夏の終わりのコンチェルト 第一部
written by しのぱ

▼第一章

 夕立が来そうだった。
 空気に暑い湿気が、弾けそうに含まれている。

 少年は、弓を持った手の甲で額の汗を拭い、左の掌をズボンにこすりつけた。
 それから、椅子の横に寝かせてあるケースからシリコンクロスを取り出すと、弦とフレットを拭きとった。

 蜩の声が聞こえる。
 風は凪いでいる。
 それでも時折、開け放たれた窓を通じて多少空気の流れがある。

 ここに来てからは、近隣の住民を気にすることなく、窓を開けたまま、練習が出来るのが嬉しかった。

 別荘は湖に落ち込む斜面に、杉の林を背にして立っていた。正面のテラスからは湖面を見下ろす事が出来る。岸辺には、一本道で辿りつけ、そこは幅が数メートルの砂浜になっていた。砂浜に沿って車道が通っているが車は殆ど通らない。鉄道の駅は対岸にあって、集落も近くにない、この辺りまでは物好きでもない限り観光客はやってこないのだ。
 その代わり、ここに住むものは買い物などの用を足すには多少の不便は覚悟せねばならなかった。

 少年はもう一度楽器を構えた。
 音の立ち上がりを思い浮かべながら、弓を弦に落とす。
 音は、床の上を滑り、テラスへ抜け、そして湖に向かって拡って行った。

 残念ながら夕立にはならないまま、その日は寝苦しい夜を迎えた。

 涼しい。

 さすがに高原ならではの朝の清涼な空気である。
 少年はいつもの様に、道を下って浜に出る。
 まだ、行楽客達のボートの類は見えない。沖に2〜3隻の慎ましやかな漁船の影が見えるだけだ。
 そして湖面である。
 朝のこの時間の湖面はゆったりと波を湛え、その波頭を見ていると自分がゆっくりと沖へと運ばれて行くような錯覚を覚えた。
 そんな風に少年は毎朝の湖を眺める事にしていた。

 朝食まではまだ少し時間がある。
 少年は少し浜を歩く事にした。この浜は湖の辺を途切れることなく、ずうっと続いていた。
 その幅は、ここではほんの数メートルしかないけれど、そのまま対岸の方へ回っていくと、次第に広くなり、ホテル街の辺りでは、湖水浴客のための施設が並んでいた。
 遠くその辺りでは、朝の散歩に出た観光客らしい人影が数人、小さく見えていた。

 すぐ近くに行くまで、少年は彼女がそこに座っていることに気が付かなかった。
 栗色の髪を両脇に束ね、白い大きな帽子を被った少女が、砂浜に無造作に沖に向かって座り、頬杖を付いている。
 淡い臙脂のワンピースのノースリーブの肩口から出ている腕の白さに、少年は覚えず動揺してしまう。
 少女は少年に気付くと、ゆっくりと頭を巡らして少年の顔を見据える。

 蒼い瞳。外人?。

 薄いピンクの唇が少年の眼に突き刺さる。
「あ・・」と言ったなり、少年は赤面してしまう。

「あんた、この辺の子?」

 少女がぞんざいな日本語で問い掛けてきた。
 少年は少しほっとする。が、動揺して答えられないことには変わりは無い。
 少年は言葉にせず、変わりに首をやや大袈裟に横に振った。

「そう?、でもホテルに泊まって訳じゃないわよね。
 ここまで随分あるもの・・・・・・・
 分かった、じゃ別荘住まいってわけぇ?」

 その問いに何となく、気恥ずかしいものが感じられたので、少年は今度も頷いて見せるだけにした。

「ふ〜ん・・・・」

 それから少女は少年に関心を無くしてしまい、視線を沖のほうに戻してしまった。
 そうなると、少年も言葉の掛け様が無かった。
 暫く少年は、何となくその場に立っていたけれど、少女に取り付く島も無いので仕方なく諦めて帰る事にした。

 父は、ここへ来て3日で、また旅に出てしまった。
 これから1週間程少年はこの別荘で、一人で過ごすことになる。とは言っても実はすぐ近くに管理人の老夫婦が住んでおり、食事の支度から洗濯、あるいは建物の傷んだ個所の修繕等は彼らの手によってなされるので、少年が本当の一人になれるのは、深夜から早朝にかけての時間に限られている。
 そして、少年にとっては実は、そうした生活が普段よりも一人でいる時間の少ない生活なのである。
 都会では、そこが彼の住居なのだが、何時も一人で生活している。
 父は滅多に帰らない。以前は家政婦などを雇っていたこともあったけれど、悉く少年の神経には耐えられず、お払い箱になってきた。そうして父は、少年に一人で暮らすに任せることにしたのだ。彼にはそれ以上に最早出来ることは無いと思ったのだし、事実彼が捨てる気の無いものを捨てずして少年の為に出来ることは本当に何も無かった。

 父。

 少年は、未だに父の前で萎縮する自分を感じていた。そうしてそれを恥じていた?。いやそうではない。以前からずっとそうだったのだが、それは単純素朴な戸惑いに過ぎない。そうであるはずではないものを目にしたときの人にありがちな当惑。それが長年解決を見ないまま、猶悪い事に”当惑”だと知られることの無いまま鬱積したもの。そうした変種に過ぎぬ感情を少年は持て余していた。
 少年はそれを誰に告げる事も出来無かったのだし、また一人で生活する人物に有り勝ちな事として少年は自分の感情生活を話題にしえるものとは到底考えつかなかったのだ。
 そうして少年は父とぎくしゃくした会話を執り行う。行わなければならぬことのように、ただ失敗した言葉のやり取りを正確になぞるようにして。

 一方で少年にとって父の行う事は良く理解できた。碌に説明もなされぬまま目にし続けた父親の行為を模倣することで、彼は自分にとってのその行為の意味を与えた。
 チェロを弾くということ。それよりも少年が最も理解していたのは、むしろ「練習する」という行為の事だ。

 父は家にいる時はその殆どの時間を練習に費やしてきたのだ。それを少年はずっと見続ける。一緒にいる時間の短い親子にとって、練習時間とは言えど共に過ごす時間には変わりなかったので、父は少年が練習する自分の傍らに居続ける事を許したのだし、少年も父の練習を中断させるようなことは全くしなかった。

 練習と言うものを彼は、ただ機械的反復としてでも、あるいは恣意的な修練としてでもなく理解出来ていた。それは父の為しようを見て自然に身についた直感だった。
 父は、いつもある”音”を捜し求めるのだ。それは例えばある短い楽節の、アウフタクトの四分音符1つの音の可能性というようなものだ。
 父はそれをそのように弾いてみる。だが、その音はその楽節には如何にも余所余所しい。そこで、彼はその四分音符のニュアンスを探るための反復に入るのだ。弓はダウンからか、アップからか?。
 弓のどの位置から始める?。あるいはその角度は?。駒近で弾くのか?。そのときの左手のビブラートは?。その無数の取り合わせの可能性をその反復は聞き分ける事にも似ている。
 そうして何時か、その楽節にぴったりとくる音を探り当てる。後は、その探り当てた宝物を何時でも好きな時に召還出来るようにするだけが課題として残される。
 幼い頃から父のそうした行いを聴いて育った少年は、やがて父が望む音を探り当てた瞬間を察することが極自然に出来るようになった。その瞬間を少年はぞくぞくする快感と、そして父と心が通じているかに思える充足感からこよなく愛したのだった。
 やがて父は少年にも楽器を宛がった。少年はチェロを所望した。それは全く当然のように思われたのだ。こうして父の居ない日々を少年はチェロを練習することで過ごすようになる。少年の父の友人が、少年のレッスンを見ることになった。

 その教師は程なくして、少年が並々ならぬ才能と、そして信じられない非常識との混交であることを見抜く事になる。
 少年は、どんなフレーズでさえも信じられないほどのファンタジーに変えてしまうのだ。それは少年が一音一音を父がしたように、”音”を探り当てることで完成させているからなのだけれど、何れにせよ、退屈極まりない初心者向けの練習曲集を深い幻想的な音楽に満ちた音世界に変えてしまえる天才、そうした天才に巡り合う幸運を教師は、少年の父に感謝せざるを得なかった。
 だが、一方でこの天才児は演奏家として決定的に非常識だったのだ。彼にとっては演奏することには全く意味が無いのだ。彼に意味があるのは全て練習のみ。その結果を演奏することは全くの蛇足に過ぎない。そうして彼は父の職業としての演奏活動すら全く理解していなかった。と言うよりも驚くべきことに少年は父の職業をすら知らなかったのである。
 教師は少年にコンクールを受けることを頻りに薦めたのだが、全く少年の興味を惹く事は出来なかった。
 そして何より、教師にとって驚きだったのは、少年が曲の価値を全く感じていない事だった。少年にとってはバッハの無伴奏チェロ組曲も、教則本の無味乾燥な練習曲も全く等価だったのだ。それは単に音の価値を探り当てるべき音符の塊に過ぎない。
 これは演奏家として致命的な欠陥なのだろうか、と教師は虞もしたが、少年の弓が紡ぎだす音を聴くや忽ちそうした杞憂も影を顰めてしまうのだった。

 レッスンは驚異的なスピードで進んだ。

 と言うのも教師がする事は、少年が聴き当てる作業を促進する事、そして聴き分ける候補の数を増やすために幾つかの技術的なアドバイスを時折挟むこと、に限られていたのだ。後は猛烈な勢いで、楽譜の中から、まるで彫刻家が石の中から人物像を削りだすように、少年が音楽を掘り起こすのを見ているだけで良かった。

 かくして弱冠14歳になった少年に対し、音楽大学の教授職を持つ、その教師は自分が最早何も教えるものを持っていないばかりか、場合によっては少年の目からすればとんちんかんなアドバイスしかなしえない事を自覚するに至ったのだ。
 そしてこの夏からは、ただ只自分の音を探すだけの毎日になった。
 父は、友人であるその教師から少年の進み具合を聞いていた。この別荘に来た最初の三日間を父は少年の練習を見る事で費やした。そうして三日目に父は深い満足の笑みを浮かべて少年に言った。

「よくやったな」

 少年はとても嬉しかった。
 それは初めて聞く言葉だったから。

 その日は朝から曇っていた。
 湿度が高く、息が詰まりそうな感じさえした。

 少年は朝食を終えると、何時ものように湖に向かった部屋でチェロの練習を始めていた。この部屋は湖側に大きな窓があり、そこから湖を見下ろすテラスに出られた。
 やがて、空気からは朝の清々しさが消えて、熱気を帯びた湿り気が辺りを支配し始める。
 少年のまとったTシャツの首周りも汗を吸い重くなってきていた。

 気が付くと彼女が居た。

「へぇ、うまいじゃない」

 少女は開け放たれた窓枠に凭れ掛かるようにして立っていた。
 逆光を背にしているので、こまかな柄などは分からなかったけれど、ノースリーブのワンピースに、白い大きな麦藁帽を被っている。
 声や、陽光を孕んで艶やかに光る髪の色は、紛れも無く彼女だった。

 突然の闖入に、少年は飛び上がるほど驚いた。

「えっ、あ、あのぉ・・えっと・・」

 頬に血が上っているのがありありと意識される。

「ごめん、驚かせた?」

 そういうと彼女は部屋に入ってきて、ソファに鷹揚に腰を降ろす。漸く、少年は彼女が着ているのが先日と同じ色のワンピースであることを知る。

「あの・・ど、どこから・・・・」

 少女は一瞬怪訝そうな顔をしたが、少年の質問の意味をすぐさま察した。

「ああ、そこのテラスから」

 事も無げに言うと少女はにっこり笑った。鼻の頭に汗をかいている。
 少年は思いがけない答えに、半ば抗議するかのように声を上げる。

「だ、だってそこ・・・」

 テラスは聊か急な斜面の上に張り出しているので、先端部分の柱の高さは凡そ5m程はある筈だ。

「登った」

 少女は当たり前と言わんばかりの顔だ。

「それよか、もう少し聞かせてよ」

 そして彼女は少年の瞳を何の衒いもなく見据える。
 蒼い虹彩に射貫かれる。その眼差しに少年は思いがけない快感を見出していた。

 ――音楽に似ている。

 それは音楽という言葉と共に少年にとって未知に近い着想だった。音楽という言葉を確かにチェロの教師は使った。その言葉は、初めて聞いたときから、少年には余所余所しい言葉だった。何故ならその様に名付けられるものとして彼は何も見出せなかったのだ。それは、音を探り当ててゆく行為の事なのだろうか?。それとも探り当てた全ての音を並べてみせる、あの「曲を弾く」という行為のことなのだろうか?。あるいは、―そしてこれが最も彼には理解しがたいことだったのだが―「楽譜」に込められていると、彼の教師が考えている何かのことだろうか?。だが、いずれを指すのだとしても、それを名指すこと自体が少年には「酷い」ことのように感ぜられたのだ。柔らかな肌に焼印を押すにも似た酷い仕業を、ただ言葉を用いるだけで招き寄せてしまう。だから少年はなるべく音楽という言葉を用いないようにしてきたのだ。

 しかし、今突然、「音楽」と言う言葉が彼女の眼差しに結びついた途端、ある意味を帯びて感じられたのだ。それは言葉が自らの本当の姿を告げたかのように、言葉自身が語られるべき場所を指示したかのように。

 だから、少年は暫く少女が何を言ったのかを聞いては居なかった。聞き取ったのは「音楽」ということ、そして目の前の少女自身だったのだから。

「ねぇ、駄目?。聴いてると弾けないかな」

 懇願しているように言いながらも、少女には、拒否されるという惧れは微塵も感じられない。必ず叶えられると信じている、いや信じるどころか、疑うことを知らない素直さで微笑んでいる。
 ようやく、少年は彼女が何を言っているのかを理解した。しかし何を聴くのだ、と?。
 当惑する。レッスンを受けると言うこと、その為に誰かを前にして弾くということは少年にとって当然の事だった。けれど、それは少年が見出したことの証人になってもらう事に等しい。そのようにして、少年は自ら行う事に立ち会われる、という形でしか弾く行為を他人と共有した事は無かった。父の練習を聴いているのも、それは言わば徒弟として―そう、徒弟は実は師匠の技を証拠するべく立ち会うのだ―そこに秘儀の伝授という共謀を成し遂げることに他ならなかった。
 だから「聴かせる」という事、弾くことを誰かに差し向けるということが、少年には当惑すべき事だった。彼女に?。それとも彼女に立ち会ってもらう、のか?。

 少年は、暫くぽかんと少女の顔を見つめていた。居心地の悪さと共に、澄み切った瞳に貫かれる心地良さ。自分と彼女の間の、間合いの心許無さが居心地の悪さの原因だった。
 だが、答えは彼女の眼差しに予め示されていた、と突然気が付く。
 その瞬間の事を、いやその後の数日のことを少年は後に、一つの覚醒として思い出す事になる。

「音楽・・・・を?」

 少年は自分の発した言葉を訝るようにして少女を見つめる。

「そう。
 聴かせて」

 少女はにっこりと笑みを返す。

 何を弾こうか、と、そうして少年は「曲」が誰かに差し向けられて初めて意味を持つことに気が付く。彼女の顔を見ながら、彼女に差し向ける音としての曲を、彼女への配慮としてのものとして意識する。その途端、気恥ずかしさが彼の頬を染めた。
 何を?。様々な、曲を彼は思い浮かべるけれど、どれもが何か違っている。それは当然のことだった。何故ならいずれもが彼の「素材」として扱われたものでしかなかったから。
 そして不意に決心する。
 一昨日、父が置いていった楽譜の中で見つけた曲。
 それは協奏曲というものであること、そしてドボルザークと呼ばれる作曲家のものであることを少年は知っていたけれど、そのことにそれ以上に意味は無かった。
 楽譜には奇妙に休みが多かったが、その間を他の楽器群が埋めるものであることは理解していた。ただ、チェロのパートに盛り込まれた音群が少年を今惹き付けていたのだ。
 これまでのレッスンで取り上げられた楽曲は概ねが古典派止まりであった為、それは少年の初めて知るスタイルだったせいでもある。
 けれど、それを弾こうと思ったのは、しかも彼女に「聴かせる」ためにそれを選択した理由は少年にも良く分からなかった。ただ、その「音」ならばそれに相応しい、と思えた。
 少年は、その楽譜のために未だ全ての「音を見出し」ては居なかったのだけれど、直感的に音が見出されるには、今、彼女に聴かせるような場でなければならないと知ったのかもしれない。

 この曲には長いオーケストラによる序奏が付いている、いやそもそも主題提示部の殆どはオーケストラが行うのだが、そうして第一主題も第二主題も提示し終わってから、チェロは恰も主題提示を回顧するかのように一人語りを始める。
 だから少年はそこから弾きはじめる。そのパッセージが回顧する筈のオーケストラのテュッティを彼は一度も聴いたことは無いのだけれど、回想することが未知の思い出を逆になぞって行く。そのもどかしさが、今日は少年に何時もより音を多く見いだせてくれるように思われた。
 何故だろう?。ちら、と少年は少女の方を見やる。居心地の悪い感じはまだ続いている。
 間合いの曖昧さ。けれど少年は音を紡ぎつづける。

 彼女には彼の非凡さが良く分かった。と、同時に彼に決定的に欠けているものも。それなくして音楽が有り得ぬ程の欠落が。けれど彼女は自分の耳の確かさを感じていた。彼は、正しく見出されるべき者だった。
 単音はパッセージを作りパッセージは更に楽節を、そうして主題をあるいは変奏を、そうした多層の構築を組み上げる。少年の才は、その隅々までに命を吹き込み、そうして時間の中での壮麗な建築物を出現せしめていた。
 それは正しく天才的な構築物だった。

 と同時に、それは空虚だった。

 曲が指し示すところを彼自身が全く理解していないのは明らかだった。既に、古典派の均整の取れた形式を超えて出てゆこうとする不穏なもの、それがドボルザークの時代の音楽に現れていた。ロマン派以降の音楽とは言わばアイロニーなのだ。構築するそばから崩れ流れていこうとする、意図しない意志。だが少年の才は却って全ての均整の中にそうした流れを閉じ込めてしまう。
 少女はその空虚さに少年が違和感を感じ苦しんでいることも読み取ってしまう。何かがおかしい、と彼は感じているのだ。
 だから、少女は確信する。彼だ。彼ならば・・・・。

 一楽章を終えた時、少年は失望を感じていた。確かに音は、見つかったけれど、何かを取り逃した感じ。それに惹かれていた筈の何かは、少年の手をすり抜けてどこかへ消えてしまった。弾き来たった記憶は今や色褪せた空虚のように思われ、少年は胸が痛くなるような切なさに囚われる。そうして信じられない、と言う顔で少女の方を見る。
 窓の外から、蝉の声が押し寄せてきていたのに気が付く。

「素敵ね」

 と少女は静かに言う。それは部屋の中の空気を切り裂いて少年の耳に届いたかのように響く。
 少年は俯いた。顎を伝って汗が床に落ちる。それと共に涙も。
 その少年の肩を少女は後ろに回ってそっと抱きしめる。
 少年は驚いたけれど、どこかで安堵と満足を感じている。そんな資格などないのに、と呟きながら。

「ねぇ、これからちょっと出れない?」

 少女は耳元で囁いた。
 頬に間近く少女の体温とにおいを感じる。
 蝉の声が一際高くなった。
 少年はそれが自分の鼓動の音を掻き消してくれると良いと思っていた。
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