればいいんだ。さ、ベッドの時間ももうすぐだ。上へ行って早く顔と手を洗ってパジャマに着替えておいで」
「明日は日曜だよ。もうちょっと起きていたい」
「言う通りに着替えたら、ママと相談してあげよう」

それを聞くと、黒目がちの大きな瞳を輝かせると、男の子は羽が生えているような軽い足取りで階段を駆け上がり、バスルームに姿を消した。芝のついたサッカーボールを台所の隅に置くと、デンも手を洗ってから居間へ姿を現わした。マデリンの手に既に書類はなかった。勝手口のドアが開く音と同時に、彼女の手を離れた書類の束はソファの脇にある小さなテーブルに放り出されていたのである。
「御苦労様」
マデリンは疲れた様子で向かいのソファにどっかりと腰を下ろした夫を見て、含み笑いをしながらもそう労った。
「この歳で小さな子供の相手は骨が折れる」
嬉しそうにデンが愚痴る。
「何を年寄りみたいな事を」
含み笑いが厚めの唇の間からこぼれると、それにつられたかデンも苦笑した。
「次はスポーツニュースです。まずは本日のワールド・カップの試合の結果から……」

アナウンサーがそう告げると、それまで誰の注意も向けられていなかったテレビの画面に、二対の目が視線を向けた。イギリスチームの試合のハイライトが流されている。
「あれは、サッカー選手になりたいんだそうだ」
「知ってるわ」
「自分の子供が男なら、彼にも僕はクリケットをやってほしいと思っていたんだが」
「昔から、それがあなたの口癖だったわ」
「でもクリケットなんかはつまらないらしい……サッカーが良いんだそうだよ」
「流行だもの、仕方ないわ」
「そうだな」
「それにここはイギリスよ。クリケットが花形の故郷じゃないわ」
「うん。でも最近はあちらでも、サッカーに人気が出て来たと聞いた」
「時代よ」
「うん」

肘掛けの表面を撫でながらデンがそう寂しそうに肯くや否や、居間の扉が弾けるように開いて、サッカーボールの模様が入った青のパジャマをまとったパトリックが飛び込んで来た。

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(投稿日:28.05.98)