▼第二章

 男は湖畔沿いの県道をひたすら歩いていた。噴出す汗が背中を伝って腰まで流れ落ちる。否応無く、自分の体の汚れを感じながら、どこにも逃れ様の無い真夏の陽射しに焼かれて、ただ歩く。
 車は殆ど通らない。

 Tシャツにバックパック。靴底の厚いスニーカは確かにハイカーのように見えないことは無い。
 とは言え、疎らに生えた無精髭の顔の色は、アウトドアスタイルを裏切って白かった。
 男の顔にはどこか年齢不詳に見えるところがあった。肌からみれば、最早二十代前半より若いとは到底見えない。室内で仕事をする者特有の、こうしたリゾート地に置くと不健康そうな白い肌には生活が染み付けた疲れによるくすみを見せていた。その一方で、加齢による浮腫みは看られず、恐らくは十代からそうであったように、精悍な顔付きは維持されていた。そして、その目は時折子供のようにはっとする煌きをみせるものの、どこか自堕落なだらしなさを漂わせている。

 彼は、もう既に20kmは歩いている。座席を予約してあった新幹線を彼は凡そ方向違いな所で降りてしまい、鈍行を乗り継いで県境を越え、それからはずっと歩いている。
 単純な事ながら、これだけで今の追っ手の状況ならば跡をくらますことは出来るだろう。
 もっとも、それは男の身元が割れていなければ、という限りに措いてなのだけれど。
 祝祭の後の、この始末は一体何なのだ、と思いながらも、今の心の空っぽさは却って心地が良いのだ。いやそれどころか男は上機嫌だった。
 湖面を風が通り過ぎ、その向こうの山を低いまばらな雲が掠め飛んでいく。

 これから向う先には未だ、連絡は入れていない。PHSも携帯も持っていない。そんなものを所持していればすぐ足が付くからだ。自分の素性が割れているとは思えない、いや、思いたくはなかったが、万が一にも先方の電話が盗聴されているとすれば危険を冒すわけには行かない。
 まして、それが先方を巻き込むことになるのならば。
 それにしても暑い。男は、車道を挟んで山へと入る小道を見つけた。仄暗い涼しげな木陰の道の誘惑は殊の外強かったし、急ぐ訳でもなかったから、そのまま引き込まれるようにして男は道を辿っていった。

 小道は、良く手入れされていた。坂になっていて傾斜は緩やかとは言い難いものがあったけれど、要所要所に丸太で階段が刻まれ、その上で下生えも、落ち葉も無かった。恐らくはこの道を登ったところが誰かの別荘なのだろう。今時車を入れる事すら出来ぬ小道を入り口にしたところが、却ってそうした事柄は恐らくは近在に使用人を住まわせ、用のある時のみ呼びつけるという貴族的な習慣を思わせた。
 いずれにせよ、この道はそう簡単には別荘にたどり着きそうには無いようだ。道を覆って陽射しを遮る周囲の木々も、一見自然の雑木林と思わせて、その実、丁寧に刈り込まれ剪定された「庭木」に違いなかった。

「ヒュー」

 男は、一山丸々が敷地である、豪勢な別荘に迷い込んだのだと気付き、やや皮肉めいた嘆声をあげた。ある意味で、ここは彼が転覆せしめようとしている者達の誰かの持ち物であり、逃避行を続ける彼がその中で暑気から守られているのは皮肉と言えない事も無かった。
 けれど、彼の「行動」と同様、ここに安らうテロリストのことを先方は知る由もなく虚しい一人相撲には変わりが無い。

「ねぇ、どこへ行くの?」

 と、その時、小道を降りてくる声を聞き、男は慌てて道の脇の茂みに身を隠した。
 降りてきたのは、淡い臙脂のワンピースを着て、白い大きな麦藁帽を被ったすらりとした手足の少女、そしてその彼女の後を、大きなケースを担いで聊か覚束なそうな足取りで追ってくる、どことなく頼りなげな少年だった。

「いいとこ・・・・って、楽器重くない?」

「・・・そんな・・でもないけど」

 と答えながらも、少年は多少息が切れているように見えた。
 そのケースは形から見て、どうやらチェロらしい、ということは男にも分かった。しかしこんな道を担いで降りてくるのなら、何もハードケースにせず、ソフトケースで持ち運べば良いのにと思わないではいられなかった。それくらい、痩せた少年の体躯に、チェロの大きさは凶暴なダメージを与えているように見えたのだった。
 ジーンズ地の半ズボンに、白いTシャツ、と言った出で立ちの少年の顔は少し尖った顎を除けば、柔らかな感じの、どちらかと言えば女顔であり、さらさらした髪も含めた印象は「綺麗」とでも呼ばずには居られないものだった。

「ちょっと歩くわよ」

 少女はそっけなく言った、けれど傍目にも少年をそれとなく気遣っているらしいことは伺えた。

『おやおや』

 男は思わず、微笑んでしまう。

『中々隅に置けないねぇ』

 これから向おうとしていた、その当人に、偶然にも出くわすことになるとは。その上、彼の「姪」のボーイフレンドにもお目にかかれるとは。
 それでも、男は二人の前に出て行こうとはせず、そのまま茂みの中で二人をやり過ごすことにした。
 そして、彼女の家には、1時間以上間を置いてから行くことにした。

「昨日、午後6時過ぎに起きた、東京都新宿区○○町にある株式会社□□の本社ビルロビーでの爆発事故について、本日午前10時、警視庁は記者会見を開き、新左翼系武装集団『ダチュラ』と名乗るグループから犯行声明を受け取った事を明らかにしました。
 声明によりますと、今回の犯行は、先月発覚した与党▼▼党元幹事長他と財界との癒着疑惑に対する天誅を加えたもの、とされており、現在、警視庁では現場検証と併せ、当該グループに関する事実関係の収集を行っているとの事です。武装集団『ダチュラ』と名乗る犯行声明は今年2月の金融監督庁前派出所爆破事件を始め、1昨年来既にその犯行件数は20件にも上っていますが、未だ構成員に関する何らの情報も分かっておりません。
 首都圏は、来週東京で開催される先進国首脳会議サミット備えて当別警戒体制に入っており、今回の事件はサミットの警備体制の信頼性を損なうものであることから警視庁では犯人逮捕に全力を挙げて取り組むと共に、首都圏警備体制の増強の検討を始めると警視庁筋の幹部は語っております。
 では次のニュース。本日、ニューヨーク外国為替市場では円が乱高下し、一時・・・・」

 彼女は、苛立ちながらテレビのスイッチを切った。

 髪を金髪に染め始めたのは何時の頃からだろう。
 大学生の頃は未だ染めていなかった筈だ。というよりも学生時代の彼女はむしろ、化粧をすること・装うことそのものに対して漠然とした虞を抱いていた。それでいて、その無根拠な虞に直面することも嫌っていたせいもあり、進んで化粧をしない理由のつきそうな行動に遮二無二突っ込んでいったものだった。『研究バカ』とは、却って勲章のように思っていたものだ。教養課程の頃から、積極的に学部自治会主催の自主ゼミに参加し、ボランティアでそうしたゼミの世話まで見ている教授の研究室に入り浸り、そして専門に上がって晴れて研究室の配属ともなれば、実験室に閉じこもる為には同級生の課題まで引き受ける有様だった。
 だが、周囲の予想に反して、いや本人自身の志望にも反してと言えるだろう。彼女は大学院には進まなかった。

 嘆息しながら彼女は壁に掛けられた、白い時計を見上げる。プラスチックの丸い枠の中に無粋な文字盤がある、良くあるタイプの壁掛け時計である。
 姫様は、正午を疾うに過ぎていると言うのに戻る気配が無い。何時もの気紛れではあるのだが、そろそろ心配になってきている。だがお姫様が正午過ぎまで姿を見せなかったことは一度や二度ではないのだ。そしてその度に心配した自分に彼女は腹を立てるのだ。

「お姫様・・・かぁ」

 今はこれが仕事なのだ、と自分に言い聞かせるけれど、最早仕事と呼ぶには余りに感情移入をし過ぎている自分が居た。
 湖側の窓に立ち、門の辺りを伺う。そろそろ帰って来はしないか、と思ったからだ。

 少女は、砂浜を随分と歩いた。少年は黙って従っている、というよりももう疲れてきて言葉を発する気になれないのだ。
 振り返ってみると、少年の別荘前の浜が水面を挟んで向こうに小さく見えるまでになっている。湖周を随分と回っているに違いない。
 スニーカーに砂が入って、足が痛くなり出している。それよりも、陽に焼かれた砂の暑さに耐えられなくなっている。
 そうして彼女が護岸提への階段を登り始めたのを見て漸くほっとする。

「ごめんねぇ。もうすぐだからね」

「ああ、いいよ」

 何がいいものか。帰るのにはまたこれだけの距離を歩かねばならないだろう。いや、ここまで来たならホテル街まで足を伸ばして、そこからタクシーに乗る方が良いかもしれない。
 そんなことを少年はぼんやり思った。それとも迎えに来てもらった方が良いだろうか?。

「ここよ」

 少年は、大きな庭の奥に立つ白い洋館風の建物の前にいた。庭は鉄柵に囲まれ、白いしっくいの門柱にやはり重そうな鉄の扉が入り口なのだった。しかし、そうした設備は防犯上は何の機能も果たしえない程に開放的な感じがした。
 少女は、門扉を開けると、洋館に向ってどんどんと庭を歩いていってしまう。少年は、小走りに少女の後を追いかけた。そして門柱に出ていた表札の名前を確かめずに来てしまったことに気付いた。
 そう言えば、お互い未だ名前は知らないのだ。

 勝手知ったる・・・、当然ここは少女の家なのだから、その振る舞いは自然なのだけれど、玄関のドアを開ける少女の所作にはどこか叩き付けるような苛立ちが感じられた。そうして乱暴に開かれた玄関の中に、長身の、髪を金に染めた女性が立っていた。
 理知的な、いや、心の冷たそうな、と少年は感じたのだが、美しい顔立ちの女性だった。
 グレーのスーツに白いブラウスが、リゾート地の家で見るにしては違和感を覚えさせる。

「随分と遅かったわね。今日は遠出してたの?」

 という語気には少女を難詰する響きが含まれている。

「さぁ、そんなに遠くには行かなかったわ」

 と少女は、女性に目を合わせないようにして横を擦り抜けようとする。
 少年は困惑してしまう。その金髪の女性が彼に気付いてくれていないのに、挨拶をしたものか、と逡巡している。

「あら?」

 と女性は漸く少年に目を向けた。

「あ、ああ、あ、あ、・・・あの、あのの・・あ、」

 不意に向けられた視線の中にやはり不審の色を見て取り、少年はしどろもどろになってしまう。

「あなたは・・・・」

 と女性は試すように目を細めながら少年に近づく。
 すると少女は、女性から少年を庇うように少年の手を引き、言う。

「あたしが連れてきたの。音楽室使うわよ」

 と言うが早いか、少年の手をぐいぐいと引っ張り、部屋の中へ入っていく。
 廊下を引きづられて行く少年の背後から、女性が声をかける。

「アスカ・・お昼どうするのよ?」

「後で食べる!!。二人分用意しといて!」

 連れてこられたのは、12畳程のフローリングされた部屋。部屋の片隅にグランドピアノが置かれており、一方の壁には天井まで届く木の大きな本棚。そしてそこは殆ど全ての棚が楽譜と思しきもので埋め尽くされていた。

「さ・・・ここの床、エンドピン指しちゃっていいからね」

 そういうと、ピアノの横に置かれたいすを少年に指差す。どうやら、そこに座れと言うらしい。そして少女自身は、ピアノの鍵盤に向って座る。

「君ってアスカって言うんだ」

 と少年は言う。

「はん・・・
 どうでもいいことだわ」

「そんなこと無いよ・・・・
 綺麗な名前じゃないか」

「あんた、随分くっさいこと言うのねぇ」

「・・・・」

 名前を知っていることは良いことだ、と少年は思うのだけれど、どうでも良い、と言われると名乗るのが躊躇われてしまった。

「さっきの人・・・・お母さん?」

 少年の質問に少女は一瞬我が耳を疑う、というような表情をして見せ、それから笑い出す。

「あんたね、それ彼女に言ったら殺されるわよ!」

 そう言いながら少女は笑いつづける。

「・・・・ごめん」

「なんで、謝るの?。別に悪いことした訳じゃないのに」

「そうだね・・・ごめん」

「また、謝る」

「あ、・・・」

 ごめん、と言いそうになり少年は言葉を呑み込む。

「彼女ね・・・私のマネージャーなの」

「マ、マネージャーって?」

 実は、少年はマネージャーが何かを全く知らない。

「ああ、あたしのね演奏会とかレコーディングとかの手配とかね、スケジュール管理とかしてくれるのよ。仕事ね」

「・・・・」

 またしても少年には彼女が何を言ってるかが分からない。
 だが、少女は少年の反応は気にならないらしい。いや寧ろ彼の反応がまるでぱっとしないことに喜んでいる節もあった。

 少女は、立ち上がり本棚に向って立つとそこにある楽譜を物色し始める。

「まったく、あんたねぇ、ピアノ伴奏譜を家に忘れてくるなんて。後で無くすと困るわよ?」

「だって、自分一人で練習するだけだったし・・」

 しかし少女はもう少年の答えは待っていなかった。一つ一つの棚を調べている。

「えーっと、ドボルザーク、ドボルザーク・・・と・・・
 あったぁ!」

 本棚の一番下の段から彼女は1冊の楽譜をひっぱりだす。その楽譜は表紙はすっかり茶色くなり、中も黄ばんで酷く古いもののようだ。
 そのふるい楽譜をぱらぱら捲り見しながら、彼女は鍵盤に向って座り、その楽譜をピアノの譜面台に載せた。

「ふう〜ん、ちょっと譜捲りが面倒くさそうね」

 そういいながら、楽譜の右下隅の方で、各ページに小さく折り目を付ける。捲りやすいようにしているつもりなのだろう。

「何をするつもり・・・?」

「あら、あなた・・・えーっと、」

「シンジ・・・だよ」

 ほら、どうでもいい事じゃないじゃないか、と少年は心の内で言う。

「シンジね。
 まだ楽器も出してないじゃない」

「・・・・弾くの?」

「当然でしょ?」

 困惑した顔を見せつつも、少年はちょっとだけ嬉しい。少なくとも、さっきの演奏で彼女は少年のチェロをもう沢山だとは思わなかったらしい。それにとにかく、少年は弾く、と思うだけで嬉しくなってくるのだった。

 ピアニシモで主題が始まる。本来ならクラリネットによって奏でられるべき、そのメロディを少女はタッチに注意して弾く。それは仄暗い森の中で囁かれるようなメロディ。やがてその主題は転調しはっきりとした形を表す。そうしてそれは問い掛けるような経過句のクレッシェンドによって悲痛な英雄的調子のフォルテッシモを迎える。

 オーケストラのピアノ編曲版。それはあくまでもチェリストのソロの練習補助の為になされた仕事であって、ピアノ本来の特性を考えて編曲されている訳ではない。しばしば、この手の楽譜では演奏不可能な採譜がされていることすらある。しかも、オーケストラならではの、音色の交代や交錯を前提としたフレーズなのである。それを音楽として弾くには並々ならぬ技量が本来要求される。そうしたハンディを負って彼女は敢えて弾こうとしている。しかもそうすることで彼に働きかけようとしている。

 曲は、神秘的な、低音の迷いにもにた歩みによって次第に静かになり、穏やかなテンポの第二主題があらわれる。2部音符の半音の移行から始まるそのメロディは原曲では、先ずホルンによって奏される。このメロディを、独奏者は自分のパートに先立って、先ず他者のソロとして聞くのだ。ソリストにとってこれは一種の挑戦となる。というのも、先立たれて歌われた姿を踏まえ、あるいは縛られて弾くことを負わされるからだ。無論主題がオーケストラに先行されるのは古典的協奏曲の常套的形式ではあるけれど、普通なら弦楽5部によって、あっさりと、場合によってはお座成りとも言えそうな形で提示される主題などソリストにとっては脅威ではない。それは前奏を成すのみ。コーラスに対する、独唱者の権威がそうした先駆けられた主題を全てソリストの手の下に回収するからだ。
 だが、このドボルザークのコンチェルトでは、管楽器の幾つかによる、『個人の』ということは即ちロマンチックなという意味での語り口で、主題は現れてしまう。オーケストラという場において、チェリストは、同様の「個人」であるこれらソリストたちに出会ってしまう。
 そしてアスカは、こうした特性を意識してか、各主題の(オーケストラであれば管楽器のソロで行われる)提示を先ほど少年の別荘で聞いた演奏とは明らかに異なる語り口で、まるでそれぞれのソロが異なる管楽器奏者によってなされるかのように弾いてみせる。
 そうして第2主題が完全に姿を表すと、その生誕を祝うかのようにtuttiの強奏による祝祭的なフレーズが奏でられる。そのフレーズは次第に弱まって行き、長い主題提示部が閉じられる。
 ソリストが語り始めなければならないのはそうした地点からだったのだ。

 だが、少年は困惑していた。

 というのも、音楽が今彼に初めて差し向けられて居たからだ。彼は、それが彼に聴かされているものであること、いや、語りかけているものであることをはっきりと意識していた。けれど、それに反応すべき術をまったく知らなかった。
 余りに孤独に慣れすぎて、人との対話を忘れてしまった人間のように彼は今困惑していたのだ。

 なぜ、困惑し躊躇するのだろうか?。それは独り言がどこまでも孤独者には透明な言葉に見えるのに対し、一方で彼にとっては、他人に対して発される言葉が、その意味がとても覚束なく思えるからだ。虚空に発される言葉の無意味さ?。そうではないだろう。そうした独白をこそ、彼が日常自明なものとして行っているのだから。そこでこそ実は彼が意味の存在を当たり前のように思いなしているのだから。

 他人に向って言葉を発すること、他人によって受け取られること。そこには深い淵があるのだ。発した言葉に意味があるのではない。意味は相手によって決せられる。つまり話者の意図は意味を全く保証しない。その覚束なさを孤独者は恐れる。発されることによって言葉は初めて意味の無根拠性に直面する。

 今目の前で奏でられた、少年自身が馴染んでいたメロディは、なお少年の知らぬ声色で現れていたのだ。自分が発言するに先立って現れた良く知っている筈のものの未知の姿は、ようやく少年に彼が構築してきた音の建造物のはかなさ、覚束なさを示すことになったのだ。

 だから、彼は弾き始められなかった。

「どうしたの?」

「・・・・・」

 少年は信じられないという顔で少女の方を見た。途方にくれている。

「弾いて」

「弾けないよ」

 弾けないのに弓を持ち、楽器を構えている自分が滑稽に感じられる。

「でも弾いて」

「だって・・・どうしたらいいかわからないんだ」

「さっき弾いて見せてくれたじゃない」

「あれは!!・・・」

 少年は頭を振った。

「じゃあ、どうだったらいいの?」

「わからない」

 少女は静かに言い聞かせるように言った。

「わからないから、弾いてみる・・・・それじゃ駄目?」

 少女は、俯いた少年が口を開くまで辛抱強く見つめていた。
 数分間の沈黙の後、少年は再び弓を構えた。
 力強い音。

 何故弾いてみる気になったのか、自分でも不思議だった。そうして奏でられたメロディは先ほど自分の部屋で弾いたのとは似ても似つなかった。というよりも自分がコントロールしているのでは無い、まるで音が自らの姿を次々と紡ぐような感覚に驚いていたのだ。
 本当にコントロールしていないのではない。以前と同様に、少年の意識は楽譜とそこから読み取れる音楽を打ち出そうとする計らいを止めてしまったわけではないのだ。だが、一方で起こったこと、出てしまった音を認め、そこから次を紡いでいく、予め掘り出された形をなぞるのではない、そんな心の動きが加わっていた。
 だから、その音楽は以前の彼の弾くような完璧な均整は欠いていたものの、少年にとっても新鮮に聞こえたのだ。
 そうして弾く彼の音に伴奏に転じたピアノがそっとよりそう。相変わらず少年はその音にはどう応じたら良いのかが分からなかったのだけれど、「そうだ」という肯定の色、あるいは「本当?」という訝しげな調子、そして時にはからかいの調子と言う差異を聞き分け始めていた。

 曲は展開部を過ぎ再現部に辿り着く。少年はピアノの挑発や問いに答えることは未だ出来なかったけれど、取り敢えずそうした「声」と自分の演奏とを共存させる事が出来るようになっていた。そうしてみれば、たった一人のカデンツァでさえ、実はその先に待っている声を予見しているかのように感じられる。それが次第に少年にとって面白く感じられるようになってきた。

「弾けたじゃない!!」

 少女は声を励まして言った。さすがに少々疲れを感じている。未だ少年の演奏は彼女の弾くピアノとの対話とまでは到底言えないものだった。けれど決してピアノを無視している訳ではないのは、はっきりと聴き取れた。そうなって見ると彼女も、少しも手が抜けなくなる。彼は聴き取っているのだ。だから全ての瞬間が真剣勝負になるのだ。それだけに面白かった。最初からこれなのだ。もっと先にはどれほどのものが待っているのだろう?。

「・・・漸くね。でも未だ何をどうしていいのかも分からない」

「でも、面白いでしょ?」

「うん・・・・こんなに楽しかったのは初めてだ」

 そういって笑う少年の顔を、少女はきれいだと思っていた。

「面白くなってきたところで申し訳ないんだけど、お昼ご飯食べちゃってくれない?」

 何時入ってきたのか、ドアの所にあの金髪の女性が立っていた。
 アスカは顔をしかめて見せながら言う。

「リツコ、何時から居たの?」

「そうね。10分程前から居たけど。
 あんまり真剣だったから声かけそびれちゃったのよ」
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