筑波大学附属聾学校 竹村 茂
『聴覚障害』誌1998年6月号のコラム「用語解説」に掲載。
2005/08/05〜
英会話の練習を始めるときには,だれも英語とは何かということを問題にしませんが,手話を学ぼうとすると,手話とは何か,手話は言語かが問われます。これは聾教育に手話を導入することと深くかかわって,そこに手話の抱えている現在の問題が象徴的に現れています。
初めて聾学校の教師になって,手話って何だろうと思い始めると,いきなり「シムコム反対」と「バイリンガル教育」の二つの主張に突き当たります。
1.「シムコム反対!」という主張
シムコムとは, simultaneous communication の略で,音声言語と手話を同時に使うコミュニケーションのことをいいます。「同時に二つの言語を話すことは所詮無理なことであり,日本語か手話のどちらか(あるいはその両方)が中途半端になる。とりわけ,日本語の音声が聞こえないろう者にとっては,きわめて不完全なコミュニケーション手段だと言わざるを得ない。」(「ろう文化宣言」木村晴美・市田泰弘 1995,『現代思想』 1995年3月号,1996年4月臨時増刊号に再録)
この主張を理解するためには,まず日本で現在使われている手話の3つのタイプを知らなければなりません。
@日本手話
日本手話は,手や身体を使って空間に表される言語である,目で見て受け入れる言語であるという手話の特徴を最大限に生かして文法関係を組み立てて,日本語の文法や語彙とは別の独立した体系を持っています。
日本手話という言い方は「ろう者の用いる手話は,音声言語に匹敵する,複雑で洗練された構造をもつ言語である」という主張を含んでいます。(成人の聴覚障害者が使っている手話をかつて「伝統的手話」と呼びましたが,今は使われていません。)
A日本語対応手話
日本語を,音声でなく,手指で表そうとするものが日本語対応手話です。
「口話教育では聾児に日本語を獲得させることが難しい,聞こえないのであるから手話という手段を使って日本語教育をしたらどうか」という発想で,昭和45年から栃木県立聾学校で「同時法」として,手話を使った聾教育が始まりました。幼稚部から,小学部3年までは指文字,小学部4年から日本語に対応した手話を導入していくという方法です。
日本語対応手話(同時法手話)では,語順は日本語の語順にあわせ,助詞や助動詞は,指文字や手話と口形できちんと表します。語彙は日本語の単語の対応させて使います。
栃木県立聾学校では栃木県ろうあ協会と共同で『手指法辞典』(問合せは栃木県立聾学校へ)を編纂して使っています。また,より語彙数を充実させた『新・手話辞典』(手話コミュニケーション研究会,中央法規,1992年,現在書店で入手可。)が出ています。
B中間型手話
日本語対応手話と日本手話の中間にある手話というニュアンスで中間型手話と呼ばれるものがあります。主に成人の聴覚障害者と手話を理解する聴者との間で使われています。口話と併用しますが,手話だけになることもあります。
中間型手話では,原則として日本語の語順に従って表現しますが,空間の配置をうまく利用したり,何が話題になっているかを最初に説明するという手話の特徴から,日本語の語順に従わない場合もあります。
手話単語は,日本手話の単語を使うことが多いので,一つの日本語の単語に対して,文脈に応じていろいろな手話単語を用います。
日本語対応手話と中間型手話ではシムコムになります。これは日本手話を使う人にとっては「不完全なコミュニケーション」ということになります。
しかし,教育の場では,日本の社会で日本人として生きていく子どもたちを育てるという目標から,日本語対応手話を導入していくのがよいと思います。日本語の獲得段階に応じて徐々に中間型手話に移行するなど,将来の日本手話への配慮も必要です。
2.「バイリンガル・アプローチ」
「ろうの子どもが自然に習得できる言語は手話であり,まず手話を習得する機会を与え,それを基盤に,書きことばや話しことばを,学力を身につけさせよう,という考え方です。」(『はじめての手話』1995年,木村晴美・市田泰弘,日本文芸社,現在書店で入手可。日本手話の立場からの主張が明確にまとめられています。)
北欧のスウェーデンなどでは,すでにこの考え方に基づいた教育が始まっているといいます。最近,日本でも成人聴覚障害者の中には,まず日本手話を教えて次に日本語を教えるのがよいという考え方を持つ人が出て来ています。
一般に言葉は音声によって表出されます。言葉が生まれてくるときには,身ぶりも音声も同時に発生したのかも知れませんが,人類の長い歴史の中では,音声言語がずっと支配的でした。その音声言語に基づいて文字(書記言語)が発達しました。
ひとりの人間の成長の歴史をみても,身ぶりは言葉の発達に重要な役割を果たしますが,聴覚に障害がなければ,まず音声言語を身に付けて,その後で文字を学びます。
手話を先に教えるバイリンガル教育は,人間の言語獲得はどう行われるのか,という大きな問題とかかわっていて,簡単に結論の出せない問題だと思います。
一般にバイリンガルと言った場合は「英語とフランス語のバイリンガル」というように,音声言語であることは同じです。しかし,ここで主張されているバイリンガルは,一方は視覚に基づく手話であり,もう一方は聴覚に基づく音声言語であることに注意する必要があります。
口話法にどんなに習熟した人でも,健聴者にはかないません。口話法では,聴覚障害者は健聴者に対してどんな場合でも劣等感をもって接しなければなりません。普通,どんな人間でも優れた面と劣った面を持っていて,ある場合には他人に優れ,ある場合には他人に劣るという経験を繰り返していく中で成長していくのですが,口話法だけで聴覚障害者を育てていくと,コミュニケーションという最も人間的な問題で他人に優れるという経験なしに大人になることになります。
手話の問題を考えるときに,このことについて十分留意する必要があります。