【四郎丸×フゾク:2001.4.22】
フゾクに敵対心を抱いてました
フゾクネタが出てまいりましたので、投稿させていただきたいと思います。
私はフゾクにほど近い四郎丸出身でございます。
フゾク出身の方もおっしゃっていましたが、四郎丸とフゾクは妙に敵対していましたねえ。
歩いて数分という近い距離だったからでしょうか。
敵対する根拠なんぞ、今考えると何もないような気がするんですが。
フゾクの人とすれ違う度に火花が散っておりました。
長靴を拒んだというお話もありましたが、イマイチ長岡人らしからぬ都会っぽい雰囲気をコドモながらに感じとっていたのかもしれませんね。
四郎丸には制服があったのですが、フゾクのそれとは違って、やはり田舎臭かったですし。
羨望が為せる敵対心だったのでしょうか、って負けてるやん。
また、中学(四郎丸は南中に進んでました)の時に、東京から転校生がやってきたのですが数ヶ月でフゾクへと転校していってしまいました。
誰も口には出さなかったものの「ああ、やっぱ東京の人はフゾクに行くんだな」とやるせない思いになったこともありましたねえ。
フゾクは長岡における東京モン、みたいなイメージが今でもあります。
うおー、火花散る『フゾク通り』。っていうか、四郎丸側では『四郎丸通り』? まるで、『日本海』の日本側と韓国側の名称のような。ともあれフゾクが移転した今、この抗争は沈静化したのでしょーか。
【フゾクライフAtoZ:2001.4.30】
どこからがおかしいのかもう判断つきません(フゾク中学卒・20代男性)
うちは割と普通の家庭なのですが、附属に行っていたせいで、
医者・歯医者のうちの友達がたくさんいました。。。
社長のうちとかも、(しかし不況でつぶれた会社もあったなぁ。。)
某××××の娘とか。
金持ち以外で多いのは、教師の子供。です。
附属に関しては、授業の進度やレベルが違うため、
塾でも附属コースがあったりしました。(某TOP進学会)
しかし、ぼちぼちなレベルにすぎないです。
附属でもっともハイレベルな方々はZ会をつかってたりします。
授業のレベルということであれば、附属は試験が難しいらしく、
市立中学と比較するとき、35〜50点増し(5科目500満点で)
にして計算すると妥当な計算になっていました。
進学では、卒業後は長高に行く人間がもっとも多いのですが、
無理をして落ちる者あり、清心に行く女子もあり、
県外に飛び出す者もあり、よくわかりません。
ちゃんとここら辺の高校に行く人もたくさんいます。
たしかに遠距離通学多いです。
川口・堀之内・十日町・小千谷・柏崎など。
途中で新潟市に引っ越したにもかかわらず、
長岡まで通ってたやつもいましたねぇ。。
長岡弁については、ごく普通です。
濃ゆい長岡弁を話すやつは結構いました。
服装についてなのですが、一般的にはそう変わりませんが、
一つ変わった校則がありました。
登下校は制服じゃないとだめなんです。
てことは、部活で疲れ切っていても、ちゃんと制服に着替えて、
下校しないといけないということなのです。
もしこれを破ると、部活の活動停止があると言われていました。
だから、街で附属のジャージを着て歩く人は少ないのですよぉ。
制服はもう一つ。入学すると、イチムラ(もうないねぇ。。涙)から、
制服のご案内がきました。が、変わった制服で。
いわゆるカラーの部分がプラではなく、堅い襟芯でした。
でも、普通の標準服着ていっていいんですけどね。
あと、私が在学中にLL教室をつぶして、パソコン教室に
してました。一太郎の1.2とか、おそろしいソフトを。。
あ、修学旅行は中学は奈良・京都でしたよ。
ただ、3泊4日でした。ほかの学校は2泊3日だったはず。
(余談ですが、奈良で泊まったお宿がしばらく後に全焼し、
クラスが騒然となった、なんてこともありました)
でも、最近行き先を変えたようですね。
これは現在の公式サイトをご覧あれ。
一年の時はスキー合宿なんてものもありました。
池の平でしたね、たしか。
運動会なんてのもポイント。
幼少中で合同なのです。。。大変なんです、これが。
そして、なぜか応援歌が早稲田の「紺碧」と慶応の「若き血」の
替え歌が基本として存在し、、、。
男子棒倒しが結構ハードでした。
私は体格があったということもあり、3年の時は棒持ちをやり、
とっても痛かったです。(涙)
合唱コンクールも一つポイントが。
ピアノ伴奏も生徒がやるわけですが、半分以上は男子です。
各クラスに何人かピアノの上手な男がいました。
教育実習は大変ですね。。
てか、生徒は遊んでますが。
なにしろ、いっぺんに数十人の教生がくるわけですから、
(教生:教育実習に来た大学生のこと)
生徒は教生をだれも特別扱いなんてしてくれません。
むしろ、いじめられます。特に女性の教生が女子の生徒に。
友人(新大教育学部卒)曰く、「友達の女の子が、
実習で附属になっちゃって、がんばって、最終日に、
生徒に『2週間ありがとうございました。お手紙だしたいので、
これに住所とか書いてもらえますか?』と言われ、
感慨に浸りながら書いて渡すと、『でも、本当はこんなのいらないんだ』と
言われ、ショックを受けた」とのこと。
事の真偽ははかりかねますが、小学校だったとのこと。。。
ちなみに、新大で、実習先を選ぶにあたっては、
「附属=スカ」だそうです。
生徒にいじめられ、馬鹿にされ、教官には厳しくされ、、、。
あ、職員室でも、教員室でもなく、教官室なんですよ。そういえば。
儀式なんかも変ですね。
教育学部附属だけあって、卒業式に学部長が来るんですよ。
だから、校長式辞、後援会長祝辞、に加えて、
学部長告辞っつーのがありました。
しかも、生徒で編成される弦楽団なんてのもありましたね。。
小さな頃から習ってた子とかがやるんですけど。
音楽の授業でバイオリンをやらされてましたし。
ん〜、、、思い出すときりがないので、今日はこの辺で。
てゆーか、どこからがおかしいのかもう判断つきません(苦笑)
ではでは。
春夏秋冬網羅するレポートたいへんありがとうございます〜。『ピアノを弾く男子』っていうのはイカニモな! 音楽の授業でバイオリンっていうのもスゴいなあ。ジャージ登下校禁止といい、ほかの『市立』とは一線を画すフンイキがありますわ。応援歌は、私の通ってた『市立』でも、やっぱり『コンバットマーチ』とかパクってましたが(笑)。
【ちょっとした誤解と四郎丸モンダイ:2001.4.30】
『フゾク』名称に関するちょっとした誤解と、四郎丸モンダイに関するフゾク卒業生さんの考察。
新潟大学教育学部(今は、人間科学部)附属長岡中学校
「フゾク」は、新潟大学教育学部(今は、人間科学部)附属長岡中学校と言うのが本当の名前です。
よく、「長岡附属」だと覚えている人がいますが、教育学部の附属であって、長岡の附属ではないのです。
そして、「付属」ではないのです。
附属の人は、個性を十二分に発揮していますが、変な人はいないと思います。
どんなに人が集まっていても、自分を表現できる、その強靭な?心が=変な人 かもしれませんが。面白い人いっぱいで、楽しいところです。
四郎丸学区に住んでいる子供が、多く附属に行ってしまうのは、たしかに、四郎丸からしてみると「裏切り者〜!」という感じがするかもしれません。
しかも、少し前まで、四郎丸も同じような制服を着ていたし。
フゾクに「孤高の小学生(中学生)」ってムードがもっとあれば敵対心はなかったのかもしれません。
「なんで、あんた、フゾクなの?」って感がぬぐえないから、ライバル視しちゃうのかも。
【行革の波紋:2001.5.5】
先日新聞に
先日新聞に載っていたのですが「国立大学の附属小中学校統廃合へ」なる記事を見かけました。新潟大学も文部省の同一県内に教育学部は複数要らない(上越教育大学があるため)との方針により人間科学部に改組されたようですが今回の記事で教育学部附属でない小中学校(全国9国立大学の附属学校)は統廃合の対象になるとか書いてありました。新大附属長岡がこれに該当するか知りませんが行政改革の流れのなか先行きは安泰ではではないようです。国立大学の独立行政法人化も近いですし・・・・
フゾクに迫るかつてない危機。「今回は絶対匿名で!(附属関係者に狙われるので・・・)」と投稿者さん談でございます。文字化けもなく届いたので、このたびは検閲をパスしたのではないかと(笑)。
【謎の陸上部:2001.5.5】
某市立中学陸上部ご出身のかたより。
ユニフォームが少なくとも4デザイン
わたしがフゾクと聞いて思い出すのは、フゾク中陸上部のユニフォームが少なくとも4種類くらいデザインがあったことでした・・・。わたしは中学生のころ、陸上部に入ってたのですが、たまに陸上競技場で大会があるわけなんですよ。そこで見かける「附属長岡」と書かれていた(かどーかイマイチ記憶が定かではありませんがたぶん書いてあった)ユニフォームは、わたしが見ただけで@黄色、A黒か紺、B黄緑、Cあとなんだっけ?青かな?の4デザインがあったと思います。「さすがフゾク…」と思っておりました。
高校に入って、フゾク中から来た友達にそのことを聞いてみたところ、返ってきた答えは「フゾクに陸上部はない」とゆうものでした。「はぁ?」と思ってよく聞くと、毎年、市内大会の時期になると、足の速そうな人とか、そうゆう上位を狙えそうな人を校内で選抜するらしいのです。つまり、フゾクの選手は、普段は他の部に所属している人たちだとゆうことです。ここからはわたしの推測ですが、たぶんそういう選抜者について、毎年違うユニフォームを作るんではないかと…。真偽のほどはわかりませんので、フゾク卒業生さんの意見を待ちたいところでございます。
おお、チーム全員が助っ人! バラバラのユニフォームは、それぞれの本来の部活のジャージでは? 剣道部のヒトとかが防具つけて走ってたらコワいですが。
【近距離通学者:2001.6.1】
遠距離通学者が多いと言われるなかで、こんなヒトも。
南中に通うより近そうだから
私(男)は中学校のみフゾクでした。理由はただ一点、「南中に通うより近そうだから」という不純なものでした。
フゾク構成員は、確かに医者や社長のご子弟が多かった気がします。
某イタリアン飲食店の娘さんも同学年にいたような。
覚えている事と言えば、
1:運動会がフゾク校園全体で行われていたので、幼稚園児もいた。
可愛いなぁと思ったけど、冷静に考えると時間の無駄。
2:「環境の部屋」と呼ばれる部屋があったような。ただの物置なんですが、なぜそう呼ばれていたんだっけ・・・
3:いわゆる生徒会が「学友会」と呼ばれていました。しかもその歌「学友会歌」ってのがあって、結構変な旋律だった。でも好きでした。
4:中庭に謎の池がありました。なんに使うんだ?
5:ナガオカ高校に進学する人が主流だった気がします。前年に国際情報とかが出来てそっちに行く人、ラサールに行く人などいろいろでした。海外留学するなんていう、リッチな人もいた気がします。私はここで上げた何処にも行けませんでしたとも(泣
思い出すと、結構懐かしいものですね。
【帰ってきた少女:2001.6.1】
フゾクから生還したばかりの少女の声!
附属って本当にあったんだ
私は、ここ最近付属中を卒業したばかりのものです。
そして今現在花の高校生(?)をしてます。
高校に入って驚いたんですが、みんな大抵附属の名前は知っているのに場所は知らない人が結構多いんです。
自己紹介のときなんか出身校を名乗ったら、珍獣を見るような目で見られました。
わけを聞くと
「なんか附属に通っている人はじめてみた。附属って本当にあったんだ。」
そんなに附属は特別視されていた(!?)なんてびっくりでした・・・。
外見は、すごそうですが、実際学校生活を送ってみると大してほかの中学校と変わらないと思います・・・多分。
私は小学校から附属なんですが、入学する前は、附属では“お父さん・お母さん”を“お父様・お母様”と呼ぶよう強制されると、仲のよっかた子から聞いて、たいそう怯えてました。今思うととてもアホ臭い自分に笑えますが、当時は必死だったんです。
在学中から私も気になっていた陸上部のユニホーム、何であんなに種類盛りだくさんなのか今も気になります。
副校長が何でいるか?についてですが、副校長ってのは校長が普段、いや、滅多にいない(学部の教授なので大学で授業をしている)ので職務代行のためにいるらしいです。
【フゾク少年合唱団:2001.6.17】
謎多きフゾクのなかの、さらなる謎集団。
フゾクにもあった少年合唱団
若草合唱団の話が出ましたが、フゾクにもあったんですよ。
その名も「少年合唱団」。
「少年」と言うだけあって男の子しか入れないんですね。
先生も当時は男の××先生でした。
みんなが給食の準備をしている時間帯に練習をするんです。
だから、確か少年合唱団の子は給食当番を免除されてしたと思うし、当然のように給食に遅れてくるわけですよ。
なにぃー
男しか入れない?
給食当番をやらないだと?
今じゃ考えられないようなサベツが当時のフゾクにはあったんですね。
どーゆー意図で結成されたのかよくわからない『男の園』。なぜ給食寸前に練習してたのかも謎ですねー。腹へってるときのほうが声がよく出るのだろうか、少年って。
【Re:近距離通学者さん:2001.6.23】
ありがたい補足投稿〜。
近距離通学者さんの投稿を読んで
「環境の部屋」は、「環境委員会の物置」で、教室の4分の1のサイズだったと思います。とにかくサンポールがたくさん置いてあって、掃除の時間に委員長自らトイレ掃除の人に分けて歩いていました、私のときは。
「学友会歌」の旋律が変なのは、生徒から詞と曲を募集したからだそうです。募集当時、あの曲のように、途中で変調するのが若い子の間で流行っていたそうです。「キャンディ・キャンディ」っぽい。……学友祭楽しかったな〜。お化け屋敷がんばったな〜。
「中庭の池」は、小学校の中庭にも池があって、そっちの方はちゃんと鯉か何かが住んでいるんですよ。中学校の方は、ため池状態で、たま〜に、気の効いた男子10人くらいがデッキブラシで自主的に掃除していました。理科の「水の中の生き物」の学習の時、その池から各種「藻」を採取し、プレパラートを作った覚えがありまーす。
池が藻類グリーンに染まるのはどこの学校も一緒なんでしょうねー。トイレ掃除に「サンポール」といい、意外に庶民的な。
【Re:フゾク少年合唱団:2001.6.23】
これまたありがたい補足投稿。なんと、少年合唱団の少年(あたりまえ)だったというかたより!
ついに少年合唱団まで
ついに少年合唱団まで明らかにされましたか!
今回のメールの発信者はいつ頃の人なんでしょうか?
私が小・中在学中の音楽担任は男しかいませんでした。
今を思い起こせば私が小学校4or5年(昭和34年頃)と記憶しています。
4・5・6学年?より10〜15名ほどが音楽室に集められ、いきなり「合唱団を作る」と宣言され自動的にやらされた記憶があります。
昼休みどころでなく、夏休み、毎週土曜日曜休み無く(これは何かのコンクールの前だったか)練習した覚えがあります。
たぶん創立時のメンバーの一人と思います。
女の子がいなかったのは、このときの音楽の担任が音質のバランスのため、男だけにしたのではないかと思います。
その証拠といっては何ですが、パートはバス、テナー、アルト、ソプラノとちゃんと4部で編成していました。(ちなみに私はソプラノでした。)
この頃の思い出としては、新潟で開催された全国学校音楽コンクールなるものに出場(長岡からは宮内中学校と我が小学校だった記憶があります)新潟大会の優勝校は新潟の学校で、参加賞に乾電池(スポンサーが湯浅電池だった)をもらった思い出があります。
私の子供の時代は女子だけの合唱部になっていました。
昔の記憶で書いているため、一部危ないところもあるかもしれません。
とりあえず情報まで。
【四郎丸6年生の葛藤:2001.6.23】
雪玉飛び交うナガオカの危険地帯・四郎丸×フゾク。しかし、当然ながら、四郎丸小からフゾク中学に進学する子もいるわけで…。
6年生になると掌を返すように
私も附属中学校出身です。さらに、四郎丸小出身です。思いつくままに書いてみました。
四郎丸小と附属小はその当時(当時は今の帝京高校のところにあった)既に仲が悪かったですね。私は小学校5年生の時までは、冬の帰宅時「附属は生意気だ!」と雪合戦をけしかけていたことを覚えています。なぜ、生意気かという理由は忘れてしまいました。しかし、進学したときに同級生になるかもしれない連中と無用のトラブルは控えておいたほうが良いという理由から6年生になると掌を返すように辞めてしまいました。ところで、今でも仲が悪いのですか?
私は、附属を今から約20年前に卒業しました。その当時陸上部はありましたよ。今は無いのですか?たしかに、当時から人数は少なく市内の陸上大会には他の部から借り出されて出場する人もいましたよ。私が3年生の時は,同級生にバケモノのような人(本籍は排球部)がいて、走り幅跳びで市内記録を出して優勝してしまったのを覚えています。他の部もそこそこ強かったのを覚えています。特に軟式テニスは結構強かったのを覚えています。
今はどうか知れないのですがその当時もやはり、教師・医者・地域経済の大立者の子息・息女が多かったですね。××鉄××の娘さんや、×××酒×の跡取息子さん、××医院の息子さんといった具合にすごかったですね。今でもそうなんでしょうか?
最近は教育熱が高まって附属に進学させたがる親が多いと聞きます。でも、エスカレーターで高校・大学へ進学できるわけでは無いのですから不思議に思います。
私の時で長岡高校(当時、国際高校は無かった)に70人くらい進学した記憶があります。でも、みんな一生懸命勉強して試験を受けて入った分けですから他の中学でも一緒のように思います。
ところで、今は、修学旅行はどこに行っているのでしょうか?私の時は東北旅行に3泊4日で行った記憶があります。なぜ東北(仙台,平泉)かというと、その当時の高校は関西方面に修学旅行に行くところが多く、高校で関西方面に行くのに中学も同じ方向では勉強にならないという理由からでした。しかし、長岡高校ではその年修学旅行が廃止されてしまった為、私は京都・奈良というのは大学の時に初めて行ったのです。
【外川踏切の戦い:2001.7.7】
フゾク生をおびやかす新たなる敵。
ブゾクVS南中
「フゾクVS四郎丸」という図式ノ他に、「ブゾクVS南中」もあるんですよ。
しかもフゾクの方が圧倒的に肩身が狭いところが。
それは外川踏み切りです。
登校時、千手からフゾクに通う私は、外川踏み切りで、大量の南中軍団とたった1人ですれ違うのです。白いかばんを斜めにかけた南中軍団は、声高に列をなしてしゃべりながら歩いてきます。私は、1人その波に逆らってフゾクへ向かうのでした。
正直こわかった。
当時派手な感じの男の双児がいたんだよね、むこうには。
気味悪いスキーウエアを、男のくせにおそろで着ておりちよっとパンチっぽい髪型だったような・・・。
ガンつけられたらどうしようって。
しかし、赤城神社くらいまで行くと、がぜん元気が出て来ました。
駅方向からくる味方の数が多くなり、勢力が逆転するわけです。
【外川踏切の戦い 其の弐:2002.3.16】
伝説の地・外川踏切に飛び交うさまざまな思惑……。
ごめんなさい
イジメてました>附属中
しかも私は通学の時、戸川踏切を通っていました。
なんかムカついてたんですよ。やっぱり妬み?のようなものがあったのだと思います。
附属の人を見つけてはからかったりした記憶がありますね。本当にごめんなさい。
附属と南中は近かったせいもあり、妬み倍増(笑)だったのではないでしょうか?
因縁の四郎丸出身者も南中に行く、という事も関係しているのかもしれません。
南中は街中にあるため、四郎丸、千手、サカノウエと都会?(笑)でマンモス校の子が多く、長岡の中でも多少なりともハイソ?意識があったのではないでしょうか?
そんな自分たちより上っぽい?附属が「なんかムカつく」と・・・その様に推測します。