ちゅうごくよもやまばなし  murakami  kesao

映画芙蓉鎮の中国語せりふ集(GBcode)聞き取りにつき99%の正解率と考えてください。

映画芙蓉鎮の日本語せりふ集です。




*考え方の違い 中国料理 *94



 中国料理には”おでん”はない。”きんぴらごぼう”もない。もっとも広い中国のことゆえすべての地域にないと言っているのではない。お目にかかったこともなければ、中国料理の板前さんに聞いてもないという。中国語では板前さんを”厨師”と言います。

 ”きんぴら”の材料はごぼうなのである。薬用には使用しているとのことなので料理には使わない。薬膳料理があるではないかと言われそうだが、これは特殊な例としておいていただきたい。

”おでん”は材料を入れてひたすら煮る、このことによってできた料理だといえる。もしくはこう定義できるのではないかと思う。

中国料理には材料をそのまま食したり、そのまま料理したりすることはないのである。白菜があれば白菜ときくらげと豚肉で炒めて食すのである。このときに肝要なことは決して白菜の中に調味料がしみこんだりしないようにすることなのだ。

つまり、中国料理は材料と、材料の組み合わせにあり、まるで化学品調合するするように味付けをする。これに対して日本料理は本来の味のみにて食す。大きな違いはここにありと言える。







*考え方の違い 国境*93



 日本は四方を海に囲まれた島国です。現代では飛行機を使うと2時間もすれば中国へ行くことができます。鑑真和尚が活躍されていた時代は船で行くしかありませんでした。それこそ風を用いた船で風任せに行くしか方法はなかったのではと思います。

 国と国の間に線を引いたりすることがとても困難なことを意味しています。つまり日本の国に住んでいる民にとっては国境を意識することなく暮らしていけることを意味しています。

中国は広い大陸です。どこかに線を引かないことには中国とよその国を区別することができないのです。歴史的に見れば中国は周りの国から攻められ続け中国の民だけで国を構成できた瞬間はとても短かったのです。

こうした背景を持つ中国の民とよその国を意識することなく暮らしてきた民が現代では多くの交流を持つことになりました。必然的に問題が発生することになりました。



*考え方の違い *92 魚を食す

 中国の料理は中華料理である。何を馬鹿なと言われそうなのだが本当に中国料理しかない。もっとも上海の街中に日本料理店が軒を連ねてあったりする。だが中国人が料理をするといえば例外なく中国料理である。

 中国料理にも日本料理にも魚料理がある。料理の仕方も違うが魚につきものの骨、これの処理に違いが見られる。

 中国料理の定番に魚を揚げた料理がある。魚は“余”と同じ発音であり縁起のよい食べ物である。日本人が食べると例外なく食べ残した小骨を自分の食べている皿に残す。中国人は卓上に噛み終えた小骨をぺっと吐き出す。これをみて互いに汚いなと言う。

 日本人は卓上に残された骨を見て、あるいは吐き出す様子を見て汚いと感じる。中国人は現在食べている皿に小骨を置いた状態を見てやはり戸惑いを隠せない。お互いに汚いと感じているようだ。



*考え方の違い*91 美女にも難点がある

 [沈魚落雁、閉月羞花] 美しい魚がその美人をみてその美しさのあまり海深く沈んでしまい、美しい雁がその美人をみてやはりその美しさに我を忘れ地上に落ちてしまった。美しい月もやはりその美しさに己をはじ闇に隠れてしまい、美しい花でさえその美人の美しさにはじらいを覚えてしまった。といった意味であり、この上ない美しいさまを表現している。

 中国には日本人にもおなじみの楊貴妃をはじめ西施、王昭君、貂[女単]といった四大美人がおられます。そして

 沈魚とは西施のことであり春秋時代に国を滅ぼしたほどの美人であり魚に例えられるほど細身であった。だが足が太かった。

 落雁とは王昭君のことであり、前漢時代の美人、絵師にさえ横暴に振る舞った。だが耳が小さかった。

 閉月とは貂[女単]のことであり、三国時代の美人で花魁でもあった。とびっきりの 美人であった。だが、なで肩であった。

 楊貴妃とは唐の時代の有名な美人、だが腋臭がひどかった。

どんなにきれいなものでも難点と言われる部分があります。[奇麗なバラには棘がある]といわれると[ん]とうなずいてしまいそうなのだが、[沈魚落雁、閉月羞花]を教訓としては受け入れがたいものがあります。



*考え方の違い*90 箸の長さと新型肺炎 

 中国人も日本人も箸を用いて食事をする。だが中国人が用いる箸は日本の箸に 比べて長い。倍はあると思われる。そして先が長い。

 なぜこんなに長いのか。中国の方は大勢で食事をするのが一般的である。料理は多きなさらに一塊になって出てくる。そしてこれを己が食している箸で取ってあげるのが週間。このときに箸が短いと取ってあげることができない。中国の方は太古の昔から毒によって殺される。このことを常に頭の片隅に置いてあるのである。同じ料理を食し、同じ箸によって取られた料理はとても安全である。

 最近の新型肺炎騒ぎはこの習慣を打ち砕いてしまった。料理を取り分ける箸は箸として使い分けるようになった。古来からの安全を保障するシステムの作り変えである。日本人はこうした毒殺といったことに対してとても鈍感である。

 これからの中国を注視して見ていきたい。箸の長さがどうなるのか。日本と同じように短くなるのかそれとも変わらす丸くて長い箸を使い続けるのか。



*考え方の違い*90 将来の紛争に備える。

 日本の大学の博士課程で学ばれている中国の方がここの研究室の先生と何か将来の約束ごとをしたのだ。問題は約束の中身ではない。彼の同僚はすべて日本人である。

 教授も日本人である。将来の約束をしたとしても紙に書いて残しておくといった 習慣は日本人にはない。だが中国人である彼は欧米人と同じように紙に書いてくれと 教授に頼んだ。すると同僚から先生が信じられないのか、と言われてしまった。彼は さらに言う、先生は朝話したことを昼には忘れています。とても不安です。何とかお願 します。

 だが、この研究室では誰一人彼の主張に同意するものがいない。そこで私にどうしたら良いか相談があった。私はこう答えた。先生の約束は相当高い確率で守られます。従って安心してください。守られないこともありますが己に見る目がなかったとして天の定めと認めてあきらめましょう。

 彼は決してこれで納得はしませんでした。しかし他の方法がないので私の意見に従うことにした。私にとって驚きはこうした約束を紙に書いて残し将来の紛争のときに役に立てようとの考え方である。欧米人もやはりこうして将来の紛争に備えるとのこと。日本人の常識はやはり世界の非常識なのか。



*考え方の違い*89 交通信号【2】

 中国にも日本にも交差点に信号がある。中国語で【紅緑灯】という。つまり赤い信号と青い信号の意味だ。では赤と青の2つしかないのかというとそうではない。当たり前だがきちんと黄色もある。そこで日本では青は進め、赤は止まれ、黄色は注意とこうした言い方がある。

 もちろん中国にもある。【紅灯停】【緑灯行】という、問題はこれから先なのである黄色の信号に対して言い方がない、このことを中国人に尋ねた。答えは中国では黄色の信号はとても短いのでみんな気がつかない、だから黄色の信号のことは考えていない。最初から青と赤の二つしかなかったわけではなく最初から黄色もあったといろいろ主張されました。この方最後には“黄灯注意”と表現されました。



*考え方の違い*88 祭り

 中国の方から日本は現代化しははずなのになぜ博多ドンタクといった古い祭りを行っているのか。中国ではこうしたことはない。そこで私はこう答えました。大和の国に生きている私たちは古の昔には中国文化の影響をとても強く受け現代ではアメリカの影響を強く受けています。

 しかしながら大和言葉で話をしそこから生まれた文化はとりたてて意識をせずに受け継いで参りました。従って祭りの囃子を聞くと血わき肉躍るのだと。私の答えが真実かどうかより中国の方の素朴な質問に私はとても驚きました。



*考え方の違い*87 玄関

 羽田は日本の表玄関という言い方がある。日本人の家には小さいとはいえ玄関がある。翻って中国に玄関があるかどうか考えてみたい、日本に7年間留学された文豪魯迅の生家に”魯迅故居”と書かれた”門”がある。私にはどう見ても”門”にしか見えない。

日本にあるような玄関とは似て非なるものである。この玄関という言葉は日本語であって中国語ではないところに理解しがたいものがあるのである。

 玄関とは日本の僧が宋の都に留学し帰国時に己で門の考え方に宗教的な価値を付加した造語なのである。”玄門の境に入る関門”がこの僧が付加した価値である。よって中国の”門”と日本の”玄関”が表す意味が微妙に違ってしまったといえる。中国の方の 家の”玄関”に行事などがある時に掲げられる”簾”これも”門”掲げられていると考えると理解できるのではないかと思う。



*考え方の違い*86 土下座

(23日新華社電によると中国湖北省武漢市にある日系企業の日本人社員(男性50歳)が同市内のレストランで料理に関する不満から女性支配人に土下座を強要しようとしたとして国外退去処分を受け22日中国から出国した。

 この男性は今月15日夜、連れの4人とレストランで食事をした際、注文した野菜スープが気に入らなかったため、女性支配人を呼びつけひざまずいて謝るよう要求、支配人がおじぎをして謝るのはいいが、ひざまずいて謝るのはいやだととの態度を示したことから、男性は立ち上がって両手で支配人の肩をつかむなどして土下座をさせようとしたという。

 通報を受けた地元警察は公の場所での人格侮辱は中国の治安管理処罰条例に違反するとして男性の中国居留資格を取り消す処分を決め今月25日までに出国するよう通告した。男性は今後2年間は中国入国を認められないという。(読売新聞991125)

 この記事を読んだ日本人に中国人の怒り,悔しさ、悲しみが理解できるであろうか。”おじぎをする”この行為は相手に服従することを意味する。まして”土下座”は己のすべてを相手に捧げなくてはならない。そう相手に殺されても仕方がないのだ。逆らうことができないのだ。

 そう、皇帝に仕えるのことと同義語なのだ。せめて、おじぎまでは妥協したこの女性支配人の心を理解してあげなくてはならないのである。仕事中に電話でおじぎをしている日本人とはわけが違うのである。この日本人会社員は中国に訪問する資格はないのである。と私は思う。



*考え方の違い*85 曖昧さを許さない言語中国語

 論理矛盾があるのにもかかわらずそれこそ平気で話している日本人をたくさんみかけます。下記にほんの少し例をあげて見ました。このことばを中国語に訳してしまうとこうした曖昧さはそれこそ雲のかなたへ逃げて行ってしまいます。

  • 悪平等は悪いこと       :NHKの討論会で榊原元大蔵事務次官
  • 必要性が必要なわけで     :NHKの討論会で榊原元大蔵事務次官
  • 新しく創刊された       :本の紹介記事
  • 話も会話もなくてね。     :テレビのインタビュー
  • 外来に通院されてくる患者   :耳鼻科の看板
  • 領収書としてレシートを発行していますので領収書は再発行できません。(差し出されたレーシーとには領収書と明記されている)  :耳鼻科の受付に書いてありました。
  • 親の親権を無視して       :児童虐待に関して弁護士
  • 空き瓶が空いたので       :入れ物がないと探していた娘らの会話         
  • 老後の心配           :老人になったときが正解ではと私は思う。
  • お湯が沸いた          :水が沸いてお湯になったのではないのかしら。
  • 毎日の日課           :家内が私に申す小言
  • ご飯茶碗            :湯飲み茶碗、お茶を飲む椀が茶碗ではと考えるのですが。
  • ほとんどポリオは撲滅した    :撲滅は全滅で(ほとんどなどの形容詞はつかないのでは)フジテレビ




*考え方の違い*85 中国は覇権国家か

 中国は核兵器を保有し、世界最大の鉄の生産国であり、全人口の4分の1を占めるまさに超大国である、しかし覇権国家としての地位は低い。歴史が教えるところによると超大国となった覇権国家は例外なく自国に美味しい料理を持っていないのである。

 ジンギスカン、ナポレオン、ヒットラー、大英帝国、などを思い浮かべていただくと”そうね”とうなずいていただけると思います。美味しい料理を持たないと他国でも生きて行けるということです。中国は美味しい料理を持つために自国から離れなれられず、遠くの他国へ長い期間出かけていくことができないといえるのではないだろうか。

 こうした考えからすると現在のアメリカも当てはまりそうですね。



*考え方の違い*84 非を認めない中国人

 台湾からきたかわいい女性、ビビアン、ある番組で彼女が房総のホテルでボーリングをしたときのことである。慣れてないビビアン、一本しか倒すことができなかった、すると、一本残ったときの練習をしていたのだと主張する。次に投げたときにはガーターになってしまった。

 すると、最も右側を走らせたのです。三投目もガーターになってしまった、どうもこのレーンは右に傾いているようですね。四投目もガーターになると今日は温度が高いので右に行ってしまうのね。とこのように主張をする、日本の女性であるならはにかむ程度の反応をするに違いない。こうした行動の形式は上海でも北京でもやはり見ることができる 。

 会社に遅刻しても電車のせいにしてしまいますし、電話するのを忘れてもNTTのせいにして決して己が悪いとは認めないのである。己が悪いと認めればその対価を支払わねばならないことを本能であるかの如く行動をしているのである。日本人がごめんなさいを連発するのとは対称的である。



*考え方の違い*83 交通信号【1】

 交差点にある信号のことを中国語では“紅緑灯”という、決して赤と青と黄色のことを意味していないことに注意していただきたい、日本の交差点にある信号が赤い色、青い色をしているのであろうか。

 交通法規には青い信号のとき通行可とある。最近LEDを使用した信号がお目見えしていると聞いている。このLEDを使用するときちんと青の色が表現できるとのこと。すると日本人は今まで青い信号でないときに交差点を渡っていたことになる。

 ここにも言語を大切にしない国民性が表れている。こうした曖昧さを許すことができない中国では”紅緑灯”と表記していることになる。紅の色、緑の色、とも日本人が想像する紅の色、緑の色ではないこと注意していただきたい、中国の方の青の色は日本人が見ると黒に近い色なのである。言葉ではなかなか説明が難しいので別の機会に紹介したいと思います。



*考え方の違い*82 暦

 現代中国では世界標準にあわせようと暦に西暦を用いている。だが中国は今でも農業大国であることに変わりはない。農作業を行うには便利な農歴を用いている。そうすると正月が二回来ることになり旧暦の正月を”春節”と名付け正月より盛大にお祝いをしています。

 この”春節”共和国になってから孫文が名付けたといわれております。日本も昔は旧暦の正月を祝うところもあったようだ。しかし現在ではほとんどが西暦の正月しか用いないようでる。

 中国では”最後の皇帝”以後日本の大正、昭和、平成といった年号はなくなり西暦に統一されおります。台湾では今でも西暦と、中華民国が成立した日から数える(中華民国暦)を使用しています。



*考え方の違い*81 猫が犯人

 我が家の軒先になんと雀の死体が転がっている。触って見るとなま暖かい、これはきっと我が家の猫のせいだ。猫が犯人なのだ。カラスが都会に繁殖しゴミ捨て場などを荒らし、人間たちも大弱りだ。つい最近も電車の線路に石がおかれてありこの犯人がカラスだと分かった。

 この文章を読んで日本人は少しも矛盾を感じないが中国人から見るととてもおかしく感じるのだ。猫もカラスも人ではないので犯人ではないのである。強いていうなら犯猫、犯カラスなのだ。猫もカラスも法律に違反しているといいたいのだろうが、猫もカラスもこの法律の制定に参加したこともなく法律を教えてあげる方法もないのだ。

 日本人は動物も人もまぜこぜにして考えるが中国の方は決して動物を人とは見なさないのでこうした考え方はない。動物は儒教を知らないそれこそ人でなしなのである。



*考え方の違い*80 年越し

 中国では西暦の1月1日は正月という雰囲気を感じない。旧暦の正月西暦よりおよそ一月位遅れてやってくるを”春節”祝うためだ。この”春節”が中国の正月なのである。新年を迎えた気分は何とも言えずすがすがしいものであると万人が認めるところであろう。

 だが日本人は昨年のことはすべて忘れて新年を迎える。去年の垢を落とすために、風呂にまではいる。そして、新年を迎えた当日、一年の計は元旦にあり、今年こそはと思いを巡らす。中国の方には去年のことを忘れて今年の誓いを新たにする。

 といったことはない、今年の誓いをたてられる方はおられると想像できるが去年のことを忘れる、過ぎ去った昔を忘れる、といった考え方持った方は存在しない。同じように年越しを祝う習慣はあっても、方向に少しずれがあると言えるのかもしれない。



*考え方の違い*79 お年玉

 もうすぐお正月を迎えます。後幾つ寝るとお正月、子供の頃は本当に待ちどうしかった。そんなことを思い出します。お正月になるとお年玉をもらえますね。日本では元々年をくれる年神様がこの役目をしておられてみんな一斉に年を重ねたものでした。

 そのときに子供に大人がくれるものがお年玉なのです。今では小学生でも何万円もの大金をもらったとか新聞をにぎわしています。中国にもお年玉があります。”圧歳銭”といい”紅包”という袋に入れて子供にあげるわけです。80歳の両親の子供は50歳でもおかしくはなくごく自然ですね。この50歳の子供もお年玉をもらっています。つまりお年玉は子供にあげるものなのです。

 日本人は子供にあげるというときの子供は児童、少年少女、といった概念を持っているのでしょうか。自分の子供は50歳になってもやはり子供なのですけれど、なぜかこのときは50歳は子供ではないと見なしているのでしょうか。もちろん中国でも 祖母、祖父が孫にお年玉をあげる、こうしたことも行われています。日本で50歳になった子供がお年玉をもらったらきちがい扱いされてしまうことでしょう。



*考え方の違い*78 字を書く

 日本では字を”書く”と書物の書の字を用いる。現代の中国では”写”の文字を用いる。仏教の修行の一つに写経があるが、日本人が写経をするということは、ありがたい教えの書いてある”経文”の文字を一字一字写し取っていることに他ならない、中国の方が同じ作業をしていても書いているのであって写しているのではない。

 このときの日本人の行動は受け身であり、中国人の行動は能動的であると言えるかもしれない。だが結果としては同じものができなけければおかしいわけで、違う結果が生まれることなど想像すらしないわけです。

 仮にA社とB社の技術陣が競って材料を投入すると品物ができあがる機械を発明したとする。当然A社とB社の方式は異なることになります。この機械を購入した顧客からしてみますと結果が同じであれば問題のないことになります。

 このように微妙な差はなかなか理解しにくく、表面だけは同じであるために同じことをしていると錯覚しやすい。因みにオフィスビルのことを中国語では”写字大楼”といいます。



*考え方の違い*77 謝る2

 中国の国家主席江沢民日本に客人として来られ帰国されてから久しいが、日本政府が日本がきちんと謝らず、韓国の大統領には謝ったと批判、中傷の声が絶えない。なぜなのか。日本人は謝るといえば口で”ごめんなさい”ということであると認識している。

 しかし、中国ではちがう。謝るとはその償いをすることである。金銭で、労働で、財宝で、己の持っているものを差しだし許しを請うことである。その結果謝っている国が民族が、謝られた側より裕福に暮らしていることはあり得ないのである。


*考え方の違い*76 残留孤児

 昨日我が家へ残留孤児の方が遊びに来られた。どうして残留孤児が生まれたか。敗戦の折り親だけが子供を何らかの理由で中国の大地に置いて日本に帰ってしまったのが原因である。中国の方から見れば敵の子供である。一般の中国の方、普通の農民、市民の方、いわゆる市井の方が我々の同胞の面倒を見てくれたことに思いを馳せなくてはならない。

 それも一人や二人ではなく数千の中国の市井の方が面倒を見てくれたことにやはり思いを巡らせねばならない。当時の日本人や現代の日本人に果たして同じようなことができたであろうか。よくよく考えてみて欲しいと私は大きな声で主張をしたい。。



*考え方の違い*75 年齢

 *考え方の違い*74のところで書いた会長、N会長中国に訪問した折りあなたは何歳になられますかと聞かれたので英語で何歳に見えますかと問い返した、するとなんと実際の年齢より5歳も若く答えてくれたと言う。5歳も若く見られたN会長はとても喜んで私に一緒に喜んでくれるだろうと思って告げた。

 私は日本では確かに若く見られたことは喜ばしいことではある。だがN会長中国で若く見られたと言うことは少し能なしに見られたに等しいと私は答えてあげた。

 どうしてなのかと尋ねられるので20歳の息子に10歳の子供でもこんなことはしないなどと言って叱ったりしますね。と答えてあげるとまたまたがっかりしてしまった。中国の方は年齢の高い人を尊ぶ習慣があり、不老不死、長生きが人生の目標といったところがあるのである。これを知らないN会長頭を掻いてしまった。



*考え方の違い*74 交渉

 私は昨日ある会の忘年会に出席した。ここの会長は御年83歳なかなか元気なかたである。昨年になるが中国を訪問し歓待を受け先方の”偉い人”がパソコンのプログラマーをとりわけ優秀なのを派遣してあげるとの約束をしたと会長は考えた。これだけの方が言われるのだから間違いはないと信じてしまった。

 そして帰国し時を待った。やがて中国からそんな優秀な人材を派遣するわけには行かないと断られてしまった。なぜなのか、考えに考えた、そして体制の違いに気がついたと言う。つまり中国は共産圏なので”偉い人”が言ったぐらいで決まるものではないと。それを聞いて私は言った。

 共産党が支配をしている共産国だから”偉い人”の一言で決まるのだと。どうすれば良かったと聞かれたので、相手は中国であることつまり外国であることをを念頭に置きねばり強く交渉する事を忘れてしまった結果だと答えた。

 日本人は相手が自分とよく似た顔をして歓待してくれたものだからついついこちらの要望を理解してくれたものと錯覚してしまったのだと付け加えた。この会長飛行機で二度も行ったのに何もならなかったと嘆くことしきりであった。



*考え方の違い*73 謝る

 中国の江沢民主席が正式に日本を訪問なされた。中国語の”訪問”は正式にあるいは公に訪問するときにしか用いないが日本語では私自身が友達の家に訪問したというように使用することがとができるからである。

 そして小渕首相が口頭で過去の過ちに対して謝罪を行った。中国に訪問した日本の閣僚や首脳は中国の要人に会うたびに謝罪しているようにみえる。なぜこうも長いこと謝罪が続くのか、謝っても謝っても許してくれないいじめのようにさえみえる。

 日本人は友達と喧嘩をしてもトラブルがあっても”水に流す”ことが可能である。そして何事もなかったようにつきあって行くことができる。喧嘩ばかりをしていた両親が天国で喧嘩をしている姿を想像することはなく神様に仏にでもなったように感じている。中国人は喧嘩をした相手である。

 まして政敵はたとえあの世に召されてもやはり政敵であり喧嘩の対象である。つまり時間の経過とともに忘れてしまうというメカニズムを持っていない。日本人が中国に永久に謝り続けることをしたくなければ中国人ときちんと交渉をして和解するしか方法がないと私は考える。つまり何かの対価を支払い以後は謝罪を要求しないことを約束するしか方法はない。

 この場合の対価は金銭のみを意味しない。中国の方は”水に流す”といった解決法や忘れる方法を持っていないのだ。このことを忘れて中国から何度も謝罪を要求されると騒いでみても始まらないのである。

 中国の方の大同小異は小異を残すことに力点があり日本人の大同小異は小異を忘れることに力点があることをゆめゆめ忘れてはならないのである。



*考え方の違い*72 体制

 中国はこの地上に残された数少ない共産主義国家である。(キューバ、北朝鮮、位しか思い浮かばない。)日本はアメリカと同盟を結んでいる自由主義国家である。

 しかし本当にそうだろうか。最近中国は社会主義市場経済と言う言葉を用い日本との差がなくなりつつある。政府がすべてを行うのが計画経済、政府の関与がないのが市場経済だとすると日本はまさに計画経済体制を敷いていると言えるのではないか、とすると、日本と中国は体制の差は認められないということになる。



*考え方の違い*71 超大国

 中国は人口12億を抱え経済発展に邁進している経済大国であり、およそ300万の人民解放軍を擁する軍事大国であり、社会主義を高く掲げる政治大国でもあることは否定できるものではないであろう。

 そう上中国には原子爆弾を持ち運搬することができるミサイルを持っている超大国なのである。こうした背景を元にやはり超大国のアメリカとがっぷりよっつに組んで相撲を取っているように見える。

 だが我が日本はこうした中国の誇り高い行動様式に比べなにもないように感じられる。軍事的にアメリカの傘の中にいる日本に中国はまるで弟のようにしか接していないようである。



*考え方の違い*71 缶ビール

 上海など中国の大都市ではビールがたくさん飲まれています。瓶に入ったビールと缶ビールどちらが好きですかと中国の方に聞くと缶ビールと答えられます。日本だと缶ビールは携帯しやすい、早く冷えて便利などこうした答えが帰って来るであろうことは自明の理であろうと思われます。

 どうしてかと尋ねると瓶のビールは再利用で瓶をきちんと洗われて洗われていないからとの答えもあったが、中国で缶ビールが上市されてから日が浅い、青島ビールを除いて中国国産の缶ビールがない、缶ビールは舶来の品で品質の良いものだと信じられているようです。

 ですから彼らは迷うことなく缶ビールが好き、缶ビールが良いと答えることになるようです。ですが正式の宴会などで缶ビールがでてくることはなくやはり瓶ビールが幅を利かせているのは日本と同じだといえます。ビールを瓶に詰めるより缶に詰めるのは結構難しい技術なのだということもできるでしょう。(もちろん現在とは異なっています)



*考え方の違い*70 白色

 日本の男性は結婚式に黒い服を着て縁起の良いとされる鶴などの図案の白いネクタイを付け参加する、葬式にはネクタイを黒に変えて出る。この白色は中国人にとっては葬式の時にしか用いない色であり、葬式を想像させとても不吉な色なのである。日本人の方が中国の結婚式に黒い服を着てでられたら結果は火を見るよりも明らかである。

 私は台湾で葬式に出た経験を持っている。葬式を行っている人々が真っ白な衣装を身にまとった姿が瞼に焼き付いて離れないでいる。彼らの服装は日本の山伏の姿にとてもよく似て、顔だけが白い布で覆われていないばかりでその他の部分つまり頭から足の先まで真っ白なのである。顔だけが歩いているようなまか不思議な世界のように見えた。

 こうした経験を持つと白い色は不吉な色に見えてもしかたがないなと今では信じられる。それにしても葬式と結婚式が同じ服でネクタイだけが違う、これはいったいどうしたことであろう。潔癖性な日本人の習慣としては納得しかねるのは私だけであろうか。



*考え方の違い*69 ふりがな

 中国人の用いている言語が中国語であり漢字を用いて表記されておいでです。そして漢字は原則的に一つの漢字に一つの意味一つの発音である。日本語も漢字を用いて表記していますが日本語にはこうした原則はない。そしてカタカナ、ひらがな、漢字の三種類をが混在している。日本語はひらがなを用いてふりがなと称して発音を表記する事ができる。

 これはとても便利である。しかしこの便利さが無原則に行使されるとこれはこれでややこしいことになるのであるが。たくさんの漢字を用いた中国の書物にこうした発音を伝えることに努力をされた形跡を見いだせないでいる。

 しかしこうした発音に関した安直な方法が採れないということは発音は誰かに付いて学ぶ以外にないことを意味している。つまり先生がいなくてはどうしていいのか検討も付かない、発音のない状態で文字を覚えるのは不可能に近いと思われる。



*考え方の違い*68 お風呂

 お風呂は日本人とは切っても切れない関係である。1ヶ月もお風呂に入っていない人は日本にはいないであろう。入っていないと言えば汚いと言われ誰も相手にしなくなってしまうと思われる。では中国ではどうか、最近の上海など大都市の部屋ではお風呂の設備が常備されているのが常識となってはいるもののお風呂のない家庭は珍しくはない。

 中国のある映画では花嫁をもらうときに生涯でただ一度風呂に入る場面があった。中国の大地では乾燥していて日本のようにべとべとしていないのが主な原因と私からは思える。

 もちろん経済的な要件も大きいとは容易に想像できる。では中国人が不衛生なのであろうか。少しばかり観念が違うにすぎないのである。映画芙蓉鎮では男性が主人公である恋人の女性の足を洗ってあげる場面がある。

 こうした足を洗う器を【脚盆】といい顔を洗う器を【LIAN盆】と使用しています。そして彼らが採用したお風呂は西洋と同じくシャワーを主体としたお風呂に入るではなく【lin浴】で体を洗うことを主眼としている。日本にある【盆浴】つまりお風呂とは少しばかり違うのである。『体を洗う』ことが重要なことであり、日本人のように風呂に入り『いい湯だな』とはならないだけである。



*考え方の違い*67 薬とは食べる物

 日本語では『薬を飲む』『薬を貼る』『薬を注射する』などとは表現をするが【薬を食べる】とは表現しない。中国語では【薬を食べる】と言う。【医食同源】の考え方からだと私は理解しているが、

 私は中国で風邪を引いたと思い医院に行き薬を処方してもらったことがある。するとどうだろう何種類かの漢方薬をいただいた、そしてこの医師の説明だと一日三回食前にこれを【食べろ】と言う。一回分がご飯茶碗一杯にも相当する量なのだ。

 なるほど、これでは薬とは【食べる】ものだと納得した。桜木町の佐**医師が私に言う。日本人が漢方薬を飲んで効き目がわるいのは食べてないからからだ。そうかもしれないと納得してしまう以外になくなってしまった。



*考え方の違い*66 核実験

 米国、英国、フランス、ロシヤそして中国が現在までの核保有国である。極最近インド、とパキスタンがこの核保有国の仲間入りを果たした。広島市、長崎市は人類史上初の原子爆弾の被爆都市であり、現在でも被爆された方の苦しみは50年を経過した今でも続いている。過日中国の東北地方の黄**高官会食をし核実験の話題のなった。毎年毎年原爆が落とされた日に両市は慰霊祭を行っている。

 このことは原爆によって受けた悔しさをいつの日か晴らすために行っていると思われるとこの高官氏の見方である。つまり『落とされた』と受け身の体制である。アメリカによって落とされたわけであり、自分たちが落としたわけではない。

 アメリカよもう二度と日本の領土に原爆を落とさないでくれと主張しているようにも見えない。喧嘩に負けた弟がもう打たないでと哀願しているようにも見えない。

 パキスタンが核実験に成功した日にパキスタンの首相の発言は『日本が原爆を持っていたら原爆を落とされずにすんだであろう』であった。



*考え方の違い*65 薬の目的

 中国は歴史の長い国、秦の始皇帝の昔から人々はこの大地に生を受け暮らしていたことになる。始皇帝の主治医である某氏。顧客至上主義を貫く某氏としては評判が評判をよび当代最高のお客である始皇帝を得たことに笑みを隠しきれない。

 全て叶うと考えている始皇帝の望みは不老不死であることを疑う余地はない。しかしこのことは機嫌を損ねれば己の命も危うくなることを意味する。そこで熟慮を重ね秦の始皇帝に処方する『薬』は二通り以外にないとの結論に達した。

 第一の方法は質、量とも容易には手にすることができない、そう地の果てにしかない希有の薬を処方する。第二の方法はありふれた”もの”ではあるが継続が困難である”もの”、重要なことは飲んでたちどころに治療効果表れる”もの”ではないことである。そうすれば己の治療に対して始皇帝の怒りを買わずに済むことになる。なぜなら継続ができないので効果がないのだとにおわせればいいのである。

 具体的にはどうするか。人里から3年かけなければ辿り着けない過酷な僻地で育った人参が第一の例にあたる。菖蒲の根はさして珍しい”もの”ではないのであるがこの菖蒲の根と水のみで生活をすれば始皇帝の望みである不老不死を達成する事ができると説くのが第二の方法である。

 肝要なことは原因があれば結果があることのみを説き決して科学的な検証をしないことである。科学的な考え方を採用しますと某氏の命は風前の灯火となることは火を見るよりも明らかである。



*考え方の違い*64 クリントン中国訪問

 98年7月アメリカの大統領が中国を9日間に渡って訪問をした。天安門事件が起きた北京の天安門広場で講演を行い、大陸間弾道弾の的をお互いに外したと報道された、喜ばしいことと日本の新聞の論調である。

 だが少し落ち着いて話をして欲しい、アメリカの大統領と日本の首相はこうした会話ができるであろうか。できはしないのである。つまりアメリカの大統領と対等には話ができないのである。日本国内にアメリカの基地がありアメリカを攻撃する手段を日本は所有していないばかりかアメリカの核の傘に入っている国がなにを発言しようと当のアメリカは相手にはしてくれないのである。

 こうした非独立国はまたアメリカの交渉相手である中国からも相手にされないのである。このことを日本人はもっと知らなければならない。中国は遼寧省の高官李**の意見も同じであった。

 戦後の短い期間ならともかくこれほど長い期間なぜ外国の軍隊が自国に駐留しているのを許しておけるのか、中国であれば万難を排してこうした異常状態の解消に努力するであろう。現に香港を取り戻した。とこの高官の発言である。日本人ももう少し独立した国家の形成に努力をされたら如何かと私も思う。



*考え方の違い*63 同じ漢字を使う

 日本人は中国語と同じ漢字を使用していると考えていると思われる。しかし、中国から文字を学んだ日本人が、中国との間にある大きな海に阻まれたり、鎖国を経験したり、ひらがなカタカナを発明したり、長い年月をかけて異母兄弟のように変わってしまったと考えていいと思う。

 日常使う言葉に大きな違いが見られる。例えばお母さんを中国語で書くと【娘】となり女房を中国語で書くと【老婆】となってしまった。よく似ているがために 理解が困難になってしまったと言える。



*考え方の違い*62 位牌と仏壇と神棚

 共産主義を支えている考え方に唯物論がある。宗教は唯心論であり対立をしている概念である。あるキリスト教団体の調査によると中国では無宗教が72%キリスト教が0.2%仏教が3%であり、日本は無宗教が3%キリスト教が3%仏教が58.8%となっている。共産主義の中国が無宗教が72%で納得がいくが日本人の6割が仏教徒とは恐れ入る。

 私の周りの人には7.5.3を氏神に詣で神前で結婚式を挙げキリストの誕生日祝い、仏式で葬式をあげておられる方がほとんどであるからだ。こうした無節操な宗教観を持った日本人と宗教を信じないと誓った頑固な中国人がいることになる。

 そこで中国の人から見れば日本人のこうした行動を見てまか不思議に感じることになる。仏壇に位牌が祀ってあることが多いのであるがこの位牌は儒教の考え方である。そしてさらにまか不思議なことに神社のお札やしめ縄が同じ家の中に飾ってあることである。もうこうなると日本人がなにを信じているのか説明する事さえ不可能に思えて来る。



*考え方の違い*61武士の存在の有無

 宮本武蔵は有名な剣術の使い手であり武士である。赤穂浪士はやはり武士として日本の社会に長く語り接がれてまいりました。

 ヨーロッパにもジャンヌダルクだとかドンキホーテだとかの騎士が存在した。ところが4000年の歴史の中にこうした武士の姿を探し出すことができないのだ。武士は封建時代の産物であると定義すると中国には封建時代はなかったことになる。

 『武士はくわねど高楊枝』『武士道とは死ぬことと見つけたり』と道を究め経済的な裕福さを越えたところに生き様を求めることがなかったことを意味する。

 中国はお茶の産地であるが『茶道』は生まれなかった。中華料理は世界中に普及したが中華料理のマナーはついぞ生まれなかった。フランス料理や日本料理には音を立ててスープを飲んではならぬとか食事作法があるのだが中国料理にはこうした考え方はないのである。



*考え方の違い*60 外来語を表記する。

 現代社会は良きにつけ悪しきにつけ欧米の考え方や行動方式が闊歩している時代である。欧米の生活様式である背広、ネクタイ、靴を世界中のサラリーマンが着たり履いたりしている。

 言葉の方面でもこうしたことは進行している。外来語の氾濫がそうである。日本人はカタカナを発明した恩恵にあずかり外来語を簡単に表記できてはいる。このことは表記するのが便利だが言葉としての意味を伝達するのには必ずしも適していない。

 漢字だけの中国ではどうやって表記しているのだろう。幾つか方法がある。もちろん、自国語に訳して訳して用いる例が圧倒的である。2〜3例を挙げて見よう。

1)アルファベットをそのまま使う。(正式には認められていない)

カラオケ  【(上下)OK】      レントゲン  【X光】  ポケベル【BB機】

2)音と意味を関連させる。

シチズン【西鉄城】オリエント時計【東方表】ミノルタ【美能達】 3)音を借りて表現する。

クリントン【克林頓】ショック【休克】インターネット【因特網】 *)自国語に訳して用いる。

1)コンピュータ、【電脳】,クリック【打鍵】プラスチック【塑料】



*考え方の違い*59 外国語を学ぶ

 中国語は日本人から見ますと外国語である。日本語は中国人から見るとやはり外国語である。外国語である以上何らかの方法で学ばなければ理解する事ができない。中国の方は外国語を学ぶとは発音を学ぶことがもっとも重要だと認識されているようだ。

 北京語、上海語、広東語、福建語などが中国の中にはあり、上海語で話されると私など【普通語】しかできない者からしますと、一時間ほど上海語を聞いたとしても聞き取れる単語は一つもないのである。

 北京の方がやはり上海語を聞いたとしても私と同様だという。だが書く時は表意文字である【漢字】を使う、発音は違っても、書くときは同じと言うことになる。こうした環境下であれば当然のこととして外国語を学ぶと言うことは発音に敏感でなければならないと考えても不思議ではない。

 私の田舎の山梨には『はんでめためたごっちょでごいす』という言葉がある。『はんで』=急いで、『めためた』=いつも、『ごっちょ』=わずらわしい『ごいす』=ございます、と言った意味である。従って『おはようございます』は『おはようごいす』となる。日本の中の方言は単語や文法に違いがあると思われる。この考え方の元では外国語を学ぶことは単語と文法を学ぶことに等しいのである。これに学生の受験競争がが加わり単語、文法の偏重になったと推定できるのである。



*考え方の違い*58 漢字

 日本語にはひらがな、カタカナ、漢字、最近では英語の綴りさえ見られる混在した言語である。これに比べ中国語は漢字しかない、コンピュータ関係の雑誌などでは、日本語と同じように英語の綴りが見受けられるようにはなった。日本人にこの漢字だけの言語は中国の文化の理解に対して様々な困難をもたらす。

 1997年7月1日香港の返還式典が行われた、式典の最初の言葉は【開始】である。つまり、これから始めます、とか、開始しますとか、の言葉はなく【開始】のみである。日本人には物足りなく感ずるのであるがこれが中国語である。

 同じ漢字を使っているからと言って同じ意味を表しているとは言えない、むしろ微妙に違うために誤解が生じやすい。この場合は式典の開始の宣言であるので意味は似ている、ただいまからとか、今からとか、の背景の言葉がないのである。こうしたことがたくさんありとまどいを覚えてしまう。



*考え方の違い*57 ゴミをすてる

 最近日本ではゴミを燃すとダイオキシンがでるとか、ゴミの処理に感心が集まっている。ゴミの量は文化を測る物差しなどとしゃれてばかりいられなくなって来ました。

 私94年から都合5回ほど上海におじゃまする機会に恵まれた。二度目の訪問の時、劉偉*方に招かれ夕食をごちそうになったことがある。彼の家は8階建ての5階にありエレベーターがないので階段を歩いてたどり着いた。

 彼の家は日本流に言えば2DK、65平米である。家の窓から4階建てと見られる隣の建物の屋上が見えた、そして私は驚いた。なんとこの屋上はゴミの山であった。聞けば彼が住んでいるマンションの住民が投げたものだという。そしてこの住民の悩みはゴミが減る速度が遅くなっていることだという。

 つまり最近のゴミの中にはプラスチックが多くなり自然に消滅する事が少なくなりゴミが貯まってしかたがない、前はこんなことはなかった。ゴミは自然になくなってくれたものだと、私に話してくれた。

 自然から与えられた“もの”のみを消費しておれば確かにそうなる。山の中で自給自足の生活をすればなにもゴミを焼却したり埋め立てしたりする必要はないのである。じゃまにならぬように端っこにでも置いてさえおけば良いのである。だが、其れがなぜ隣のマンションの屋上に自宅のゴミを投げてしまうのかもう一度尋ねたが昔からの習慣との答えでしかなかった。



*考え方の違い*56 靴が痛い

 ある日の会合で偶然に郭*にあった。彼女は【天津】生まれの女性である。とても穏やかな女性で心が落ち着く、今日は北京から彼氏が日本に戻ってくるので迎えに行くとのこと、みんなでシルクセンターを見学することになったが、彼女が今日履いてきた靴は形はいいが長距離を歩くのは不向きだという。

 どうしたのかとある日本人のY氏が彼女に聞いた、そして彼女に言う『靴が痛い?』。靴が合わないので足が痛いのなら理屈には合っているが、『靴が痛いのですか』と答えに詰まっている彼女にもう一度問う。そこで私がY氏に靴には感情はないと言いますとこのY氏きょとんとしている。日本の方は『靴が痛くてたまらない』などとも言う。郭*さんにはこうした感覚はない、靴が合わないと何度も言う。



*考え方の違い*55 何でも食べる中国人

【食在広州】、【食在中国】などと言い空を飛んでるものは飛行機以外、四つ足のものは机以外何でも食べるのが中国人と言われている。本当だろうか、確かに広州料理の食材は豊富であり、猿、猫、蛇、蚕、犬日本人が見ると驚くものばかりである。

 皮を剥がされた猫を販売しているところを目にしてショックを覚えた経験がある。だが共通点がある。熱を加えた料理であることだ、つまり火を通すことによって消毒をしたものである。

 消毒をしてない料理はないことになる。食材は豊富であり、火を加える料理の方法も豊富である。果物を彼らはどうやって食するのか、火を加えて料理をすることもあるが、皮をむいて中身は生で食べることが多い。矛盾するではないかと言われそうであるが、植物は自分が成長し結実させる段階で黴菌を果実には入れないようにしていることが知られている。動くことができない植物は動くことができる動物に果実を食べてもらい結果として子孫を残すための種を新天地に播いてもらわなくてはならない。

 このことを中国の方はよく知っていて果物の中には黴菌はいないので消毒をする必要がないだからそのまま食べる。中国の方が温かいものしか食さないのはこうした背景があるからなのだ。何でも食べるのはこうした衛生概念のない日本人かもしれない。反対に言うと衛生概念の違いと言えるのかもしれない。



*考え方の違い*54 ゆとりある出勤

 朝晩に仕事場に急ぐサラリーマンでごった返す風景は日本も中国もよく似ている。もちろん交通事情によって、方や電車や車で通い、方や自転車で通うといった違いがある、通勤距離にも大きな違いがある。

 新横浜には大きなオフィスビルが林立し朝晩の通勤によるごった返しはわずか数年前には想像さえしなかったことである、そしてこの大量のサラリーマンがオフィスビルに吸い込まれてゆく。そしてよく見てみるとこの人たちの何割かが走っている。つまり道を急いでいる。

 北京の北京飯店から見える100メートルはあろうと思われる大きな道路を埋め尽くす程の自転車の大群が通勤時間には見られる。だが新横浜で見る光景とは少しだけ違うのだ。中国の出勤風景の中に新横浜で見られるような走っている人がこの中国にはいないのだ。自転車を降りて歩いている人は見られるのだが、決して道を急いでいるようには見えないのだ。上海でもたくさんの人々が自転車であるいは歩いて通っているのだが走っている人をついぞ見かけたことがないのである。

 日本人は朝から忙しく走りまわり中国の方は余裕を持って仕事に取りかかっているのかもしれません。因みにオフィスビルは中国語では【写字大楼】と言い通勤は【上下班】と言います。



*考え方の違い*53 小さい秘書

 トウショウヘイ率いる改革解放の政策が進行し社会主義市場経済が定着してまいりました。個人で事業を興しお金を儲けることが可能になってまいりました。上海から飛行機で約45分位のところに【黄岩】に創業3年の【利*工業有限公司】がある、ごく最近2000坪の土地の50年間の使用権を日本円でおよそ1000万円で借金ではあるが手に入れた。

 約100人の従業員で洗濯ばさみを製造して日本や欧米に輸出している。この35歳の社長はドイツが上海で現地生産している【サンタナ】の乗用車に乗り立派なものである。驚くのは小さい秘書【小秘】も手に入れてしまったことだ。もう一度驚くのは【小秘】を隠すでもなく私と一緒に昼食をするときにも同席されたのである。【小】とはかわいいを意味する中国語、【秘】とは秘書の略つまり二号さんに近い存在なのだ。二十歳くらいのとてもかわいい【小秘】である。

 この社長の給料が日本円で約40万円、女工さんの給料が日本円で約6000円である。この中から郷里に仕送りをしなくてはならないのである。女工さんとは50倍の差がある。この【小秘】さんの給料は社長の計らいで約4万円である。外国人である私が買うと1000万ぐらいは用意しなくてはならないのだが、社会主義の国中国では会社からの援助もしくは指示があれば上海のマンションが60平米で約80万買えるのである。50倍もの給料差があれば【小秘】を雇うことは難しくはないと私は考えてしまった。



*考え方の違い*52 真っ直ぐな首

 中国の映画のなかで遊郭のママさんがこれから女郎として売り出すため歩き方の訓練を大きな声で叱咤激励しながらしている。遊郭のママさんの要求は己の首を天と垂直にして目は前を向き背中を真っ直ぐに歩けである。これに答えて女性たちは必死に頭に本を載せて落とさぬように歩く。

 つまりこれが格好の良い歩き方とされているのだ。日本で芸子さんがこんな恰好で歩いたらどうだろうか。芸子さんが首を伸ばして和服を着て真っ直ぐに風を切るように歩いたら想像するだけで滑稽に思えるのは私だけであろうか。

 日本の芸子さんは首を前方に10度ほどたおし、背中をほんの少し曲げ、内股でしゃなしゃなと歩く、これこそが芸子さんの歩き方であろう。北京でも上海でも中国の女性は首を真っ直ぐにして歩いている。そう、首をうなだれて歩いている女性がいれば日本人である。言い過ぎであろうか。



*考え方の違い*51 不法入国の中国人

 1998年の日本は絶不調の不景気である、私自身も大きな影響を受けている。先ほども宮地社長が現金を持ち歩いて名を馳せ安売りで有名な城南電気の倒産がニュースにあったばかりである。なかなか不景気と認めなかった政府も対策に賢明である。ところがこのまことに不思議なことにこの不景気な日本に中国からの密入国が後を絶たないのである。

 最近の新聞にも九州の何処そこから闇に乗じて上陸したとあり、写真にはおんぼろ船が写っている。そしてきまって中国の【福建省】から、【蛇頭】とよばれる組織に大枚をはたいて偽物のパスポートを買い日本にやってきたとある。そうなのだ、きまって【福建省】からと書いてあるのである。私の記憶ではほぼ100%【福建省】からである。【大連】や【青島】からとかは書いてない。

 なぜだろう、答えは彼らの気性にあった。【福建省】は決して恵まれない土地ではない。むしろ【上海】や【青島】と同じ沿岸地域であり裕福な土地である。そして海に近いので気候は温暖であり暮らしやすい土地である。

 ところが彼らは生まれてから死ぬまでこの土地で暮らすこと潔しとしない、外へ出て活躍する事こそが人生の目標だと考えている。こうした人生観が彼らをして日本に来させるのだ。横浜の中華街に住む中国人の過半数は【福建省】の出であるとある【福建省】からまいられた中国人の話である。こうした考えは日本人には理解できにくいと私は思う。



*考え方の違い*50 台湾のバス

 台湾の台北など大きな都市へ行きますと大通りにはタクシーがたくさん走っているのに気がつく、そして、みんな黄色であることにとまどう。聞いてみれば法律でタクシーは黄色に決まっているのだという。

 乗車拒否や違法運転を避けるためだと言う。なるほどと感心した次第である。台北の駅からそれこそ黄色いタクシーに乗って今夜泊まるホテルへ行くことにした。タクシーの運転手に台湾には【夜市】あると聞いてきたが何処にあるのかと尋ねた処、【小林】の【夜市】が規模も大きくて有名だという。

 【夜市】とは日本で言う夜店がたくさん出て道路を違法に占拠してそれはそれは大にぎわいな市場である。夕方バスに乗って行くことにした。ホテルのすぐ側にバス停があり、行き先が書いてあったのでこれに乗ることにした。

 知らない土地ゆえバスを待っている人に行き先を聞きバス停にして10個目だと確認してから乗った、乗ってから驚いた、なんとバス停の案内がないのだ。つまり、次は**です。とか停まったバス停の名前とか何の放送もないのである。

 ただ黙々と走り土地の人はただ黙っておりたり乗ったりするのだ。隣の人に次のバス停は何というのか、目指すバス停まで幾つあるのか何度聞いたことか、乗客の乗り降りが多いのでそのうち私はわけがわからなくなり、とうとう終点まで行ってしまった。そしてしかたがなく黄色いタクシーに乗り【夜市】にやっと着いた。後でわかったことだが順調にいけば15分ぐらいのところであったのだがこの日は実に1時間もかかってしまったことになる。



*考え方の違い*49 明日の天気

 日本人は、今日は暑い、暦では秋だというのに暑いわね。いい風が吹いて過ごしやすいわね。などと、挨拶をする。ところが中国で『あした雨が降るでしょうか。』と問えば分かっているのなら聞くなと言われてしまう。言った中国人もたいそうな立腹の様子である。どうしてだろう。中国人の嫌いなものに亀がある。この亀の甲羅が湿ってくると時を経ずして雨が降ってくるのだという。

 つまり、明日の天気を聞くと言うことは聞かれた人は自分が亀であることになってしまう。それで『あした雨が降るでしょうか。』【明天可能下雨MA】と聞かれたら『わかっているなら聞くな』【明知故問】と答えてあげましょう。そうすれば聞いた本人が亀であることになります。中国人の方の間では現にこうした受け答えになっておるようです。もちろん大喧嘩間違いなしである。



*考え方の違い*48 名前

 当代の人気女性歌手”あむろなみえ”は20歳になったばかりであり、かつ結婚をしてから半年を経ずに子供が生まれることになりマスコミの恰好の取材材料になってしまった。生まれた子供名前をなんとつけるか。話題はここに集まっている。”なみえ”の一文字をとってなどと予測がされている。

 これを中国人から見るとなんとまか不思議に見えるのだ。なぜ母親や父親の文字をもらうことができるのか理解できないである。家族の名前を姓とすれば名は自分の名前である。家系を大切にする中国人から見れば親の名前をもらってしまえば家系の順番はわからなくなってしまうことになります。

 中国の文字は漢字であることは疑う余地はないところである。そしてこの漢字は表意文字であることもまた衆知の事実である。このことは交通信号のように一文字で表さなければならないことを意味します。この原則を守りますと己の名は一文字でなければならないことになります。

 そこで【毛沢東】の例を覗いて見ましょう。【毛沢東】兄の名は【毛沢民】弟の名は【毛沢*】妹の名は【毛沢健】となり三文字の二番目の【沢】の文字が【毛沢東】の世代を意味していることになります。

【毛沢東】の【東】が自分の名前というわけです。980602の毎日新聞によりますと『安室奈美恵』の子供は『温人』の名前が噂になってしまったので『はると』の音だけ残し『温大』になったとのこと。



*考え方の違い*47 呼び捨て

 日本人は相手を呼ぶとき**さん、**君などと敬称を付けて呼ぶ、そうしないと相手に対して失礼だと信じている。この敬称なしで呼ぶときは学生時代の親友など、かなり親しい人だけである。ところが中国人にはこうしたことはない。私でも中国語を用いているときは【李軒】【郭玲】などと呼び捨てにする。これが自然なのだ。

 では父親、母親は自分の娘や息子を呼ぶときにどうするか。【李軒】【郭玲】と姓と名を合わせて呼ぶのである。もちろんこの場合【李】が姓であり【軒】が名である。【郭】が姓であり【玲】が名である。

 日本人で親から姓と名を一緒に言われた子供はどの位いるであろう。因みに長男を意味する【老大】次男を意味する【老二】と言った呼び方もするし、かわいいことを意味する【小】をつけて【小玲】呼んだり、あるいは名前を重ねて【軒軒】といった呼び方もする。外国人に対して【先生】と敬称を付けて呼ぶ。従って日本人である私に来た手紙に【**先生】と書いてあっても私が先生であると中国の方が信じているわけではないことになる。



*考え方の違い*46 年齢

 桜木町の駅前の通りで、なにに乗って帰られのですかと問われた30歳ぐらいの大和撫子、つい国鉄と言ってしまうところでした。そして年がばれてしまうわねとはにかんでおられた。この大和撫子にとっては年を重ねることが怖いのか、恥ずかしいのか、反射的にこのような反応をしてしまった。

 中国の女性はこうした反応を示すことはない。自分の年齢も恥ずかしがる様子もなくはっきりと言う。むしろ年齢を重ねて来たことはすばらしいことなのだ。30年の間事故にあって死ぬこともなく、死には至るほどの病気もなく、楽しく人生を過ごすことができた。

 だからこうして歩いておられるしおいしいものもたくさん食べることができる。そう年を重ねるこことはいいことなのだ。立てば歩めの親心と言うではないか。私もきちんと年齢を重ねたいと思う。



*考え方の違い*45 殺魚節

 中国には56の少数民族が同居している多民族国家である。(中国の政府が1950年から調査した数字では55の少数民族とある。)(信じられないことにこの民族という概念が中国人にはつい最近までなかった。これも西洋文化の影響である。)だが人口比では圧倒的に漢民族の天下である。

 この少数民族の一つに苗族がある。彼らのお祭りの一つに殺魚節がある。その昔天の神様が川の魚に助けられたお礼に川にのみ雨を降らせ苗族が住む村には降らせなかった。これを知った付近の住民は怒って川の周り2キロに渡って並んでモリで川の魚を殺すことにしたのだと言う。

 私の考え方から言えばそんなことをすれば神様は二度と再び苗族の村に雨を降らせないであろう。漢民族の李*の意見も同じでであった。この中国という国は人口の多い多民族国歌であり、その考え方の多様性には驚かざるを得ない。



*考え方の違い*44 子供(2)

 上野の動物園にカンカンとランランの間に子供が生まれた。これを中国の人が聞くととても驚く、なぜパンダから子供が産まれるのか。理解できないからだ。子供とは元々人間の子供のことを言うのではないか。子供会と言えば子供の集まりであり、まさかパンダの”子供”は子供会には招かれないであろう。

 ではこういうとき中国ではどう表現するのであろうか、パンダが小さいパンダを生んだと言う。絶対に子供を意味する【hai子】は使うことはない。中国人の考え方からすると動物と人間はとても違うものなのだ。日本人のように曖昧にはできないのである。少なくとも動物は儒教を学んだことがなく儒教の教えをまったく知らない非礼な輩なのだ。



*考え方の違い*43 お刺身

 最近の中国では主に北京などの大都市において経済の発展につれ日本と同じように肥るのをいやがる傾向が顕著である。若い娘さんには特に強い。そこで一部で日本食が受け入れられその代表であるお刺身が流行している。私が【黄岩】におじゃましたときのこと、先方の会社の方夕食をともにする事になった。このとき驚いたことになんと料理の一つとして大きな船盛りの刺身がでてきたではないか、魚じたいは鯛ほど大きくはなく鰺ぐらいである。

 衛生観念が我々と違うこの地方都市でである。そして刺身には付き物となんと『ハ*スの練りわさび』がでてきたではないか、これには二度びっくりである。そしてなんと女性、男性を問わずおいしいと食べているではないか。魚の種類は何度か尋ねたがついにわからずじまいであった。私はというととどうしても危なっかしくて食う気がしなかった。中国の方から見ると私たち日本人は刺身を食しているから肥った人が少ないと信じている様子である。

 世界のマグロの80%を日本人が食していることを日本人は知らねばならないし、もし中国の方が日本人と同じようにマグロを食べ始めるとたちまちマグロは枯渇してしまう。どうか日本人よおいしいマグロを食べ続けたいのなら、この味を中国人に教えないで秘密にしておきましょう。

 因みにダイエットは中国語では【減肥】と言い、すらっとしてスリムなことを【苗条】と言います。



*考え方の違い*42 犬食い

 23歳の上海の娘が我が家にこられたときのことだ。上海の娘と言っても私と血縁関係があるわけではない。世話になった方の娘さんである。一緒に餃子でも作って食べようと餃子の皮を私が練り娘らが具を刻み、餃子を作ることになった。この上海の娘は日本に来たばかりでまだ片言の日本語しか話せない。

 でも食事を作るこの工程はお互いに理解できわいわいとことは進んだ。そしてみんなで食卓に着き食べることになった。このとき我が娘が私に言う。なぜテーブルに置いたままの碗に口を近づけてたべるのかと。私から見ても奇妙に思う。これを上海の娘に伝えるのだが理解してもらえない。

 もちろん私のつたない中国語のせいもあるのであろうが、恰好がわるいとははなから信じていないのだから始末に負えない。だがつい最近まで日本でも歩きながら”もの”を食べてはいけないとされていた。ハンバーグをほおばりながら歩く娘をみて不自然さを感じなくなっている自分に気がつく。



*考え方の違い*41 大同小異

 ”大同小異”中国人がこの言葉を聞きますと交渉を終えたが少しの意見の食い違いがある。だけれどもここで妥協した方が得策なのでまとめようとしていると考える。

 意見の食い違いは依然として残っているのである。この状態を示して言葉なのである。しかし日本人はなぜか大同だけを強調し小異の部分は捨ててしまう。大同小異となれば交渉は円満に解決全てを分かり合えたと信じてしまう。

 元々文字の意味からして同じ意見が多く食い違い部分は小さいとしかこの4文字熟語はは読めないのである。つまり日本人と中国人が大同小異で交渉をまとめるといつこの違いが表面かするかわからないと信じ、日本人は小異を捨てているために全てを同意したと信じていることになる。よっていつかは衝突が起きることになるのではないかと憂う。



*考え方の違い*40 千葉

 中国の方が日本語のこの発音を初めて聞くと吹き出してしまうと言う。若いお嬢さんが聞くと顔を赤くしてしてしまい、男性が聞くとにんまりとしてしまう、そうした言葉に聞こえてしまうのだと言う。そしてなんと【七八】も同じだと言う。そこで何人かの中国の方に聞いたが取り合ってくれず教えてはもらえなかった。中国留学生の李軒さん(男性)がはにかみながら教えてくれた。

 答えはなんと日本語の『ち**こ』男性の持ち物の名前だったのである。聞いたわたしは『え』と驚いた。確かに発音は似ているが連想できなかったからである。因みに中国語では【鶏】と【巴】を連結した単語を用いる。発音は『千葉』である。中国語のどうぞの意味で【請】と言います。発音は【Qingちん】これを中国語では二回言う習慣があるのでと”ちんちん”と聞こえて中国語をかじりたての頃困った記憶があります。



*考え方の違い*39 『春眠暁を覚えず』

 春は日本人にとって寒さから解放されてほっとする季節である。そして春は新年度の始まりでありうれしい季節でもある。そして寒さから解放されたぽかぽかする陽気のせいで眠くなってしまう。

 こうした雰囲気の中では居眠りの一つもしたくなるのも無理はない。春の日溜まりの中での居眠りは格別である。そこで日本人は『春眠暁を覚えず』と言い眠くなったときのいいわけに使ったりしている。『春眠暁を覚えず』とは春のうららかな天気に裏打ちされ人にとって心地よい響きを覚えますね。

【春暁:::孟浩然】

【春眠不覚暁】

【処処聞啼鳥】

【夜来風雨声】

【花落知多少】

 中国の方から見ると違って見えます。これは上記に記した詩からでた言葉で春の夜中にに降る大雨は大きな音をさせ人を眠らせない、当然寝不足になってしまう。このことを言っているのだ。昔の日本の家には屋根裏にネズミがたくさんおり、夜中に猫がこのネズミを追いかけてとてもうるさくて眠れないときがありました。私はこれと似てるのではと思っております。



*考え方の違い*38 頭を下げる

 中国残留孤児として12歳の時来日した20歳の男性が地裁裁判官の質問に答えて言った。『金がなくていつも同じ服を着て笑われた』、『頭を下げないと殴られた。』そして、学校から足が遠のき中国出身の同世代の仲間と遊び暴走族に加わった。(毎日新聞の少年と法とより)。日本人の方にこのなぜ中国残留孤児が頭を下げないのかが理解できないようである。

 日本人が頭を下げる、これはいったい何のことなのだろうか。すれ違いの挨拶の一つでしかないのではないのかと私は考える。いや正式に下げる時もある。息子が悪さをし過ぎて隣の家の方に親子共々頭を下げる。官直人厚生大臣が血友病の治療に非加熱製剤を用いエイズになってしまった患者に頭を下げる。日本にはこのように2種類あるのではと思える。中国の方が頭を下げる。このことはなにを意味するのであろうか。

 トウショウヘイの写真入りの看板(広州で)訪れた江沢民一行が頭を三度下げた。このように中国人の頭を下げるという行為は敬礼に等しいのだ。だから中国の社会で育ったこの若者はなぜ年がら年中頭を下げなくてはならないのか理解できないのである。



*考え方の違い*37 電車の中

 中国の方に何度も聞かれたことがある。日本人は電車の中でほとんどの人が居眠りをしているか、本の類を読むかであり、なぜこうも無口なのかと。

 なぜそうなのかと問われて見るまで考えたことはなかった、私は必ずしも無口ではなく友人と乗ったときなどやはり延々とおしゃべりは続くのであると思っている。しかし、電車の中で大きな声での話声が聞こえてくるとなるとかなりの確率で中国人である。

 そこで私はなんであんなに大きな声で話をしているのかとこの中国の方に聞いてみた。すると中国語は大きな声で話をせねば通じない、聞き取ってもらえないのだという。そういえば、私も中国語で話をしているときには、やはり日本語よりは大きな声ではっきりと話をしているのにきずく。中国の方には私たち日本人がぼそぼそと話をしている声は聞き取れず、無口で居眠りと本を読んでいる人しか目に入らないようである。



*考え方の違い*36 桜と梅

 日本人は桜が好き、桜に哀愁を感ずる方はとても多い。桜の咲く季節には桜の木の下で花見会が至る所で見受けられる。上野の桜の木の下にての場所取りは新人の役目とかで テレビなどでまるでこの季節の到来を告げる定番の番組のようである。

 こうした花見をする習慣は中国にはないのだが、日本人が桜の花が好きなように中国人は梅がすきである。日本人が好きな桜の特徴は散り際がすてきなことであり中国人が好きな梅の特徴はまだ春のこない寒い中で可憐な花を咲かせることだ、ちっとやそっとのことではへこたれない、強い花なのである。次に有名な歌の例を見てみることにしよう。

桜−−−−−小学校の唱歌

さくら、さくら、やよいのそらは、みわたすかぎり、

梅の花−−−−−−テレサテンの歌より

【梅花、梅花、満天香、越冷TA、越開花、氷、雪、風、雨、TA、都不PA、TA是 我的国花。】TAとは第三人称を表す単語、日本語の文字ににないのでTAと記す。

 梅の花、いい香りに満ちて、寒さが強ければ強いほど咲き乱れる、どんな厳しい気候にも恐れはしない。梅の花、それは私の国の花。

訳すとこんな感じになります。日本人の願望が潔さであり、中国人の願望が粘り強さであろうと思われる。



*考え方の違い*35 披露宴の進行

 台湾の台北で結婚披露宴に出席したことがある。取引先の会社に訪問にしたおり今晩暇かと聞かれ当然暇だと答えた、すると、【喜酒】を飲みに行かないかという、【喜酒】って何ですかと聞いたところ、結婚披露宴のときに振る舞われる酒のことを【喜酒】というのだとのこと。

 まず私が驚いたのはなぜ今晩という、突然に披露宴に出席できるものかと言うこと。なにも遠慮せずにきてくれと言うので、興味深々、付いていってしまった。

 なんと、丸いテーブルが30以上並んでいるではないか。やがて午後の七時、始まりの時間なのだ、お客さんも七割方テーブルに着いている。十五分すぎたであろうか、花嫁さん、花婿さんが入場してきた、私が驚いたのは何の放送もなしであったことだ。

 日本であれば司会者が花嫁花婿の入場です大きな拍手でお迎えくださいというところだろう。時間の経過と共になにやら行事が進む。司会さえもいないのではとも思われる。ところがお客様たちにはたじろぐ様子は微塵もない。どうしたことなのかと尋ねた。答えは料理の品書きにあった。

 中国料理は一品一品順番にでてくるのがしきたりだ。この日は十二品書いてあり、伊勢エビのからあげがもっとも最後に書いてある。この料理が出てくると本日はお開きとなる。つまりこの品書きに従って行事は進行していたのだ。およそ三百人もの方が賑やかに食し飲み会話を楽しむ、こうしたことが新郎新婦からのもてなしなのだ。

丸いテーブルに大勢の方が座った状態を想像していただきたい。丸いのであるから誰かは背を向けた状態にならざるを得ない、式次第が書いてあっても見えないのだ。日本のように列に並べばこうしたことは起こらないのではないかと考えたので聞いてみたが、彼らは習慣だと言うばかりでとりあってくれない。

 料理の順番が式次第だと聞いて驚いた私だが、これはこれで合理的であり、始まる時間も終わる時間も料理が教えてくれるのである。新郎新婦が蝋燭を持って各テーブルに回って火をつけるキャンドルサービスも、新婦の着替えお色直しもなにもかもこの料理が教えてくれるのだ。伊勢エビは中国でも高級料理であり、中国語では【龍蝦】という。



*考え方の違い*34 箸【1】

 北京で、上海で、広州で、大連で、大きなホテルのレストランで小さなホテルのレストランで、また、横浜の中華街で出される中国料理、このとき例外なく我々日本人と中国人は”箸”を用いて食す、このとき出される箸の長さに驚かれる方も多いと思います。少なくても日本の箸のばいの長さはあるであろうと思われる。

 どうしてこのようにながいのであろうか。ある中国人の説によると中国では丸いテーブルにて大勢で食事をする。こうした場合は主は料理を取ってあげねばならないのだが、この作業が可能な長さなのだという。そういえば日本にはそうした習慣がないので必要がないのだ。日本の箸はどうして先が細いのであろうかとの問いには日本人の好物に魚があると答えることができる。

 魚を食すときにはまことに便利なのである。鰯の小骨をとるとき中国の箸や西洋風のフォークをではうまくいかない。そのせいか中国の方は魚を食べるとき巧妙に骨ごと口にほおばり、ぺっぺと吐き出す。私から見ると汚くて仕方がないのだが彼らはいっこうに気にする気配はない。中国の箸は肉や野菜を食するのに向いていて、日本の箸は焼きサンマや蕎麦を食すのに向いているといえる。同じ箸を用いると言ってもこのようにかなりの違いがある。



*考え方の違い*33 弁当

 台湾の首都の台北から田舎町の工場に出かけた時のこと私としては初めて台湾の電車に乗った。乗ってから15分くらいしてからである。席の後ろの方からかわいいお嬢さんが押した車内販売のワゴンがやってきた。そして【びえんたん】と言うではないか。何のことかと振り向いてやっと分かった。

 日本の習慣であるお弁当がそのまま台湾の言葉になり、それを台湾の方の言われる【国語】つまり大陸で話される言葉である【普通語】で発音されていたのだ。その発音が【びえんたん】なのである。物珍しさから思わずその【びえんたん】を買ってしまった、100台湾元日本円にして400円位であったと記憶している。

 具は骨付き鶏肉の煮物でとても油こかった、ご飯もぼそぼそしており日本国内の弁当とはひと味違うものであった。しかしほんのり温かかった。本来中国の方の習慣ではこうした弁当を食べる習慣がないのである。およそ弁当と名が付くものは料理してから時間が経過しており、冷えたご飯なのである。こうした黴菌がうじゃうじゃしている冷えたご飯を食べるわけはないのである。

 黴菌の着いた手でぎゅぎゅと握ったご飯、それが時間の経過と共に黴菌が繁殖する。この黴菌の固まりを食す。これがおにぎり弁当なのであるから、それこそ論外なのである。しかしどういうわけかお弁当という日本の習慣が台湾へ伝わってしまった。そしてこれを台湾の方たちが受け入れてしまった。台北のコンビニにはお弁当も、海苔巻きも、いなり寿司もみんなある。

 だが、大陸では未だこうした習慣はない。だから職場に愛妻弁当を持っていく習慣もない、職場にこうした昼食を提供できる場所がないのであれば、自宅に時間が掛かろうと能率が悪かろうと帰って昼食をとるしかないのである。980513



*考え方の違い*32 略語

 日本人が使用している言葉は日本語であり、文字として媒体に表現するときには”ひらがな”、”カタカナ”、”漢字”を用いています。日本独自のものといえばもちろん、ひらがな、カタカナ、です。

 そして漢字カナ交じり文ということになります。漢字だけで表現された文章、例えば電子式卓上計算機、この単語は電卓として略語として生き残っていますね。漢字とは読んで字の如く漢民族が発明した表意文字です。

 日本語の思考形態にあわせて漢字カナ交じり文を大和の民族が考案したと私は信じているのですが、この文字なんとこうした略語がうまくできないのだ。カセットラジオをラジカセなどと言う方法もあるがこれとてもカナ交じり文を略語にしたとは思えない。

 ところが漢字だけの言葉はこうした略語を作る能力が高いため漢字しかない言葉を使う中国人の方はそれこそこうした略語を連発するのだ。思考回路が違うとしか思えないのである。980512



*考え方の違い*31 我が子同様

 隣の家の子供をまるで我が子のようにかわいがり、隣近所を大切にする優しい旦那様、こうした光景は今は少なくなったとはいえ、日本のほほえましい伝統の一つであろうと考えられる。

 “我が子のように”という言葉を聞いた中国人にとっては、ほほえましいどころか、この優しい旦那様は隣の旦那に殺されても文句は言えないのだ。どうしてかですって。答えは隣の旦那から見れば自分の家系や汚されたことになってしまうのだ。

 己のよって立つ基盤が先祖代々守ってきた流れが消されてしまうのだ。これほどの屈辱はないのである。この辺の感覚は項を改めて記したいと思う。 980511



*考え方の違い*30 にわか雨

 雨の種類のことが中国の方と話題になった。中国語では雨を小雨【小雨】、大雨【大雨】、こぬか雨【毛毛雨】、夕立【陣雨】と表現する。夕立についてであるが日本人の感覚からするとこの夕立とはそれこそ夕方一回だけ降るものでしかない。ところが中国では一日に何回も降るのである。

 上海のラジオの天気予報で本日3回夕立があると放送していたのを聞いたことがある。そこで私はこのことを中国の方に何度も問うが違いについて理解してもらえない。私としては夕立が何回も降ることがおかしいと何度も主張するのだが雷雨【雷雨】としてしか分かっていただけない。



*考え方の違い*29 時計を贈る

 結婚のお祝いや、新築のお祝いに時計を贈りますね。知り合いの田舎の家の新築祝いにたくさんの方から時計を贈られ、床の間と言わず、玄関、はては、台所まで置かれてあったのを見たことがあります。

 大きな家なので必要だろうと大きな時計もありました。おそらく20個ぐらいはあったのではないかと思います。これと同じように中国の方に時計を贈るととても悲しい顔をされる。

 時計とはおそらく日本語であり現代の中国では【鐘】といいます。置き時計は【座鐘】柱時計は【掛鐘】、そしてものごとの最後を【終】と表します。映画の終わりは【劇終】と言います。この【終】と【鐘】の発音が同じなわけです。となると、時計を贈る、は【鐘】を贈る、【終】を贈る、となり、終わりを連想させることになり、おつき合いを終わりますとなってしまうわけです。

 ところが腕時計は【手表】といい【終】を連想させません。つまり腕時計を贈るのであれば悲しむ顔を見なくてすむと言うことになります。因みに時計を逆さまから書くと計時となり時間を計ることを意味します。98年4月何日だったかマカオが中国に返還されるのをカウントダウンするために北京に時計が掛けられました。このカウントダウンのことを【倒計時】といいます。香港が返還される時にもやはり同じように掛けられました。 980510



*考え方の違い*28 文字

 中国の有名な湖の一つである、西湖に訪れたとき、湖のほぼ中央にある島に、皇帝が建てたという碑を見る機会に恵まれた。高さは4m、幅2m位はあろうと思われる、この碑に『魚』という文字が見事に書いてあるのだが、よく見ると魚の文字の『火点』の点が一つ足りないのだ。

 同行の中国の方にこれはどうしたことかと尋ねた。すると。これは皇帝の書いたものであり、皇帝には皇帝の道理がある。とのこと。これを聞いた私はとても驚いた。この皇帝は自分が書き間違ったことを認めず無理を通してしまったことだ、またこれを民も認めてしまうことだ。このような考え方は日本の将軍様にも天皇陛下にもないであろう。もし書き間違えば天皇は間違いと認めると私には信じられる。



*考え方の違い*27 生水

 今は昔、旅たちをするときに先輩や隣近所の方によく言われたものでした。”旅先では水に気をつけてください”と。その土地その土地に生活用水があり、天然の生水を飲用にしておりました。

 おそらくこの生水に細菌が住んでおり、土地のものにはすでに免疫となっているのですが、よそ者にはこうした免疫が存在しない。そこでよそ者である旅人は生水を飲用するとお腹を壊してしまうのでないかといまになって理解できたような気がする。

 中国の水はどうであろう。中国の方はこのように旅先で水に気をつけてとやはり言われるであろうか。結果としては似ているが答えは否である。元々中国には生水を飲む習慣がないのである。沸かして殺菌を完全に施してからでないと飲まない。井上靖原作の映画『敦煌』では池のような所に口を付けてのどの渇きを癒す画面があるのはどういうわけだと言われると答えに窮するのであるのだが。中国の長距離列車に乗れば沸かし湯のサービスが付き物であるのもこうした考えに由来するものと私には思える。

 旅をするときにはお湯を飲むためのコップを持参するのは極々自然なことである。家族全員で広州へ旅行したことがあるが、このとき生水を飲んではいけないと教えたがなかなか理解してもらえず、広州へ着いた当日喉の乾いた次女が『生水』を飲んでしまいお腹を壊して”しんどい”思いをしたことを昨日のように思い出してしまいます。因みに沸騰したお湯のことを中国語では【開水】熱いお湯のことを【熱水】ぬるま湯を【温水】お冷やのような水を【涼水】といいます。中国語の【湯】はスープを意味する単語です。9805008



*考え方の違い*26 部屋の面積

 日本では部屋の面積を表すのに、3畳間、4畳半、6畳、8畳などとの枚数で表しています。奥は1000畳敷きだよなどと言い大きな部屋を連想させたりします。

 ところがこの畳の大きさは一定しているものではないおよそ三尺の六尺現代風に言えば915ミリの1830ミリとなるのだが、畳屋によれば関東間、京間、団地サイズ、松下電器産業サイズ、先ほどの36間などいくつかあり関東間が一番大きいとのこと、なぜこんなに曖昧なのかというと柱の大きさが一定していないからだ、いやいや、大工の腕によってだ、などと議論がかみ合わない。

 それに畳そのもの温度や湿度によって延びちじみがあり定まった寸法はないのだという。マンションの大きさを表現するには2DK、3LDK、といった方法もあるが、3DKの部屋が2DKの部屋よりこれもまた必ずしも広いとは限らない、60平米と面積で表したマンションの広告もあるが、柱や壁の芯から表しておりこれも曖昧である。

 こうしたことは中国人の感覚からは許されない。100平米のマンションと言えば購入者が使うことのできる面積が100平米を意味しており、共有部分に関しては共有部分と表記しています。この曖昧さをどうして日本の消費者は許しておるのだろうか。理解に苦しむところである。


*考え方の違い*25 10年間何も食べずに生きる

 過日テレビで10年間も何も食べずに生きてきた女性の話が放映されていた。内容は次のようである。2ヶ月間の絶食で自らの信念を訴えたガンジーでさえ山羊の乳を飲んでいたという噂がある位に長期の絶食は困難である。だが北京の海淀地区に住む22歳の女性【丁静】さんは7年間【避谷】の状態に入り水のみで生きてきた。

 こうした人間が中国にはたくさんいる。そして、中国解放軍の病院では胃と腸が眠っている状態だと診断された。【丁静】は食欲を感じたことがない。だがこの10年の間に身長は10センチ延び体重は9キロ減少した。

そして栄養素0の水だけで大学生活を送り看護婦になるべく勉強中だという。こうしたカロリー零の水だけを摂取している状態で体力を消耗するであろうボーリングに興じている。そして取材班が【丁静】の部屋に入ろうとすると自分の部屋に入れると”気”がなくなる【丁静】はかたくなに拒否をする。

 この【丁静】は空気中の蛋白質を吸収することができると言うのである。胃の状態をみるためのレントゲンをとろうとすると造影剤は飲めないと言う。だが【丁静】いまはリンゴ三個分程度を二三日かけて食べる。【半避谷】状態であるという。こんなことを信じる人間はほとんどいないと私は信じている、こうしたとを平気で言える人間が中国にはおるこのことは真実であると言うことである。

 日本人のなかにこうしたことを考える人間が果たしているだろうか。食事をしないで生きることなどできないのだからこれは大きな冗談ですよ。と、言われてしまうかもしれませんね。因みに中国ではボーリングのことを【保齢球】と書きます。980503



*考え方の違い*24 ちまき

 子供の節句つまり5月5日端午の節句の日であり、粽を食べる習慣が、以前より減ったとはいえ伝統的に続いています。この日は子供の成長を願い、無事に成人になるように願って粽を食す。とまあ、こうなっていると私は理解していますのですが。



 この粽もまた中国から渡来したものと確信しています。というのは中国の有名な詩人『屈原』の物語に起因しておると考えられるからです。中央の政府から追われた役人『屈原』は西湖のほとりに住み、土地の住民に優しく利発な役人として慕われておりましたが、中央への思いは断ちがたく、やがて失意の内に自ら河へ身を投げて命を絶ってしまいます。

 そして住民は魚に『屈原』の身が食われてしまうのを防ぐために粽を投げ入れ、住民は優しかった『屈原』をしのび粽をこの日に食すようになったと言う。どうして粽を投げ入れると粽を魚が食い『屈原』の身を食わなくなるのか理解に苦しむがところだが、なぜ日本には粽を食べることのみが伝わり、この背景が伝わらず粽を食べることだけになってしまったのか。『粽食べ食べ兄さんが計ってくれたせいの丈』と歌っていられなくなるのではと思います。



*考え方の違い*23 ピンク

 日本では世人向けの映画をピンクなどと言います。中国では黄でこれを表します。町でおもしろい洋もののビデオがあるので買わないかと呼び止められることがあります。こうしたビデオを『黄帯』と言います。裏ビデオですね。こうしたものを売っている人を『黄牛』と言います。

 映画『最後の皇帝』皇帝が着ている服は全て黄色でした。皇帝以外の人間がこの色を用いることは許されていませんでした。黄色は皇帝の色なのです。日本人には黄色は道路工事などで使いただただ目立つ色としか思えないのですが。中国の方たちにはこうした歴史からくる思いこみがあるようです。



*考え方の違い*23 餃子

 日本人の餃子好きはかなり有名である。日本人の好きな食べ物の一つと言えるのだと思う。この餃子は元々は中国の食べ物の一つであり主に北京以北を中心に食べられている。

 年越しの日には、それこそ”単身赴任のお父さん”も帰られ家族全員で餃子を作り、新しい年を迎える。中国の方は餃子は作るとは言わず包むと表現される。小麦粉を水を加えて練り餃子の皮を作る。、豚肉と野菜をみじん切りにして、これに油を少量加え具を作る。この具を皮に包む。そして茹でる。このように餃子を作るには手間と時間が必要である。そこで家族総出で行うこととなる。

 一家団欒とは家族を包み込むでありこのことは餃子を包み込む、こうして言葉も形も通ずるところがある餃子を包む様子は家族団欒の様子そのものなのでありとても幸せを感じる時間なのである。こうして包み終えた餃子が食べきれずに残ったとしよう。この残る、中国語では【余】と表現し有り余る財産のように感じられこれもまた幸せを意味する。この残った餃子を食べる時に鍋で焼いて食す。

 この焼いた餃子を【鍋貼】といいます。なぜか日本にはこの形のみが伝わり餃子と言えば焼き餃子となってしまった。つまり、餃子は日本人には『おいしい』だけの食べ物であり、中国人の餃子はこうした考え方のもと伝統として伝えられている大切なものなのである。海水浴などで人がごったえす様子は日本語では『芋を洗うよう』と言いますが中国語では『餃子を茹でるよう』と言います【蒸餃子似的】。980425





*考え方の違い*22 通勤時間と住宅

 改革解放政策、社会主義市場経済主義、の進展に伴い中国の住宅政策も変化をし、自己所有の部屋や、住宅が認められるようになってきました。以前は住宅の全てが国有であり各人が住む住宅は国有企業からの分配であったのでこれは大変な変化といえる。共産主義国として成り立つには土地は国民の共有でなければならないからである。

 中国語の学習会のおり、中国人の講師が通勤時間は長いが条件のいい住宅をとるか、あるいは通勤時間は短いが条件の悪い住宅をとるか討論をしてくれという。それも賛成派と反対派に分かれてである。私からみればなぜこれが討論の話題なのか理解に苦しむ、もちろん家族で討論をするというのなら理解はできる、この場合はおそらくお父さんの通勤時間が長くなる方向へ決着してしまうであろうことは容易に予想できる。

 あるいは話題としてどの位の通勤時間ならば受認できるかといったものであればこれもまた理解できるのである。人間の理想からいえば、都心の広い土地に大きな家を建てて住み、騒音もなく、買い物も便利で、たくさんの木々や花があり、川のせせらぎがあり、浜辺がある。そんなところであろう。つまり横浜の百貨店そごうを改造して花や木をたくさん植えたようなところに一家族で住んでいる。といったところか。

 通勤時間が長いのを願っている人がいるわけではあるまいし、好んで小さい家に住みたいと思う人もいまい。自己の収入などから妥協していることでしかない。だが、国家が国民の住宅を造ってあげるという考え方からみれば通勤時間をとるか住宅をとるか通勤時間をとるか、これは討論するに値すると考えられる。



*考え方の違い*21 出藍のほまれ

【青取之於藍而青於藍、氷水為之而寒於水。】荀子勧学編

 青は藍より之を取りて青より之青し、氷は水より之を為りて而る水より寒し。とまあむりやり読んでいる。青は藍から取るのだけれども藍より青い。氷は水の一つの形でしかないのだけれども水よりも冷たい。といった意味であろう。

 ここで注意して欲しいのは青の色である、日本人が想像する青は【天気快晴なれど波高し】といった青であるが中国人が想像する青はほとんど黒に近い青であることである。日本人は藍は藍よりいで藍より青しといえば弟子が先生を超えることと理解しているが、中国人はそうは思っていない。

 【一日夫妻百日恩】一日夫婦として暮らせば死ぬまで夫婦、つまり、文字を一文字でも教えてもあげれば終生先生となり皆から尊敬される。とこうなってしまう。日本人の場合はこの文は生徒の側から読み、中国の場合は先生の側から読んでいる。こうも言えるのではないか。



*考え方の違い*20 マスク

 台北の空港へ着き今夜泊まるホテル第一ホテルへバスに乗って向うことに決め、バス乗り場を(得意の)中国語を用いてやっとのことで探し当てた。やがて5分ほど走ったであろうか、高速道路にバスは乗ることになった、30分も快適に走ると高速道路の出口についた。

 ここで驚いた台湾の高速道路の料金の収受人は全てうら若き乙女であったからだ。そしても一つ驚いたことには皆が『マスク』をしておることだ。そしてさらに驚いたことには白い『マスク』をされている方は一人もおらず、皆が皆洋服のような模様のついた『マスク』をしていたことだ。ここで3回驚いたことになる。私からみればまか不思議な光景である。『マスク』は白でなければならない。と信じていたからである。

 台湾の有名なバイクの群、彼らも皆、白くない『マスク』をしているではないか。これもまた驚きである。ここでさらに一回驚いたので4回も驚いてしまったわけだ。

 因みに中国語では『口覆』という、口を覆うものである。言い得て妙ではある。なぜ彼らは白い『マスク』をしないのか。日本人にとっては純白の花嫁衣装、白無垢の衣装をなどという言葉があるとおり、白は清く汚れのない清潔な色である、が中国人にとっては死を意味する不吉な色なのだ。白い服は葬式の時にしか着ない服なのである。映画『芙蓉鎮』では主人公と恋人が迫害されて『白聯』を門に掛けられて悩んでしまう場面がある。

 このように中国の方にとっては不吉な色なのである。なら中国の医者は白い服を着ているのではないかと反論されたら『ふむ』と答える以外にないのかしれない。日本人の使われる『マスク』と言われる言葉これはこれでややこしい言葉である。甘い『マスク』いえば『マスク』に砂糖が塗ってあるので甘いということではあるまい。『マスク』がいいといえば形のよい花粉症用の『マスク』のことでもあるまい。その点中国語の『マスク』『口覆』は意味がはっきりしていて私は好きである。



*考え方の違い*19 お見舞い

 中国の方が入院し何人かでお見舞いに行きました。そのとき中国人の方は入院患者を慰めるために顔色が悪いね、会社のことは心配いらないよ、私たちで十分だから、君の仕事も我々がしておくから安心して休んでほしい。と言った。

 もし日本人が聞いたらどんな風に感じるだろう、顔色が悪いね、といわれただけで、ぞっとし、まるで会社としてはいてもいなくてもいいような言い方をされるとこの病人はすっかり元気をなくしてそれこそ入院しなくてはならなくなってしまうのではと心配をしてしまう。

 ですから日本人でしたら、顔色も心配してたほどではなく安心しました。あなたがいないと仕事がはかどらなくて、本当に困るね。お客さんにおこられっぱなし、何とか早く元気になって元に戻ってきてほしいねと言い、でも体が資本だからきちんとなおしてもらわなくては困るし、その間何とか我々でしのいで起きますから。

などと、どんなに会社に大切な人なのかを言ってあげ、相手を元気づける、聞いた本人は自分も何かの役に立っているのかと安心する。 どうも中国の方とはおなじ慰めにしても見る方向、見る角度が違うようです。相手の立場にたって話をするのが日本人、お互いに話す角度が違うようです。



*考え方の違い*18 労働時間

 1997年今年から日本はきちんと周40時間労働となりました。日本人は週休二日制と呼んで休みの方を強調した言い方をしますが、中国も上海などの大都会では昨年1996年から日本と同様に週休二日制を導入致しました。中国の方は五日間労働制度【五天工作制】と呼んでおります。ここでもやはり見る角度が違うようです。



*考え方の違い*17 名画の落札

 バブル華やかしころ日本の富豪が英国やフランスで名画を法外な高値で落札し話題をさらったことがありましたね、ピカソの絵がなんと70億円などという価格がつき世界のひんしゅくを買ったことは記憶に新しい、しかしここ何ヶ月前の新聞にはこの会社も左前になり半額以下で手放す羽目になったと出ておりました。

 このピカソの絵を高額で競り落とし、とても喜んでいた日本人に英国人があなたが死んだらこの絵はどういたしますかと尋ねたところ、この方はこの絵はとても気に入っているので、私が死んだらどうか棺の中に一緒に入れて私共々焼いて灰にしてもらいたいと言いました。これを聞いた英国人はどう考えたでしょう、英国人でなく中国の方だったらどう考えたでしょう。

 中国の方も英国人の方もこの貴重な人類の財産を棺と一緒に焼いてしまうなんて、なんて傲慢な方なのだ、と考えるに違いないと思います。日本人の方でもこの発想をする方は少ないと思われますが、自分が自殺をするとき我が子を道ずれにしてしまうのが日本人の習性なのですから、こういった考え方もむべなるかなと理解できないわけではないのですが。



*考え方の違い*16 割り勘

 孔子の75代目を名乗り、中国語雑誌ドラゴンなどを経営されておられる孔建氏が著書の中でよくめんどうをみてあげた方がその甲斐あって出世されお礼にこられたのにそこの店の勘定を割り勘にしてしまった、こういう方とは二度とおつき合いしたくないと述べておられます、中国の習慣の中には割り勘という考え方がなく、招待した側がきちんと支払いを済ませるのが常識というかこれ以外に方法が無いのである。

 しかし日本人にも,もちろん今日は私がと勘定をもってしまうことはいくらでもあることですが、割り勘でという行為も平常していることなので、この方は何とも思わないのですが、孔建氏にはひどく腹の立つことのようである。今の日本人は先輩、後輩に収入の差があまりなく先輩には奥さんや子供がいたりして生活は独身の後輩の方がよかったりするのが原因と私は考えています。

 現在の中国は貧富の差がとても大きく友人の申しますのに寧下回族自治区の住民の年収が中国語で言う【十年九旱】【10年のうち9年間は日照りで雨がほとんど降らない】のせいで年間の収入が500元、日本円で約7000円位の方もおられれば、広州の【董事長】日本で言う社長、会長に当たる人の一分間の収入が500元の方もおられるとか、日本の家庭で”お手伝いさん”を雇っておられる方はきわめて少ないのですが、香港ではとてもたくさんの家庭が”お手伝いさん”を雇っておられます。

 大部分はフィリピンからの出稼ぎの方とのこと。孔建さんもここのところをよく考えてほしいと思います。皆が中流であれば”お手伝いさん”を雇えるわけはないのですから、なぜならお手伝いさん"の給料も雇い主の給料も同じなわけですからお手伝さんに支払えば残りはなくなってしまうこれが道理と言うものです。

 とすれば自然と割勘が主流にならざるを得ない、かつての私の初任給が約10000円でしたが先輩の給料はかなり高く、7年ぐらいの先輩だと80000円ぐらいでした、約8倍でした。この先輩にトンカツを食べに行こうと言われると喜んでついていったものです。当然先輩のおごりでしたから。中流意識を持った社会では割り勘は当然のことと孔建氏も受け取っていただきたく思います。



*考え方の違い*15 鬼

 日本にも中国にも鬼という概念があります。概念と書いたのは実像として存在していないと信じるからです。中国の鬼は夜が明けるとでてこれなくなります。【芙蓉鎮】の映画の中で主人公【玉音】が共産主義の敵として反動派のレッテル貼られ打ちひしがれているときにが慰めて【天一亮鬼出不来了】『夜が明けたら鬼はでてこれなくなりますよ』文化大革命を鬼に例えてこう言っております。これには【玉音】はかわいく【うん】とうなずいたのが印象的でした。



 これに比べ日本の鬼はどうでしょう、東北地方のなまはげも鬼だとすれば子供に対しての教育の一つと考えられますし、言うことを聞かない悪い子は鬼が懲らしめに来ますよ。どうしようもない子は鬼に食べられてしまうと子供の頃は信じていたものでした。桃太郎は雉、猿、犬を伴にして鬼ケ島に悪い鬼を懲らしめにまいります。このときの鬼は赤鬼や青鬼が鬼ケ島で酒を飲んで飲めや歌えの大騒ぎでした。

 中国での“鬼”の使用例を少し見てみましょう。【日本鬼子】日本人野郎【】阿片中毒、ニコチン中毒【酒鬼】アルコール中毒、大酒のみ、などとあり日本の鬼とは違うようです、幽霊に似ていると言う方もおられるが日本の幽霊は四谷怪談や番長皿屋敷で見ることができますがこれら幽霊には足がなく特定の人にしか見えません。

 幽霊屋敷になどに入りますとこの幽霊,足があるなどと笑われたりしていますね。。これに比べ中国の鬼は誰からも見ることができるわけです。日本の鬼の例を見てみますと『鬼がでるか蛇がでるか』『鬼が笑う』『鬼の居ぬ間に選択』『鬼の霍乱』『鬼の首を取ったよう』『鬼も18番茶も出花』『鬼を酢にして食う』などとなり中国の鬼とは似て非なるものだと思われます。



*考え方の違い*14 縁起担ぎ

 中国の方も我々と同じように縁起を担ぎ、拘っているようです。日本の病院で4号室、を私はまだ見たことはありません。これも縁起担ぎの一種だと私は思っています。現代のように情報が自由に飛び交う時代になっても結婚は大安がいい、葬式は友引の日はだめ、などと、アメリカ人に聞かれたら説明に困るような、はっきりとした理由はないにも関わらず今の若い人にまで浸透しているようです。

 ひるがえって、中国人は偶数が好き、奇数だと安定が悪く倒れてしまうと、信じておられるようすです。ですから結婚式は偶数の日、偶数の曜日がもっともよき日とされています。偶数の曜日とは中国では曜日を表すのに中国では星期一、星期二のように数字を用いて表していることに由来します。

   中華屋さんの入り口に書かれた喜喜を図案にしたもの、そう、あの、ラーメンの碗に書かれた模様、これは喜ぶの字を二つ並べて書いてありますこれも中国の人から見ますととても心弾む嬉しいことなわけです。中国語では【双喜】といいます。それこそ幸せの二重取りといったところでしょうか。ことのときも一文字ではやはり調子が悪いわけです。

 こうした理由から、中国の方は4という数字を嫌いません、むしろ好まれます。四文字熟語はその代表、新聞記事の表題も偶数の文字で表しています。日本人が文章を書くとき、段落の始めに一文字空けて書きますが、中国の方は2文字空けて書かれます。



*考え方の違い*13  週刊誌の見出し

 ある中国の映画(香港)の中で女優さん数人が男性に騙された、この男は女優ばかりねらう天才詐欺師、だが、ふつうの市民からみると話題としてはおもしろい、何しろちょい役の女優ばかりとはいえ、何人もの女優がまんまと騙されてしまったのだ、おまけに裸の写真をタネにお金もまきあげられてしまった。庶民の話題としてはこの上なくおもしろい、そこで、新聞社の編集室でこれを記事にする事に編集長の強い希望でなった、こんな話題は新聞記者の風上にも置けないと主張するものもいたが、編集長からみれば売れさえすればいいことなのだ。そこで、この編集長は文字を3倍に大きくして書くことにした。日本人からみるとこれは目立つようにした、強調したい為に文字を大きくした、それこそ、大ニュースなのだと信じてしまうのだが、彼の言い分は違う、一面の全部をこの話題で埋めるには書くのが大変だ、だから文字を大きくする。まさに、どこかの漫才のギャグならわかるが大まじめに主張し、編集部員に記事を書かせることになった。これを一緒にみた私が尊敬している中国からの女性留学生は日本の女性週刊誌なども文字が大きく書いてあるから同じだと言う。

 私にとってはまさに初めての考え方ではあった。まさか中国の方すべてが文字を大きくするのは記事を書くのが面倒だからと考えているとは思えないがだが、しかし、どうしてこんな考え方が生まれるのか。それこそ理解に苦しむ。日本の女性週刊誌の記者に聞いてみなくてはわからないが、彼らにはまさかこうした考え方はないだろうと思うがあったりしたらどうしよう。日本の新聞の号外は例外なく見出しは大きく書き、記事の文字も大きいのが常だが書くのが面倒だから大きな文字にしているのだろうか。1998年3月15日。



*考え方の違い*12  子供

 文化大革命時代の中国を描いた映画【芙蓉鎮】テレビでも放映されましたのでみられた方も多いと思います。この中で主人公の玉音の昔の恋人に稼いだお金を預けました。というのは露天商ぐらいの商いでも走資派として批判された時代背景があります。この昔の恋人はすでに年齢は推定ですが5歳以下3人の子供がおり、妻に昔の玉音のお金を預かったことがばれてしまいます。当然嫉妬に狂った妻は昔の玉音の恋人である旦那を罵り大喧嘩になってしまいます。このときの妻のせりふは【あなたに3人の娘を生んであげたのになによ】でした。日本人の男性からみますとまさに晴天の霹靂です。日本人の妻であればこのときかなりの確率で三人の娘は私のものあなたが出ていきなさい。さもなくば三人の娘を連れて私が出ていきますと主張すると思います。中国の方の意識の中に女性は子供を産んで亭主にあげるものとなっているのではないかと思われます、子供の所有権は男性側にあり、これに比べ日本の女性は子供の所有権は痛い思いをして生んだ自分の分身なのだから自分自身にあるとこのように考えておられるのではないかと思われます。



*考え方の違い*11  料理

 中国の町を歩いていますと飯店、酒店、菜館などの看板やたらと目に付く、どこかでみたことがあると思い出すと、そう、横浜中華街にある看板と同一、中国料理のお店なのです。中国の町には中国料理のお店しかないのではと思われるほど中国料理一色である。おそらく99%位は中国料理のお店であろう、翻って日本の町には日本料理をはじめ、中華料理、インド、タイ、韓国、イタリヤ、フランス、と、にぎやかこの上ない。中国にも【回民】といい回教徒向けのお店があるではないかといわれる方もおられますでしょうが、しかし回教で禁じられた豚肉を使用していない中国料理といってもいいのではないかとある中国人の評である。上海の町で日本料理の店は見かけたことがありますが、私はフランス料理の店はみたことがない。中国人は中国料理しか食べないのではと思われます。もちろん日本へ来られた中国の方は日本人にあわせていろいろ食しておられるようです、ですが 、中国の方は中国料理しか食べないと言っても間違いではないと思います。つまり日本人は雑食民族であり、中国人は単食民族ではといえるのではないか。因みに【料理】とは中国語では整理をする、処理をすると言う意味です。ですが中国に日本料理と書いた店が出現したせいでしょうか日本料理という言葉はそのまま通用するようです。



*考え方の違い*10 ラーメン

 日本にはたくさんのラーメン屋があります。おそらく単一の料理屋としては日本一の数を誇っているのではないかと思われます。ですがこのラーメンは中国料理だと理解しておいでの方がおられます。確かに名前から連想したりお椀の模様からみますと中国料理のようです。中国語では【面条】といいます。上海で朝食にラーメンを食べた経験があります。 そう、中国では朝食にも食すのです。もちろん日本のラーメンとは味も雰囲気も違い、お粥の粥が麺になっているといったら理解しやすいかもしれません。そう、彼らにはご飯と同じ感覚なのです。としますと副食におかずが必要になりますね。他の料理と一緒に食するものとなります。麺の材料は穀物の小麦ですね、パンも同じ小麦が原料、このように考えるのが自然です。日本のラーメンは主食の穀類とその他の総菜が混在した、カツ丼、親子丼と同じ発想だと思います。このように考えますとラーメンはやはり日本料理といえます。横浜の桜木町に中国から来られた方がお店の入り口横でどーん、どーんと大きな音をさせ麺を(正確には小麦粉を練った固まりを一本が日本に二本が四本にの要領で)延ばして麺を作っておられるラーメン店があります。このようにラーメンを【拉麺】と書き引っ張ってできたものであると主張される方もおられますが一理はあると思われますがそれは麺の種類を指すのであってラーメン屋で出てくるラーメンとはちょっと違うと思います。もし引っ張ってできた麺がラーメンであるのならソーメンはそれこそラーメンの代表ということになります。

 それこそラーメン屋さんでラーメンライスを注文される方がおられますが中国の方からみますと間か不思議に感じられると思います。なぜなら、ライスは米で主食の穀類でありラーメンもまた主食の穀類であるわけですから、赤飯を注文しご飯を注文していることになるわけですから。980321



*考え方の違い*9 お酒の味

 中国には銘酒がたくさんあり五大銘酒といわれるもののなかに日中国交回復の立役者、田中角栄と周恩来が乾杯をしたときの酒が矛台酒である。だがこのお酒、アルコール度数が60度とめっぽう強い、これを一気飲みなどしたらそれこそ昇天してしまいそうである。この矛台酒は白酒の代表である。黄酒、紹興酒、など製法を異にした酒もあり、材料もコーリャンを使用したものなど種類は豊富だ。だがちょっと待って欲しい。

 これらの酒はやたらと強い、ぐーと飲むと顔から火がでるくらいである。味が濃い、ほかのものを少しくらい混ぜたって薄まりはしない。翻って日本のお酒、日本酒はこうした味とは違う。たとえば日本酒には甘口があり辛口がある。甘口だからといって砂糖がたくさん入っているという訳ではなく、辛口だからと唐辛子が入っているわけではない。それこそ、この微妙な味がある。

 味わいがある。山梨の酒と灘の酒はやはり違うこれもまた微妙に違う、旅先で出会う酒はまた味わい深しである。欧州のワインもこれに似ており、これは何年もので、産地はどこそこであると話題はつきない。こうしたわけで料理に合うワインを選ぶ職業さえ存在できるわけです。

 中国の酒を飲んだ経験や中国に存在する酒の種類を考えてみますと中国の方はこうした味をとても理解できるとはとても思えない。むしろこうした考え方とは全く趣を変えたところに味を求めておられのか、もしくは全く関心がないかどちらかだと思われる。私にはどうも後者ではないかと思えてならない。980324



*考え方の違い*8 香港返還

 1997年7月1日香港が英国籍から中国籍になった。日本の新聞やテレビはすべて香港が返還と書いた。返還とは借り主が貸し主に借りたものを返すことを意味する。この返すという作業は借り主の任意の意志に基づいて行われていることに注意していただきたい。銀行から金を家を建てるために借りたとしよう毎月の返済は己の意志に基づいて行われもし返済が滞るようなことになると銀行はこの家を差し押さえてしまうことになる。

 この差し押さえられた状態では返したとは言わない。きっとこの借り主は銀行にとられたというに違いない。香港が英国の手に渡った状況は中国の何十年か前の映画アヘン戦争に描かれている。1998年はじめには芙蓉鎮の映画監督で有名な【謝晋】が新しくこの題材を取り上げ同名の映画が上映されている。

 英国の植民地であったインドから阿片を当時の経済大国の清朝へ持ち込み中国との貿易均衡を計ったのがそもそもの始まりであり、当時の英国の武力に負け99年という長きにわたって無理矢理借りられてしまった。

 これが真相である。従って英国からみれば【返還】であるが、中国からみれば中国の国力が高くなり英国と交渉できるようになった結果取り戻すことができた。それを中国のマスコミは【回帰】と表現している。つまり日本のマスコミは英国側からの見方を採用したことになる。つまり日本人と中国人とは香港に関しては見方が正反対であるといえる。980325



*考え方の違い*7 姓を変える

 日本の女性は結婚しますと男性側の姓に変えられます。養子に行かれた男性が女性の側の姓を名乗ることもあります。ですが、中国の女性は結婚されても姓を変えることはありません。そして生まれた子供は父親の姓を名乗ります。

 もちろん日本人と結婚された場合日本の習慣に従われるとこの限りではありません。香港のNO2と言われる女性の『陳方安生』は”陳”という姓の男性と結婚された”方”という姓の女性で名前を”安生”と言われる方だと私は推察します。最近日本でも結婚しても姓を変えない女性が増えていると報道にはあります。

 ですが、姓を変えないこのことは日本人には想像しにくい結果をもたらしました。私の姓は”村上”であるが、姓をもし変更をしないという習慣であるなら古事記にでてくる”村上”は私の祖先でなければならないことになる。中国にはこうした考えがあり、私は孔子の75代目などと言われる方が出現することになる。

 日本には明確な家系図でもない限り10代さかのぼることは至難のことである。王という姓の方はすべてが一族となり同姓では結婚は許されないことになる。日本のように姓を変える習慣があるとこうした考えは生まれない。私の田舎には雨宮、と広瀬の姓がとても多い。そんなわけで雨宮どうし、広瀬どうしの結婚も珍しくはない。930326



*考え方の違い*6 鍋を洗わない

 中華料理を作るときの必需品は包丁と蒸し器と中華鍋である。実に合理的でこの三品があれば他にはなにも要らないとされる。まな板はどうかと言われると道具といえるのかどうかでちょっと困る。だがこれを加えると完璧であると思われる。中華鍋は半円に取っ手をつけただけ独特の形をしており一見してわかるためご存じの方も多いと思います。

 この中華鍋必需品として中国のどの家庭にもあるようである。中華料理の特徴の一つに油を使って強火で短時間で炒めるというのがある。日本の方は使用した鍋はそのたびにきれいに洗ってしまう。だが中国の方はそんなもったいないことはしない。炒め終わった鍋はそのまま次の料理に使用する。最後はこの鍋でスープを作る。そうすればこの鍋に付いた前の料理の味、調味料が利用でき合理的である。

 なおかつ強火を利用するわけであるから少々の”ばい菌”は即死してしまう、一日に何回か使っているのであるから長い時間ほおっておくわけではないのであるから汚いわけはない。日本にも30年も煮込んだ”おでん”のたれがある。こうした感覚であれば鍋は洗われることはないことになる。購入した中華鍋のおろし方、(使えるようにするには)であるが、強火で変色するまで焼く、当然付いていた錆止めの油や埃が燃えて煙がもこもこあがる、煙がでなくなったら、油を満遍なくまぶすように、浸すように塗る。これで完了である。

 これ以降、この鍋は洗われることはない、焦げ付いた料理のかすが擦り落とされることはあってもである。もし洗ってしまったら、購入した時と同じことをせねばならない。このことを我が家の”かみさん”に何度話して聞かせても理解してもらえず毎回洗われてしまう。洗わないと汚いと言って。980326



*考え方の違い*5 味噌汁の味

中国には日本のような味噌汁の伝統はない。知り合いのKS氏は35歳の時10歳年下の中国の娘さんと知人の紹介で知り合い結婚をした。KS氏は1年ぐらいたったときのこと、自分は中華料理のみを食しており、味噌汁を自宅で食べたことがないのに気が付いた。なにやらとても損をした気持ちになり、無性に食べたくなった。そこで妻に教えることにした。作り方はとても単純である。そして次のように説明をした。

 まず四季折々の野菜を一口サイズに切る。水にだしとして煮干しなどを入れ、焜炉にかけて沸騰させる。そして、切った野菜を入れ、味噌を溶いて加える。そして、野菜の形がしなり、味噌の香りがほのかに香るようにして決して沸騰をさせないこと。沸騰をさせると味噌の香りがとんでしまい、楽しみが半減すること。野菜もしなっとしたぐらいが食べ頃であるむね、再三伝えた。

 しかし彼女は何度やっても沸騰はさせる。野菜は煮すぎてグニャグニャになってしまう。油を用いてしまい中華スープになってしまう。このKS旦那からみれば中華スープが嫌いというわけではないが何とか味噌汁を飲みたいとそれだけが望みなのだ。

 あれから半年ほどの月日が過ぎてしまったが、相変わらず、彼女は味噌汁がうまくできないとKS旦那は嘆く。味噌汁という料理とは何なのだろう。たどり着いた結論は味噌汁の味がわからないであった。ワカメ、鰹節、昆布、こういった味の区別がつかない。

 味の素を入れたらと助言をすると、なんとスプーン一杯も入れてしまうのだ。それでこのKS旦那はあきらめてしまい、今では毎朝自分で作ることにしたという。中国料理にはこうした微妙な味の違いを主張しているものはない。そうした伝統の元では味噌汁を理解していただくのは容易ではないのだと感じる次第である。

 因みに中国語では味噌汁は『黄醤湯』という。『湯』とはスープのことである。これでは彼女の作る味噌汁はやはりスープになっても仕方がないのかもしれません。980406


*考え方の違い*4『禿げ』

 9696なんて電話番号でカツラのテレビで宣伝をしていますね。私にはかわいい女の子が髪の悩みだったらお任せと大きな声で叫んでいるように見える。どうかほっといてくれと主張されたい吾人もおられることだろうと察する。私は中国へ何回かおじゃましたことがある。北京、上海、大連と歩いた。だが、ついぞ『禿げ』という状態の方にお会いしたことがない。



 幸いというか私は中年で白髪にはなったが、今のところ『禿げ』という状態にはなっていない。床屋で散髪をしてもらう度にチョコチョコと聞いてみるがその兆候はないといわれ安心をしている。私の親父は『禿げ』ていた。『禿げ』は遺伝すると聞いているので内心は穏やかではない。中国には禿はないのかと思っていたところ、なんと香港の映画の中に見いだした。、一面には三面記事は書けないといやがる部下に夕刊紙の一面に女優のスキャンダラスを書けと命令する『禿げ』の編集長の頭からは湯気がでているようであった。

このとき私としては初めて中国人の『禿げ』をみてしまった。どうして中国には『禿げ』がないのかと考えると、中国には101があり『禿げ』状態を解消してしまうのではないのか。中国の水は日本と違うので『禿げ』にならないのではないのか、食している中国料理がバランスがとれているので『禿げ』にならないのではないのか、ある中国の人の意見ではストレスがあると髪の毛がなくなってしまうのだという。

 こうした土壌のせいであろうか中国の方には『禿げ』に関して恥ずかしいとか、かっこわるいとか、といった感覚がない、あるのは『禿げ』は病気なのであり中国の医薬を用いれば直ると信じているだけでのことである。ましてや年齢に対して日本人のように年をとることが『かっこわるい』とは思っていない中国人であれば、年をとり『禿げ』て醜くなったといった感傷はもない。

 つまりこうした心配がない。こうしたストレス状態がないことが中国に『禿げ』ない状態を醸し出しているのではと思い至ると何とも不思議な気持ちである。昨晩夢の中で毛沢東に会って話をしたがそのとき『禿げ』の状態に近い頭をみてしまった。話の内容は何も覚えていない。980404



*考え方の違い*3 外国語

 中国の方からみれば日本語は外国語、中国からたくさんの留学生が日本へこられておいでですが中国におられた時から日本語を学ばれた方が大半である。中国の方は外国語を学ばれるときに最初に何をされるだろう、やはり我々の国の文部省と同じように文法を重視されるのだろうか。

 彼らはいつも『多説、多聴、多写、学好外国語』、たくさん話し、たくさん聴き、たくさん書く、そうしてこそ外国語を学ぶことができると主張される。つまり外国語を口に出すことがもっとも重要だと考えている。最近日本でも町の外国語学校では話すことを、聞き取ることを重要視して駅前留学などと宣伝している外国語学校さえある。

 私の娘は中学生だというのにニュージーランドへ2週間の短期留学の経験を持つ、つまり、英語を使用した生活経験があることになる、中国語には方言が多いことは有名である。大きく分けて北京語、上海語、広東語、福建語と4種類ありおのおの使用される人口も大きく、各言語とも日本語を使用している人口を越えている。上海の人が広東語を1時間聴いても一つの単語さえも聞き取れないぐらいに違う。

 だが文字に表現するとほぼ同一である。このことから中国の方は外国語を学ぶということは話すこと、聴くことだと心得ておられる。だが日本人は書くことが主流になってしまい、読み書きそろばんの順序が入れ替わってしまったようである。昔日本が台湾を統治したことがあるがこのときは決して書くことを重点に教えたわけではない。学校では台湾語の使用を禁止して日本語のみで通した。

 語学の教育の仕方を日本人は知っていたが文部省の影響が大きくいつのまにか学ぶ方法を忘れさせられてしまった。娘に文法などどうでも好いから大きな声で教科書を読んでみたらどうだと忠告するとそれでは試験では零点になってしまうと手厳しい答えが返ってきた。980407



*考え方の違い*2 料理を食べ残す

 中国の方のお宅へおじゃますると食べきれないほどの料理が次から次にとでてくる、大連貿易会社の方と食事をしたときのことだ、彼女のいうにはどうしてこんなに残すのか、無駄の極みだという、だから自宅では食べきれるだけの料理を作ると主張するが、お客さんがこられたときはやはりどうしてもたくさん出さなければならないと悩み残った料理の始末に困り果てるという。

 どうしてこのように考えるのか、理屈はこうだ。ご飯を少しだけ残したとしよう、このことはあなたが作られた料理はとてもおいしいのでたくさん食べた。もうご飯粒一つも入らないくらいお腹がいっぱいになってしまった。

 だからこれ以上食べられない。日本の習慣からするとこうはならない、出された料理は残らず食べる、残したら悪い、まずいから残したと思われる、それでは失礼だ。そうすると日本人が中国人のお宅におじゃまするとどうなるか、日本人はどんどん食べる、すると中国人の方はどんどんと作るかくして日本人のお腹いっぱいになったという悲鳴を聞いてとりあえず終了となる。



 中国人が日本人の家庭にきたときはこの反対となる、中国人の方が食べ残されるのをみてやはり口に合わないのか、どうしようとなってしまう。つまり終了の合図がないことになる。そうすると唯一の解決方法は私は日本人である。だから本日は私が主人なので本日は日本の習慣に従いよろしく頼むと伝える以外にないことになる。



*考え方の違い*1 蕎麦

 台湾の方商用で日本に来られ訪問先の方と一緒に蕎麦を食しに出かけた時のことを私に話してくれた、とてもおいしくて有名で行列ができるほどだという店に日本の会社の方と数人で出かけた。この台湾の方、でてきた料理にとても驚いた、何せ、ざるに盛られた蕎麦とほんの少しのスープだけなのだ。いや、違う、蕎麦の上に刻んだ海苔がほんの少し抱けのっかている。そしてこの蕎麦、何せ味は淡泊でほとんど無いに等しい。この蕎麦をほんのわずかしかないスープにほんのわずかだけ浸して食する。それも雑穀の蕎麦をである。粟、稗、の類が雑穀なのであり、人間が食するものとはとても感じられなかった。と、ため息さえ漏らして語る。

 この台湾の方からみればご馳走を食べに行こうというので行った。さぞや歓待してもらえるものと信じていた。それが雑穀を出されたのではたまらない。喧嘩を売られたのでは無いかとさえ思ったという。だが私は蕎麦が大好き人間である。真心込めて丹精に打たれた蕎麦にうまい『蕎麦つゆ』をつけて食べる。これは絶品である。そう私は考えるが未だに中国の方と蕎麦を食いに行ったことは無い。どう説明して好いのかわからないし、味を理解してもらえるとはとても思えないからだ。

 蕎麦とはタデ科の一年草、実を粉にして後捏ねて細く線状に切った後食べるだけ、蕎麦を麺として食べるのは日本、韓国、中国、ブータンの四カ国とのことである。私は中国に旅をして未だかって蕎麦やにお目に掛かったことがない。


主頁へ戻る 先頭に戻る 前へ戻る