洗面器にいっぱいの水を貯める。

 その中に片手を浸す。

 カッターでもかみそりでも構わない。

 それの刃を手首に当てる。

 刃に力を込めて、勢いよく引く。

 たちまち透明な水に混じる、僕の、鮮血。


(誰も来ないでほしい、誰も来ないで…)


 そう願っている時に限って、誰かが僕の部屋に入ってくる。

「シンジくん!」

 今日は、ミサトさんか。

「なに、あんた馬鹿なことしてるの!」

 ミサトさんは僕と部屋に似つかわしくない洗面器を交互に見る。
 ジャンパーのポケットから携帯電話を取り出して、おもむろに番号をプッシュする。

 僕はその血相を変えたミサトさんがおかしくて、クスクス笑ってしまった。
 その僕の髪の毛をミサトさんは力いっぱいに引っ張り上げる。

「あんた、自分がなにやってるのか、分かってるの?」

「手首、切ったよ」

「……あんたねぇ!」

 ミサトさんは僕の頬を張った。
 張られた勢いで僕は床に倒れた。

 一緒に満杯の洗面器の水がカーペットにこぼれた。
 倒れた僕の、切った手首と傍をミサトさんは止血する。

 止血したって無駄なのに、僕は思う。
 でも、ミサトさんは目に涙を浮かべて、うわ言のように呟く。

「死なないで、死なないで、シンジ君、死なないで……」

 何でそんなに人は生きることに執着するんだろう。
 僕は最近、毎日、そんなことばかり考えながら過ごしていた。

 アスカは最近、家に戻ってこない。

 ミサトさんは加持さんを失ってからふさぎ込んでいるまま。

 綾波は昔の綾波じゃない。

 みんな、何かに向って動いている。

 それも負の流動。

 僕は、どうしたらいいのだろう。







答えが見つからぬまま、僕が真っ先に思い付いたことは、自殺、だった。

















への執






NOVEL by (やまとよしかず改め)ヤマトヨシカズ



















 手首を切った数分後には、僕は救急車に乗せられていた。

 行き先はいつもの通り、中央メディカルセンター。

 救急車の寝台に僕は寝かされていた。
 輸血ストックのチューブを腕に刺し、手首は仮縫合されて氷で冷やされていた。

「かろうじて意識があるのは発見が早かったからだ」

 僕の傍らで泣いているミサトさんに救命医師が話している。
 何故、ミサトさんは泣いているのだろう。

 僕には分からなかった。

 加持さんを失ってから、ミサトさんは泣いてばかりだった。
 アスカが家を出てから更にミサトさんは泣いていた。

 泣いて泣いて、泣けば加持さんが戻ってくるのなら、泣けばいい。

 でも、加持さんは帰ってこない。


 ミサトさんは二度と帰ってこない加持さんに泣いているのか。

 それとも、加持さんと言う慰めを失ったことに泣いているのか。

 僕にはミサトさんの心理なんて、到底、分かりっこなかった。

 アスカも、アスカで、なんで家を出たのか僕には皆目、検討がつかない。


 もう僕は、僕でいることすら、ままならなくなっていた。

 少し少しずつ、僕は僕でいることが辛くなっていた。

 一人、また一人、僕から去って行く。

 トウジ、ケンスケ、委員長、アスカ、ミサトさん、綾波…。

 みんなの心がバラバラになっていく。


 それが嫌だった。

 そんな現状が嫌だった。

 それを直視できない自分が嫌だった。

 誰も僕を見てくれない現実が僕は嫌だった。


 手首は丁寧に縫合され、その上にガーゼを当てて、さらに柔らかい包帯で患部を覆われた。

 体液の8分の1を失っているために、僕は1週間、病院で絶対安静を命じられた。

 輸血と栄養剤の点滴を両腕に受けて、僕は個室のベッドに横たわっていた。

 幾度と無く眺めた、白い、天井。
 懐かしくもあり、また恨めしくもある、天井。

 ミサトさんは入院初日に僕の身支度品を持ってきて以来、ここには姿を現さない。

 アスカは同じ病棟にいるけれど、僕よりも重度の病に冒され、面会謝絶らしい。

 綾波は、まず、来る筈がない。

 トウジ、ケンスケ、委員長は度重なる使徒の襲来やエヴァ損失などのことから、どこかに疎開した。

 みんな、来ない。

 誰も入ってこない、病室。

 蝉の鳴き声がうっとうしいだけの、病室。


 泣くばかりのミサトさんに僕はなにも声をかけられなかった。

 失意のアスカにどう声をかけていいのかわからなかった。

 3人目の綾波とどんな会話をしたらいいのか、言葉に窮する。

 もう、僕には誰も頼れる人はいない。

 自分に頼ることも出来ない、臆病な僕。


 だから、自殺を決めたのかな?








 入院して4日目のお昼過ぎ。

 相変わらず、蝉の鳴き声は激しい。

 その部屋の中に見舞い客が現れた。

 僕は驚いた。

 頭に包帯、目に眼帯をつけた3人目の綾波レイが篭にいっぱいの果物を持って、やってきた。

 彼女は部屋に入って来てもなにも言わず、勧めるでもなく、僕のベッド横の椅子に座った。

 僕は動くことができないから、横たわったまま、ぼーっと天井を見据えていた。





 1時間、2時間、3時間。

 僕は綾波と、なにも喋らなかった。
 しかし、綾波はじっと黙って、椅子に座っていた。





 ふと、サイドテーブルの引き出しを綾波が開く。
 中にミサトさんが用意してくれていた、果物ナイフがあった。

 綾波はそれを取り出して、僕にぼそっと話し掛ける。

「リンゴ、食べる?」

 僕は頷いた。

 丁寧にラッピングされた果物バスケットの中から、リンゴを1つ取り出す。

 傍の洗面台でリンゴの表面に付いたヌルヌルを綾波は拭い取る。
 水滴が付いたまま、綾波は慣れた手つきで果物ナイフの刃をリンゴの皮に当てる。

 するするとリンゴの皮を剥く綾波。
 その姿に、僕は殆ど覚えの無い「母親」の姿を重ね合わせる。

 前に初号機にサルベージされかけたことがあった。
 エヴァの中で、僕は母さんに話し掛けられたような感覚に落ちた。

『我が子に、死んで欲しいと思う母親なんて、いないわ』

『むしろ、他の子を押しのけてでも生きていてほしいと願っているわ』

「だから、元気になって」

 僕は、はっと綾波を見た。

 いつのまにか、綾波の手の中のリンゴは何等分かにされて皿に乗せられていた。
 綾波はどこからかもってきたのか、その爪楊枝に小さく切ったリンゴを突き刺す。

 そのリンゴを僕の口元に持ってきていた。

「食べて」

 僕は口を開けて、そのリンゴを食べた。

 久しぶりに食べたリンゴの味。

 無性に僕は嬉しかった。

 久しぶりに人のぬくもりを感じた。
 いや、感じずにはいられなかった。

 1つ屋根の下で暮らしているミサトさんに感じられなかった、ぬくもり。
 それをどうして、僕は綾波に感じたのだろう。

 僕にはどうしても分からなかった。

 けど、僕には綾波が剥いてくれたリンゴが、「人のぬくもり」を伝えてくれた。
 その事実が僕には嬉しかった。


 綾波が帰り際に僕の方を見て、言った。

「あなたがいなくなったら、みんな、悲しむわ」

 その言葉。
 僕が何度も僕の頭の中を駆け巡る。

「あなたがいなくなったら、みんな、悲しむわ」

 何度、僕はこの言葉を自分に言い聞かせ、何度、他人の口から聞かされただろう。

 言い聞かせ、聞かされて、その度に納得していた、僕。

 けど、それは何時の間にか記憶の隅に追いやられ、また死に魅入られる、僕。


 僕なんかいらない。

 僕がいなくても他の人がいる。

 僕が欠けても、世界は正常に動き続ける。

 僕はいらない人間。

 僕は地球上にいる小さな人間の1つでしかない。

 僕に誰も求めていない。

 僕を頼ってくれる人はいない。


 僕は、要らない存在。


 でも、綾波は僕に言った。

「あなたがいなくなったら、みんな、悲しむわ」

 その言葉が僕に生への執着心を湧かせる。

 でも、いつもの執着心じゃない。

 心に染み渡る、綾波の言葉。

 もしかすると、気休めかもしれない。

 でも、僕はその言葉に思わず、泣いた。
 綾波が帰った後、僕は鳴咽を零して、泣いた。

 そのひと言が人を傷付け、そのひと言が人を救う。

 僕は確かに、綾波の言葉で鬱蒼とした闇から、眩い光に満ちた世界に抜け出た。






 退院の日の夕刻、僕はミサトさんの迎えを断って、1人で家に帰ろうと病院を出た。

 歩いてしばらくしたところに出現した、湖。

 2人目の綾波が零号機ごと自爆して、街は無くなった。

 街だったところはいつの間にか、水が張られていた。

 その場所、その湖畔に僕はじっと佇む。

 零号機を彷彿させる、石像のような、それ。

 それを眺めながら、僕は得体の知れぬ恐怖と悲しみに襲われる。

「あなたがいなくなったら、みんな、悲しむわ」

 不意に蘇る、綾波の言葉。

 僕は弾かれたように石像の方を振り返った。

 それまでいなかった筈の少年が、鼻歌を唄っていた。

 少年がこちらに振り向く。

 屈託の無い、笑み。


「やあ」


 その少年が僕に投げかけた笑顔に、僕は応えるように、笑った。



「やあ…」



<終>





純愛進化研究所(笑)に戻る

感想はこちら→くりゲストブック