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竹村 茂
2005/08/04〜
この論文は,1989年11月に行われたの聴覚障害教育担当教員講習会のテキスト原稿です。聴覚障害教育担当教員講習会は,毎年11月に,全国の聾学校と難聴学級の中堅教員を集めて,文部省と筑波大学が主催し,筑波大学附属聾学校を会場として行われます。画像は入っていません。
聾教育も中学部・高等部の段階になると,聴覚活用・発音指導・言語指導とは別の新しい問題が前面に出てくる。それはコミュニケーションである。学習指導とコミュニケーション」というテーマに即して言えば,中学部・高等部段階においても聴覚活用や口話法は重要なコミュニケーション手段であるが,それらは幼稚部・小学部段階で論じられていることとが,本質的には中学部・高等部段階でも適用できるものであると考えられるので,中学部・高等部に特有な問題として論じるならば,現在聾教育の内外から問題が提起されているコミュニケーション・メディアとしての手話の問題であろう。
聾教育内部から → 栃木校・香川校の試み。
聾教育外部から → 全日本ろうあ連盟を中心とする「聾教育へ手話を」の運動
学習指導という観点からいえば,当然成績が上がるかどうかが問題とされるのであるが,聾教育の外部からは,「授業を成立させる人間関係」という観点から,聾学校における手話の問題が提起されている。
聾教育におけるコミュニケーション・メディアの一つとしての手話を考えるとき,まず手話は言語であることを確認しておく必要がある。(国語教育や英語教育では日本語や英語が言語であるかどうかが問題にならないのに,手話を論じようとすると,なぜ手話は言語であるかないかが問われるのか。)
手話が言語であるということを言語学的の証明する現在一番進んだ方法は,「手話にも音声言語と同じ音韻構造がある」という証明であるが,話が専門的になりすぎるので,ここでは比喩的な意味で使われる「動物の言語」と人間の言語の違いを例に手話が言語であることを考えてみるのがよい。
いわゆる動物の言語は信号にすぎない。
それに対して,人間の言語は要素を自由に組合せて多様な表現をすることができる。
言語のメッセージは表意的で線的に配列される最小の単位,すなわち記号素(単語をさらに表意的な最小の単位に分解したもの)に分けられる。これを第一次分節という。記号素は,表意的でなく弁別的で線的に配列される最小の単位,すなわち音素に分節される。これを第二次分節という。(二重分節論)
手話も,意味を表す最小の単位,いわゆる手話の単語に分節され,さらに意味をもたず手話の単語を構成する最小の単位,いわゆる手話単語の構成要素に分節される。(この手話単語の構成要素を,手話言語学独自の用語で手話素とか構動素とか呼ぼうとする考え方と,音声言語と同じものであるから音素と呼んで差し支えないという考え方があり,現在まだ定説を得ていない。)
現在の日本の手話はおおむね以下のように分類される。
栃木聾学校が昭和43年に同時法を始めるときに,従来の手話と日本語に対応した同時法の新しい手話とを区別するために,従来の手話に伝統的手話という名をつけた。従って,伝統的手話は,「同時法の手話ではない従来の手話で,必ずしも日本語のコードによらないで表現される手話」などと,否定的に定義されてきた。最近,全日本ろうあ連盟などからは,これを「日本手話」と呼ぼうという提案がなされている。それは「伝統的手話」という用語が「同時法手話」の対極として定義されたということと,「古い滅びつつある手話,少なくともそのように運命づけられた手話という語感をもつ」(日本聴力障害新聞1989年1 月号)ことによる。
栃木聾学校が同時法を始めるときに作った手話で,「手指法辞典」に示されている。最近では,語彙をより拡充した「日本語対応手話辞典」の作成が行なわれている。
現在,成人の聴覚障害者と手話を理解する聴者との間で一番広く使われているのが,この中間型手話である。日本語と伝統的手話のピジン言語として成立したものなので,両方の言語の特徴を併せもっている。(同時法手話と伝統的手話のピジン言語であるという説も行なわれている。)
以上,3つの手話の特長を比較してみると,聾学校における学習指導で使われるべき手話は日本語対応手話である。手話を指導して,その上で学習指導するならば日本語対応手話でやるのがベストである。しかし,聾学校の中で正式には手話が教育されていない現状では生徒が覚えている(先輩や友達・先生から覚えた)手話をベースにして,学習指導することになるので,手話の使い方としては中間型手話にならざるを得ない。将来は,聾学校のなかで日本語対応手話をきちんと教え,その日本語対応手話で学習指導をしていくべきである。
授業で手話を使おうとするからには,教師の方で十分な手話技術を身につけておくことが必要である。しかし,手話に頼りすぎてはいけない。残念ながら,現行の手話語彙は中学部・高等部段階の学習指導に使用できるレベルにない。また,生徒の手話理解も不十分である。もし,難しい用語を手話で表せたとしても,生徒がその用語を受け取ったことと理解したこととは別の問題である。
特に注意しなければならないのは,教師の手話語彙が不十分で,いろんな用語を一つの手話で表してしまうことである。教科学習の段階にある生徒は,語彙の理解が不十分で,手話語彙の一面的な意味に限定して理解してしまう傾向がある。
生徒および教師の現行の手話能力を考えると,手話はあくまでコミュニケーションの補助手段として考えるのが実際的であろう。学習指導においては,手話は難解な教科の用語を乗せるためのベルトコンベアーみたいなもので,手話自体が教科の用語を表現・伝達できると考えてはいけない。
口話法の持つ問題点をメディアとしての特徴と障害者観の2点から考えてみよう。
栃木県立聾学校が「同時法」を提案したとき,その基礎にあったのは「聴覚障害者が聴覚障害者として積極的に生きていく」ことを肯定するという障害者観であった。
口話法にどんなに習熟したものでも,健聴者にはかなわない。口話法という方法を推し進めていくと,聴覚障害者は健聴者に対してどんな場合でも劣等感をもって接しなければならない。普通,どんな人間でも優れた面と劣った面を持っていて,ある場合には他人に優れ,ある場合には他人に劣るという経験を繰り返していく中で成長していくのであるが,口話法だけで聴覚障害者を育てていくと,コミュニケーションという最も人間的な問題で他人に優れるという経験なしに大人になることになる。これが,現在アメリカ合衆国の聾者が口話法に反対している最大の論点である。
参考文献: 『同時法について(T)』栃木県立聾学校 昭和62年3月
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