さらさらと、雨垂れの降り満ちる音が柔らかく、空気の粒子をやさしく包む。
 桜は散り果てて久しいが、紫陽花(あじさい)の頃にはまだ遠い。
 目にあでやかに映る程、濡れた萌葉が輝く季節。
 暗い灰色に染まる空の下でも鮮やかな緑は、落ちてくる雨粒を受けてはらはらと揺れていた。

 肌寒さを覚えつつも窓を開け放した縁側で、レイはもの憂げに、揺れる紫陽花の葉を眺める。
 広くない庭に、それほど多くの木々が茂っているわけでは無い。
 枝振りを誇るのは、梅と椿と紫陽花。
 他には一山かき寄せたような躑躅(つつじ)が淡く、雨色に煙る景色を照らす。
 今花をつけている木はそれだけで、他の木々はそれぞれに色味の違う緑で目を楽しませてくれている。

 落ち葉を掃除しない庭に落ちる雨音は、柔らかく広がって周囲の気配を消す。道を走る車の音や、立て込んだ周囲の家の生活の音まで消してくれるから、生け垣に囲まれた庭に居てもまるで洒落た山荘に住んでいるような空想に浸れる。

 そうして重く湿った空気は、何故かまどろみを呼び寄せる。
 廊下の端にクッションを寄せて、ひんやりと湿った空気に包まれて、横座りがいつのまにかうたた寝に変わっていた。
 雨垂れの音に包まれて、ただただひんやりと雨が香る空気に包まれる時間は、果てしなく至福の時だ。

 レイは言葉を持たなかった。
 ヒトには心を開かなかった。
 出来るだけ眠って過ごしたいと願うような性質だ。
 自分から何かを求めるとか、何かに関わりあうような事は無い。

 けれど、その純白の肌と真紅の瞳は容赦無くレイに好奇の視線を集める。
 知らぬヒトの無遠慮な好奇心にふれると、まるで自分が晒しモノにでもなってい
る気がして後ずさる。出来れば姿を消してしまいたい。

 この家の住人以外に、心を許せるヒトなど居ない。





−あまおと−




「レイ?」

 自分を呼ぶ声に、眠っていた目を僅かに開ける。
 一番心が落ち着く声。
 シンジが自分を呼ぶ声だった。

「レイ……どこに居るの?」

 気持ち良く眠っている所だったから返事をしないでおこうかとも思ったが、小さな声で囁くように存在を知らせる。

「ああ、こんな所に居たの。……窓開けて、寒くない?」

 本当は、さっきから少し肌寒さを感じながらまどろんで居た。
 それでも窓を閉めたくない気分は察してくれたのだろう、シンジは薄い毛布を持って戻ってくる。

「寝てて良いよ。……雨の音が気持ち良いね」

 そう、包まれるような雨音が、優しく眠りを引き寄せる。
 ふわり、と柔らかな温かさが身体を包んだ。
 同時に、シンジも廊下の端に腰を下ろして庭を眺めはじめた。

「あ、カタツムリが出てきたね。見える? ほら紫陽花の葉の上」

 シンジに言われるまでも無く、その存在には気付いていた。
 けれど、雨に煙る庭に下りるほど酔狂ではない。
 ただ横目でちらりと一瞥しただけで、再びまどろみへ戻る。

「良く寝るねぇ……涼しい日は特に」

 柔らかな言葉を囁きながら、シンジの手がゆっくりと頭を撫でる。
 耳や鼻を指先で愛撫しながら、うなじを手の甲でさする。
 首筋を後ろから撫でられて、レイの耳が僅かに赤く染まる。

「長く降るなあ」

 柔らかな雨音が、二人を包んでいた。
 雨に煙る庭と、縁側の廊下と、二人しか存在していないかのような。

 何時の間にかシンジの膝にもたれかかって、その指先に自分から額を寄せる。
 甘えたようにその顔を見上げると、シンジも微笑み返してくれる。

「寝るんじゃなかったの?」

 自分から邪魔しておいて、等とは言わない。
 眠りたい時の方が、甘えたくなる。
 顔を撫でているシンジの指先に、鼻先で触れてみる。
 応えるように、鼻筋や眉根をそっと愛撫してくれるシンジ。
 さらに顎の裏から首の付け根までを撫で上げられて、甘えるような声が出る。

「ふふ、甘えん坊だね、いくつになっても」

 柔らかな笑みと、柔らかな声。
 このまま膝に抱かれて眠りたいと願う程の。

「ゴメンね、そろそろアスカが帰ってくるから」

 レイの身体に改めて毛布を掛け直して、シンジが立ち上がる。

「大丈夫だとは思うけど、やっぱり降り込むといけないから」

 レイの目の前で、開けてあった窓がゆっくりと閉まった。
 眺めていた庭の緑が、すりガラス越しに遮られて見えなくなる。

「寝てて良いよ。ご飯になったら起きて来てね」

 台所に向かうシンジの後ろ姿。
 その踵のあたりを名残惜しげに見送る。




 そのまま再び眠りに落ちてしまったのだろうか。
 気が付けば、長い廊下は夕闇に包まれて、しんと静まりかえっている。
 いつ眠り、いつ目覚めたのかはっきりしない午睡だった。
 紫陽花の葉の上のカタツムリは、はたして夢だったのか現実だったのか?

 台所の方に、ヒトの気配を感じて身体を起こす。
 丸まって眠っていたせいで縮こまった手足をゆっくり引き伸ばして、大きな欠伸と共に溜め息を吐き出した。

 暗い廊下、暗いリビングを横切って、ダイニングに連なる扉を開ける。
 キッチンで忙しそうに立ち働くシンジの後ろ姿と、椅子に座ったアスカの姿。

「ほら、呼ばないでも起きてきたじゃん」
「あ、ホントだ。おはよ」

 こんな時間に“おはよう”は似合わない、と思って首を傾げながら自分の椅子へ。

 小さなダイニングテーブルの、正面にアスカ。
 今日も一日忙しく、外で働いてきた匂いがした。
 休日はしない化粧と香水の匂いに、かすかに煙草の臭いが混じる。
 アスカは嫌いではないが、煙草の臭いは嫌いだ。
 家では吸わないから良いのだが。

「なあに、じろじろ見て」

 夕刊を読んでいたアスカが急に顔を上げたので、決まりが悪くなって目を逸らした。あの大きな青い瞳で見詰められると落ち着かない気分になるのだ。

 振り返って目に入った、テーブルの端に追いやられている花瓶のカーネーションを嗅いだ。けれど作り物めいた、香料のような香りしかしない。
 そう言えば、この花がテーブルに生けられて一週間も経つのに、ちっとも萎れていない。

「あら、バレちゃった? ママに送ろうと思った造花の残りよ。本物にしといたけどね」

“造花”も“本物”も良く分からなかったが、この花が作り物でしかないと言う事は分かった。
 手を抜かないで、ちゃんと庭の躑躅でも生けておけば良いのに、と小さな声で抗議する。

「ああ、ゴメンね、もう食べれるから」

 何を勘違いしたのか、シンジが振り向く。

「私もお腹空いたわ〜」
「じゃあ新聞読んでないで手伝ってよ」
「はいはい、何したら良い?」

 言いながら立ち上がったアスカが、炒め物をしているらしいシンジの背中に後ろから抱き付く。

「ちょっと、それは手伝いになってないよ」
「支えてあげてるの。お手伝い」
「どっちかって言うと、邪魔」
「つ〜まんないの〜」
「早く食べたいんなら、サラダボウルを出して冷蔵庫の野菜を盛り付ける」
「はいはい」

 冷蔵庫に冷やしてあった野菜とドレッシングを簡単に盛り付けて、アスカがサラダを作った。その間に、シンジが焼いていたハンバーグとスープを盛り付ける。

「う〜ん、美味しそうなサラダね」
「ハンバーグは誉めてくれないの?」
「サラダは自分の盛り付けを誉めたのよ」

 真っ赤なトマトの並べ方ぐらいはアスカの貢献を認めても良いかもしれないが、料理は全部シンジの作だ。
 ご飯をよそって、レイから見て左の席にシンジが座って、ようやく夕食が始まる。

「レイはハンバーグは駄目でしょう? これ上げるわ」

 そんなに物欲しそうな顔をしていただろうか。
 アスカが目の前のテーブルの上に海苔とスルメを千切ってくれた。
 臭いを嗅いで、お腹が空いて目が覚めた事を思い出した。

「おやつは良いよ。今は缶詰開けるから」
「あら、そう?」
「そうだよ。味が濃い物に慣れちゃうと年取ってから大変なんだって」
「何が大変なの?」
「人間の食べるような香辛料は、内臓に悪いんだって」
「そうなの。それで缶詰は味がしないのね」
「また美味しい煮干買っといてあげるね」

 口に張り付く焼き海苔を苦労しながら噛み切っていると、シンジが頭を撫でてくれる。

「煮干は良いの?」
「ダシ用の天日干しは良いみたい」
「ふ〜ん、贅沢ねえ、アンタ」

 おやつより、早く缶詰が欲しいと思ったので催促してみる。

「はいはい、缶詰開けるね」

 ご飯を食べかけで、シンジがレイの為に席を立った。
 ちゃんと通じると、嬉しくなる。
 考えている事、感じている事が全部伝われば良いのに。

「マグロはいまいち喜んでくれないんだよね……白身魚にスルメのトッピングが最近のお気に入りだっけ?」
「どーでも良いけど、だんだん贅沢になってるわよ、この子」
「それはアスカがたまに高い缶詰買ってくるから」

 缶詰の味なんかより、美味しい物を食べさせようとしてくれる心遣いが嬉しいのだが。けれど、そんな複雑な気持ちはちょっと表現しきれない。

「はい、お待たせ」

 ありがとう。
 感謝の気持ち。
 今日も、アスカとシンジに見守られて夕餉の時間を共に過ごす。



 シンジとアスカが、拾った真っ白な仔猫に“レイ”と名付けてから、もう五年が過ぎようとしていた。


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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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