▼第三章
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二人を音楽室に見送ると、リツコは、インターホンで厨房に昼食の用意を命じた。 厨房を預かっているのは管理人夫婦である。定年退職した元サラリーマンの夫とその妻はこの別荘の隣の管理人棟に住んでおり、建物の維持管理と、ここに滞在者が居る場合の食事の世話などを行っていた。 この建物は現在は、リツコの勤める音楽事務所の「保養施設」という事になっている。が、実際には利用者はアスカのみである。それは今後もずっと変わらないだろう。と言うことは、管理人夫婦はただアスカのみの為に雇われている事になるのだ。 もっとも、それはここが事務所のものとなる以前からそうだったのだが。 リツコは少しほっとしている自分に気付く。ここ数ヶ月、アスカの様子に心を痛めつづけていたのだ。 8歳でデビュー。以来、コンサート・レコーディングと仕事の依頼は増えつづける一方だった。しかし、如何に天才とは言え、その才能も磨き続けない限り、長続きしないものだ。だからリツコは、受ける仕事は厳選し、代わりにレッスンと学業にアスカが多くの時間を割けるよう配慮していたつもりだった。ところが昨年、リーズで行われた、とあるピアノコンクールに最年少で優勝した頃から、アスカは次第に疲れの色をにじませるようになってきた。このコンクールのタイトルは、彼女を第一級の演奏者として世界市場に印象付ける結果となり、仕事の依頼は増えたものの、リツコからすれば仕事を選びやすくなったと言える(アスカが若年であることを考慮し、通常の優勝者が副賞として半ば義務的に行う1年間に渡る契約演奏会、は代わりに各国の主要な音楽大学への入学資格に変更されていた)。だから決してスケジュールがきつくなったとは言えない筈だったのだが。 そして今年に入ってアスカは塞ぎこむ事が多くなった。演奏の質が落ちるというところまでは行かないものの、仕事が辛そうなのはリツコには良く分かった。 何が原因なのかを本人に問い質してみてもはっきりとした答えは得られなかった。 そこで、夏の間を思い切って仕事は一切断り休養させることにしたのだ。 しかし、この別荘にやってきても、アスカの塞ぎは治らなかった。それどころか、ピアノの前に座ろうともしなくなってしまった。 正直途方に暮れていたのである。それを、今日は自分からピアノを弾くと言い出したのだ。何にせよ喜ばしい変化には違いない。 それにしてもアスカが連れて来た少年は誰なのだろう?。 この別荘では近隣の住居への騒音対策は全く不要であるにも関わらず「音楽室」が防音設備を備えているのは、むしろ外からの音を遮断する為である。この為、音楽室のドアも二重扉となっており、中の音は、ドアの前まで来て辛うじて微かに聞こえるに過ぎない。 だから、昼食の支度が出来たことを知らせようとしてそこにやってくるまで、リツコには彼らの演奏は全く聞えていなかったのだ。 そして、外側の扉を開けた時、リツコは初めて”それ”を聴いた。 それは、あの、どこでもいるような少々頼りなげな少年が作る音とは到底信じられなかった。 ドボルザークのチェロ協奏曲。ダブルストップも多く、ハイポジションでさえ、なお力強い音を要求されるこの難曲は、大人の手ですら一苦労なのである。しかし少年は、そんな苦労を微塵も感じさせぬ力強く伸びやかな音をしていた。 あの細い体躯と腕で、このような音が可能なのだとすれば、それは彼のフォームに全く無駄が無いからに違いない。全ての筋肉と神経とが音を産み出すに必要な事のみを行っている。彼自身の体が楽器そのものであると言っても良い。 自らが音楽事務所を主宰し、数々の音楽家の演奏に”目利きを利かす”事を生業としている以上、リツコの耳は確かだった。この少年は少年であるというセンセーショナルさを外しても、尚優に演奏家としての商品価値をもつ事は明らかだった。 そしてリツコは、無意識に、彼を売り出すための段取りを計算し始めている自分に気がつき、自嘲の笑みを浮かべた。だが、一方で彼の欠点とでも呼ぶべきものを聞き逃すことは無かった。 その欠陥を彼が自覚し克服できなければ、恐らく彼は”天才少年”から一歩も前へ踏み出すことなく消えていかざるを得ないだろう。 リツコは外側の扉を開けたまま暫く中へ入るのを躊躇っていたが、やがてノブに手を掛け、そっと部屋の中に滑り込んだ。 演奏に集中している彼らはリツコが入ってきたことには全く気が付かない。 リツコは、アスカがこれほど集中して演奏しているのを久しぶりに見る思いがしていた。彼女の本来の持ち味が良く出ている。テクニックはここ数週間のブランクにも関わらず落ちては居ないようだ。そしてアスカが得意とする、音の流れに内在しつつ、戯れのように様々な局面を引出してみせるスタイルが、チェロの伴奏用の楽譜にも関わらず現れている。 この楽譜は彼女の母親の蔵書だったものだろう。演奏会でピアノ伴奏にて演奏されることが余り無いこの様な曲の楽譜を持っていたとは、とリツコは意外な感を覚えていた。キョウコはそんな仕事も引き受けたことがあるのだろうか?。 それにしても彼女はどうしてこんな曲に入れ込んで演奏しているのだろうか?。 二人のアンサンブルとしては、少年は余りに独善的に過ぎていた。アスカはと言えばそんな彼の演奏に付かず離れず、ある時は戯れかかりある時は拗ねて見せてはいたけれど、鈍感な男に思いを寄せアプローチする女の仕草にも似て見える。 だが、少しづつ少年の演奏もピアノ伴奏に引きづられるようにして独善的な構えに綻びを見せ始めていた。なるほどそういう変化が面白くないでも無い。 漸く一楽章が終わった。 リツコは一先ず昼食を取らせるべく、声を掛けた。 |
食堂は北欧風の家具と白い壁の明るい部屋だった。 少年が誰かと一緒に食事をするのは久しぶりのことだ。しかも皆今日知り合ったばかりの人達である。 と言って彼は人見知りをする事は無かった。ただ、会話そのものに戸惑いを覚えるだけだ。何を話して良いのか、いや話すべきなのか話さないでいるべきなのかが、分からない。そこで戸惑うのだけれど、だからと言って、困った訳ではない。 孤独に慣れすぎた人間の常で、自分のペースを脅かされる惧れが無い限り、どうでも良いと思えていたのである。 それに、彼自身先ほどの演奏に驚きと喜びを覚え、そこから目の前にいる少女に対する興味も湧いていたのである。 考えてみれば少年が他人に興味を覚えるのは珍しいことだった。そのように育ったとしか言い様が無い。幼少期を殆んど父と言う特異なコミュニケーションの対象との閉じた世界に育っていることが原因なのかもしれない。いずれにせよ幼稚園に行く頃から、もう彼は他人への興味が薄い子供になっていた。と言って他人の存在にナーバスになることも無い。要するに必要以上の交渉を必要としないのである。他人とのコミュニケーション能力に欠ける子供はどうしても集団の中で弱者となる。しかし彼のように他人との交渉すら必要としない場合には惧れ敬遠されるに留まるのである。 という訳で小学校もそして現在通う中学校でも彼は超然として通してきている。 すなわち彼は異常にマイペースなのである。音楽における感受性と、情緒の安定性とは決して相反するものではない。繊細な天才と言うのは世に喧伝されたイメージであるけれど、実際に多くの天才演奏家は音楽以外での繊細さは凡そ用い合わせていないタイプが多いのが現実である。第一そうでなければ、生き馬の目を抜く業界の中で生き残れるなぞ有り得ない事だ。 いずれにせよここまでの強行軍と熱の入った演奏のせいか、同年輩の子供達に比べて食の細いシンジでさえ、さすが腹は減っていたので昼食は有難かった。 だが別荘で待つ老夫婦が心配しているかもしれないと少し気に懸かっていた。 メニューは、コールドスープとサラダ、それにドリア。いかにも少女向けのメニューには違いない。 「ふ〜ん、シンジ君って言うの」 とリツコ。碇という苗字に聞き覚えがあったけれど、どうしてもこの少年と結びつきそうな人物は思い浮かばなかった。というよりも最初に思い浮かんだ人物が余りに大物過ぎて、如何に才能があっても風采は上がらないことこの上ない少年と、どうも結びつかなかったのだ。 「で、こっちにはご両親と?」 「いえ、一人で来てます」 最初からリツコは彼をこの土地の人間とは見ていなかったので、避暑に来ている前提で尋ねている。それにしても一人というのは聊か予想に反している。 「一人で?。食事はどうしてるの?」 「ああ、管理人の人が居て世話をしてもらってるんですけど・・」 ああ、なるほど、と思う。恐らくは忙しすぎるけれど裕福な両親なのだろう。それにしても、である。あのチェロの腕前は尋常ではない。 「チェロ、随分上手ね。誰に習ってるの?」 シンジは、ある音楽大学の教授の名を挙げた。それは往年の名チェロ奏者として名を馳せた人物の名である。 「・・・凄いわね」 思わずリツコは唸った。その教授に親しく教えを受けるというのは、その才能を認められてのことであろう。即ち、彼の天才はもうとっくにどこかの誰かによって見出され、そして完成に向けてのレールが引かれているのだ、という事だ。無論、これほどの才であれば当然のこととは言えるけれど、余りに日常的な現れ方だったので、リツコは自分がその才を最初に見出した幸運を期待しないでも無かったのだ。 「そうですかぁ?」 「そうよぉ。凄いわよ。だって滅多に教えてもらえないのよ、冬月先生には」 「へぇ」 そういうとシンジは本当に驚いた表情をした。それが余りに自然な感じなのが却ってリツコには、自分達が抱いている一種の事大主義を突いているように思われてしまう。 「どうして冬月先生のレッスンに付くようになったの?」 「知らないです。 父が・・・・ 連れて行ってくれて」 「お父さんが?」 「はい」 シンジは父と言う所で、心なしか言い澱む。だが、リツコはそれがこの年齢の少年に有り勝ちな肉親に付いて話す際に感じる照れなのだと思っていた。 それにしても、どんな父親なのだろうか?。息子の才能を見出し、なおかつ当代一流の教師を宛がうことが出来る人物。 「あのねぇ、リツコ。シンジはあたしが連れてきたのよ」 アスカはすっかり不機嫌になっている。 「あら、いいじゃない。アスカだって遠慮しないでお話すれば」 リツコはわざととぼけてみせる。 「だって、そんなに立て続けに質問してたらあたしが口を挟めないでしょう」 そうは言いながらも、結局昼食中は、アスカは余りシンジと話は出来なかった。いざ楽器を離れて、テーブルに付くと気恥ずかしさが先立ってうっかりしたことは言えない雰囲気になったのだ。だからリツコが次から次へと話をつないでくれるのを却って有難くも思っていた。そうでなければ沈黙を持て余していただろう。 リツコとシンジが話をしている間、アスカはそれとなくシンジを観察していた。こうして見るとずいぶんと華奢だ。首など、アスカの腕でも容易に縊れてしまえそうだ。細い顎。白い肌。小さめで薄い桃色の唇。どことなくしっとりとしたものを感じさせる瞳。 細い腕には必要最小限の筋肉しかついていない。けれどフォークを持つ掌は確かにチェリストの手だ。大きく、長い指。この手が力強く弦を掴むのだ。総じて見ると、そのアンバランスさが目立つ。同年輩の少女のチェリストだって考えられるけれど、それでもこんなにアンバランスな感じにはなるまい。華奢さと、奏でる音の力強さの取り合わせ以上に、シンジにはどこか非現実的な危うさがあるように思えた。 リツコはどんどんとシンジから話を聞き出してしまう。むしろこの子にはこうして聞いてやった方が良いらしいと思ったからでもある。見ていて、如才無く当り障りの無い会話を楽しめるような子ではないと分かる。 「で、お父様はどんな方?」 「えっ・・・」 シンジの顔色が途端に曇る。 「あらっ、御免なさい、もしかしたら聞かれたくない話題だったかしら」 「リツコ!!」 アスカが余りに無神経なリツコの物言いに抗議する、が、リツコは平然としている。大丈夫、この子にはこの位はっきり聞いてあげたほうが良い、と確信しているのだ。 「いいんです。別に嫌じゃないですから。 ただ・・・良く分からないんです」 「分からないって?」 「だから、どう言葉で言っていいのか・・・・ それよりも僕自身が余りに父を良く分かっていないから」 「じゃ質問を変えるわね。お父様って何をやってらっしゃる方かしら」 「それは・・・・」 シンジは先日、冬月に詰られた事を思い出す。父親が何を職業としているのか全く知らなかったので、あきれ果てた冬月がシンジを難詰したのである。が、そこで教えられたからといって、その職業が何であるのかが、どうしてもぴんと来ない。 「・・・音楽家だ・・・・と思います」 リツコは少し眉を顰める。それは妙な答えだ。シンジは少しうろたえる。自分がうっかりした返事をしたように思えたので。 「えっと・・あの・・・良く分かんないんですけど、何時も楽器を持って旅行に行ってて・・・」 「お父様もチェロなさってるのね?」 「そうです」 ほんの少しはにかみ、ほんの少し誇らしげな様子。 「じゃ・・・お父様って・・・・碇ゲンドウさん?」 リツコは驚く。真っ先に思い浮かびながら余りの違いに最初に否定してしまった人物だとは。なるほど彼の息子なら、と先程迄は否定していた癖にもう勝手に納得してしまう。 「あの・・・父をご存知なんですか?」 「ご存知も何も・・・この業界で彼を知らなかったらモグリよぉ」 アスカはリツコが何を喜んでいるのか察して顔をしかめる。確かにこれは願っても無いコネだというのは分かるが。 「リツコ、ねぇ、いい加減、もうシンジ開放してよ。 あたしの友達なんだから」 「あら、だって今日はあなたが余りにおとなしいから私がお相手して差し上げてただけよ」 とリツコは涼しい顔で答えた。 どうやってもリツコをへこます事など出来ないのだということはアスカも十分承知しているので、早々に退却することにする。 「もう・・・行きましょ、シンジ。 2楽章から先やりましょ」 そう言ってアスカは立ち上がる。 シンジは慌てて後を追うけれど、立ち去り際にリツコに軽く会釈をして出て行った。 『いい子だわ』 そう言ってリツコは思いがけない幸運を喜んだ。 |
廊下をアスカの後を追って歩きながら、シンジは相変わらずアスカ達について、何も知らない事に気が付く。 音楽室の扉の前でノブに手を掛けたままアスカは立ち止まった。 「嫌ね」 何が嫌なのか、シンジはわからないまま、じっと彼女の次の言葉を待った。 しかし、暫くの沈黙の後、彼女は何事も無かったかのようにドアを開ける。 |
リツコは中庭に面した書斎の机に向い、パソコンの電源を入れた。すぐにメールを確認する。 アスカに付き合ってずっとここに居るものの、事務所の方は放って置くわけにも行かない。もっとも今のところ、大方の業務はここから社員への指示だけで何とかなりそうだった。 音楽事務所と呼ばれる仕事は大きく2つの業務からなる。一つはタレントの管理でいわゆる芸能プロダクションのクラシック音楽界版のようなものである。事務所は演奏家の契約事務全般を代行しその分の手数料を得る。もう一つはイベントの企画で、俗に言う「呼び屋」である。ただしこの2つは決して独立している訳では無い。所属する演奏家の仕事を作るためのイベントの企画も当然行うのである。といってもリツコの事務所程度の規模では専ら演奏家の管理の方が業務の大半を占める。企画に関しては大手の呼び屋や、レコード会社の企画に乗っかる形の方が多いのである。その分、リスクは余り大きく無い代わりに旨みも少ないのだが。 メールは全部で3通。今朝も一度メールをチェックしているのだが、今日はちょっと少なめ。うち2通は各担当社員からの経過報告で、特に問題は無さそうだ。もう1通は出演依頼で、所属の若手指揮者への、学生オーケストラからの依頼である。リツコは眉を顰める。というのも学生オケの場合、ギャラは余り多く請求できない一方、練習回数は増やさざるを得ないからだ。それでも比較的老舗クラスのオーケストラならば、下手なプロ顔負けの演奏をやってのける場合もあるけれど、中堅以下のクラスだと、殆んど奏法やアンサンブル技術のトレーニングをやってあげるだけで所定の練習回数を使い切ってしまう事が多いのである。勢い依頼される方も熱意が上がらない事になる。 依頼元の学校名を見てリツコは安堵する。W大ならば、問題は無いだろう。 リツコは電話で事務所を呼び出す。メールで送っても良いのだが、指示だけは頑として電話で行うようにしているのだ。 「あ、高橋君。メールもらったW大の件ね。基本的にOKだから。後は本人のスケジュールと意向確認してね。で、これ選曲まだなのよね。え?。指揮者と打ち合わせしたいって?。 で、彼には連絡とった?。あ、そう、じゃそうして。 え?。だめよぉ、無理じゃない。だってねぇ。まあその辺彼も分かってると思うけど。 で、決まったらまた連絡入れて。 後は?。 あ、そう。じゃまた後で」 基本的にOKとは言いながらも結局は指揮者本人如何になってしまうのは、それだけ音楽事務所側のコントロールが弱い為である。芸能プロダクションのようにタレントの全スケジュールを完全に管理している訳では無いのだ。 受話器を置いてリツコは暫く、ぼんやりとディスプレイを眺めている。画面は何時の間にかスクリーンセーバの画像が踊っている。気に懸かっているのは今月の資金繰りのことである。今日の午後融資についての銀行側との折衝があるのだ。そちらの方については専務と経理部長が当ることになっており、いずれにせよ今日の結果がわかるのは夕方になりそうだ。 コツ・コツ・・・・ 目の前のガラス窓を誰かがたたく音がする。 その音の方へ眼をやると見知った顔。 リツコはわざと恐い顔をして見せながら、窓の向こうの人物に手真似で、回り込んで家に入るように促す。 招かれざる客。 そう分かっていながら、自分の心が躍るのをリツコは抑えることは出来なかった。 |
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